Page5 : 悲嘆

 扉が開ききるのを待たずして、何体ものバケモノたちが雪崩れ込んでくる。

 轟音と共に押し寄せる2足歩行の小鬼や半人半蛇の魑魅魍魎ちみもうりょうの群れに、涼成は自身の脳内が白く塗り潰されていく感覚に襲われる。

 浅くなる思考力と酷い喉の渇きを意識下から速やかに追い出し、やるべきことだけに集中するよう努める。目の端にある丸トと清崎はすでに死を覚悟しているのか、それとも集中の極致へ達しているのか、完全なる無表情のまま事態の推移を見守っているようだった。


 程なくしてなにかがすり潰される嫌な音がし、続いて濡れたなにかがぶつかり合う音が複数回鳴った。遅れて甲高い悲鳴や絶叫が方々から上がり、それらがいびつに交じり合う。まさに地獄絵図。


 涼成は視線を前方へ固定したまま、耳を塞ぎたい衝動に必死で抗っていた。振り返るな、振り返るな――と言い聞かす。もし1度でも振り返ってしまったら、その地獄を見てしまったら、もう2度とまともな人間ではいられなくなってしまう。涼成の第6感はそう確信していた。


「ひどい」


 隣で上がった呟きが、やけに確かな響きをもって涼成の耳朶を打つ。丸トの声には確かな絶望が息衝き、その語尾は弱々しく震えていた。

「見るな」と、制する気力もなく、涼成は頬を伝う汗もそのままに扉の先を凝視する。先の廊下は扉を正面として東西へ伸びており、バケモノたちは揃って西側から室内へと駆けこんでくる。

 扉が開いてから約5秒。バケモノのいずれかがこちらに気付くのも時間の問題であろう。行くしかない。


 バケモノの群れが途切れた刹那、涼成は対面にいる清崎に目だけで合図を送る。伏し目がちに丸トを窺うと、彼も涼成を見て首肯した。しかしその両目には、幾らすすいでも流せそうにない心的外傷トラウマの痕がありありと刻み込まれていた。


 姿勢を低く保ったまま、自分でも驚くほどの俊敏さで扉の横をすり抜けた涼成は、廊下を東側へとひた走る。後に続く2つの靴音を耳裏に捉えながら、突き当りまで来たところで壁に背をつける。少しだけ顔を出し、曲がり角の先を窺うと、100メートル程の地点にいた2体の小鬼が、こちらへ歩いて来るのが見えた。一糸纏わぬ姿の小鬼たちは、何事かを話しながら口許に笑みを浮かべている。油断していることは明白だった。


 選択に迫られた涼成は自然、奥歯を噛み締める。


 隠れる場所はない。やり合うしかないのか――だが、最初の部屋で試した通り、バケモノに触れることはできなかった。いや、ならば逆に奴らも、俺たちに触れることはできないはずだ。


 そこまで考えた時、悲鳴と絶叫に入り混じる先程の音を思い出す。

 紛れもなくあれは生き物を殺す音。人間を壊す音だった。それはつまり、俺たちが奴らに触れることは不可能であるが、奴らから俺たちに触れることは可能である――という理不尽な事実を意味している。この仮説が合っているとすれば、それすなわち最悪なアンフェア。戦いもクソもあったものではない。

 やはり1度引き返して西側へ進むべきだろうか。振り返った直後、異常を悟る。

 丸トの姿がない――!


「うわぁっ!」

 絞り出した声と共に、丸トが前方の小鬼へ向けて駆けて行く。その様が見えた。脳が軋み、喉からおかしな音が出る。

 ――やめろ!

 そう叫ぼうとする涼成だったが、想いは声に変換されることなく、短い吐息となって虚しく消えた。

 丸トの声に素早く反応した小鬼たちは、彼を迎え撃つ格好で姿勢を低くする。両腕を開き、掴みかかる体勢。露わになった指先に鋭い爪が光っていた。

 即座に駆け出した涼成と猛進する丸トの距離はおよそ20メートル。追いつくには遅く追いすがるには遠すぎる。


 ――間に合わない。


 そう悟った刹那、小鬼の1体が動いた。走りながら両腕を振り上げる丸トを冷めた目で捉えつつ、隆々りゅうりゅうと血管の浮くその腕を横一線に振る。

 風を切る音。続いて飛沫しぶきが壁へと跳ねる音がし、丸トの悲鳴が響き渡るのを待たずして、さらにもう1体の小鬼が彼の腹部に爪痕を刻んだ。

 身体中が真っ赤に染まった丸トは、されるがままとなり、やがてあらぬ方へと飛ばされる。


 涼成の視界の内では、それらの一切がスローモーションとなって流れていた。小鬼の挙動、中空を舞う丸トの肉体、そして走り続ける己の身体――めまぐるしく回る思考とは裏腹に、入ってくる情報からはみるみるうちに速度が抜け落ちていく。

