Page6 : 悲歌

       ◇◆◇◆◇


 背後から聞こえた轟音に振り返ることもなく、丸ト円は必死に足だけを動かすよう努めた。もとよりそれ以外を気にかける余裕もなく、生存できるか否かは、着々と減っていく自身の生命力をどれだけ振り絞れるかに懸かっているようにも思えた。

 傍らで絶えずかけられる清崎からの言葉。それに応える余力はとうにない。


 自身の身体から放出される血液が、床を絶えず濡らしていく。痛みは全身へと拡がり、正直なところその正確な所在はもうよく分からない。顔に酷い傷を負っていることはなんとなく理解していたが、そんなことすらもうどうでも良かった。

 おそらく、自分たち以外は全員死んだ。確証はないが第6感がそう告げている。

 自分も着々と死に向かっている。その実感だけがやけに色濃く我が身を焦がす。死神の魔手が、心を摘もうと頻りに手招いているのが分かる。


 それでも円は生き続けている。彼を生かす原動力はただひとつ。バケモノ共へ対する黒々とした憎悪それきりだった。

 奴らを駆逐し尽くしたい。そんな衝動が、円の足を前へ前へと進ませていく。落命することは殺されていった彼ら彼女らへの裏切りであり、諦めることはバケモノ共を許してしまうことを意味していた。そんなことは絶対にあってはならない。奴らを許してはならない。


 廊下を進み、突き当りを左へ折れる。

 半開きになった扉が目に留まり、そこに入るよう清崎に合図する。一刻も早くここから脱出せねばならなかったが、それよりも先にこの出血を抑える術を得たかった。失血で命を落とすなどという間抜けだけは、絶対に避けねばならない。部屋を探れば布の1枚くらいは調達できるだろう。包帯かテーピングの類があれば言うことはない。


 考えながら、清崎の介助を受けて部屋に入る。

 瞬間、正体不明の悪寒が円の全身を総毛立たせた。入ってすぐの地点、白いカーテンで仕切られた向こう側、幾つもの影がうごめいているのが分かる。

 バケモノか、或いは……――と考えているうち、視界の端から伸びてきた清崎の腕が、件のカーテンを払いのけた。


 そして円は戦慄する。


 そこには幾人もの若者たちがいた。年端としはもいかぬ少女、あどけなさの残る少年、目を伏せた青年、頬に涙を留めたうら若き女性。

 彼ら彼女らは皆ワイヤーで四肢の自由を奪われており、そしてその肉体には凄惨な拷問の痕が刻まれていた。タイル地の床には強引に剥がされた生皮や力任せに引き抜かれた犬歯が散らばり、凝固した赤黒い血液がそこここにこびり付いている。


「なんだよこれ……どうして、こんな」

 腹の底から込み上げてきたものを、円は成す術なく床に吐き出した。逆流してきた鼻水と胃酸が口内で混じり合い、それがさらに溢れ出る血液と攪拌シェイクされる。

「地獄だ。これは、ここに、地獄が、なんで」


 意味を成さない言葉であることは自覚していたが、なにか発していないと今にも狂ってしまいそうだった。

 清崎は感情を押し殺したままきびすを返し、無言で円を導いていく。強靭な精神力だ――と円は畏敬の念を禁じ得ない。あれほどの光景を目にしたというのに、悲鳴はおろか弱音ひとつ吐きやしない。心が鋼でできているのか、はたまた心そのものを失くしてしまっているのか――。


 思った刹那、円の半身に鈍い衝撃が奔る。

 バランスを崩して身体がふわりと浮き上がり、そこでようやく何者かに押されたことを悟る。急いで視線を移すと、そこにはスーツを身にまとったバケモノの姿があった。禍々まがまがしい青紫の人型。頭部には一対の角が生え、粟を喰ったような顔面の中、充血した巨大な両眼はいやに血走っている。

 清崎は――と円は咄嗟に振り返る。突き飛ばされた勢いで倒れ伏す彼女の姿を捉える視界。その一方で、尚もすがりつくバケモノの息遣いが耳朶じだを打つ。


 ――ここまでか。


 思うと同時にバケモノを蹴り飛ばす。もう力などほとんど残ってはいない。弱々しい円の蹴りは、無論虚しく空を掻く。


「おら、逃げんなよ!」


 荒々しい声と共に身体を引きずられる。自身の服を掴んでいるバケモノの手。その腕を逆に掴み、すがりつこうとするがそれは叶わない。

 バケモノを前にして、力を宿すのは声しかない。円は戸惑いを露わにする清崎をじっと見据え、力強く叫んだ。


「行け!」


 怯えからか、あるいは未練からか、それでも彼女は動かない。

 口内から溢れ出す鮮血、膿んだ視界、とまらない全身の震え。それらが混然一体となった極限状態の渦中で、円は熱い息を吐く。そのどす黒い熱気に乗って、短い言葉が清崎の鼓膜を震わせる。


「為せば成る。僕たちの無念は――君が継ぐんだよ」


 くらくも強き言葉を受け、よろめきながらも立ち上がった清崎はやがて、固く目を閉じたまま走り出した。

 その背中を見届けながら、円の意識は次第に薄らいでいく。

 自分に生きる意味があったとしたら――と、円は考えている。

 清崎を生かすため、彼女に復讐のバトンを繋ぐために、自分は存在していたのかもしれない。担い手は清崎で、繋ぎ手が自分だったのだとすれば、どうしようもないこの展開だってやけにさっぱり腑に落ちる。ならば彼女が、清崎が、自分たちの中で褪せることなく燃え続ける怒りと無念をきっと晴らしてくれるだろう。そうでなければ犬死にだ。彼女なら、きっとやってくれるはずだ。


「絶対に生き残すんじゃないぞ……清崎楽陽」


 円は奥歯を噛み締めると、黒滔々こくとうとうとした闇の中へ、自らの意識を投げ出した。

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