 不思議な感覚だった。束の間、涼成の意識は深手を負ったであろう丸トの安否から、今までにない未知のへと引き寄せられていく。

 抗いがたい引力へと身を委ね、集中し、いつの間にか閉ざしていた目を開けた時、小鬼はすでに目前へと迫っていた。


 ふと、すでに自分が拳を振り上げていることに気付く。

 ならばあとは振り抜くだけだ――と涼成はぼんやりと思う。

 いつからだろうか。彼の口からは雄叫びにも似た声が発されている。

 バケモノにこちら側から接触することはできない。そんな事実などすっかり忘れて、思考するよりも早く、涼成は固めた拳を思い切り叩きつけた。


 鈍い音と同時に、確かな手応えと少しの痺れが拳を伝い、衝撃が瞬時に肩へと這い上がっていく。小鬼は殴られた勢いのまま文字通り吹っ飛び、近くの壁に背中を打ちつけ動かなくなった。

 残された小鬼のもう片割れが涼成を見る。その瞳には驚愕と畏怖とがありありとあらわれていた。


「あれ……殴れるじゃん」

 呟いた涼成の目にぎらついた光が宿る。

「殴れるじゃん!」


 言って残された小鬼の腹に右ストレートを叩き込む。

 小鬼の顔面はたちまち苦悶に染まり、身体をくの字に折って膝から崩れ落ちる。足許まで下がったその側頭部にすかさず蹴りを入れてその場に沈めると、今度は壁際にうずくまる先程の小鬼を無茶苦茶に踏みつけた。


 すべての攻撃が、小鬼たちを傷つけることに成功していた。裂けた皮膚からは墨のように黒々とした体液が溢れ出し、涼成の攻撃に応じてそれらは周囲に飛散する。


「清崎、ぼさっとすんな! 丸トを連れて早く進め!」

 涼成の声を受けて弾かれたように走り出した清崎は、もはや赤い麻袋と化した丸トの許へと駆け寄った。

「大丈夫?」と、言いかけて言葉を失う。

 腹部に深々と穿うがたれた傷跡も去ることながら、清崎の目は殊更ことさら彼の顔面に釘付けとなる。

 男性離れしたその美貌はもはや見る影もない。美しい曲線を描いていた唇は右の端が無残にも引き裂かれ、さながらいびつな笑みの形で肉の華を咲かせていた。

 裂かれた傷は頬にまで達しており、そこから呼気と共に噴き出す血液が、皮肉にも丸トにまだ息があることを伝えている。


「早く行け!」

 涼成の念押しに背中を圧され、彼女は丸トの身体を抱き起こす。弱々しくではあるものの、丸トは自らの力で立ち上がらんと身体を強張らせていた。その力を補助するような形で肩を貸し、清崎は遅々たる歩みを再開させる。

「早く行けって、逢坂さんは?」

「ここからは別行動だ。心配すんな。他の奴らを片付けてから合流する」

「でも」

「いいから、お前は丸トを護れ」

 躊躇う清崎へ振り返ると、涼成はそれまで尖らせていた眼光を片時緩ませた。

「3人で生き残って、美味い飯でも食いに行こうぜ」

 返す言葉が思いつかず、清崎は大きく首肯し身をひるがえらせた。


 1人残った涼成は、ひと際大きな動作で拳を掌に打ちつける。

「おら、じゃんじゃん来いやバケモノ野郎!」

 言った刹那、視界の端にあった両開きの扉が轟音と共に破られた。呆気にとられた涼成はしかしすぐさま我に返ると、砕かれた扉の内へ目を凝らす。


「惜しかったねぇ。ざんねん、ざんねん」

 そこから姿を現したのは、下駄に着流し、青白い肌に巨大な口を有したデタラメな巨体だった。流暢な日本語を話しながら、なぜか満足そうな笑みを浮かべていたバケモノは、やがてそこに立つ涼成の姿を目で捉える。

「あれれ」

 そう呟くと同時に、横合いに倒れ伏す2体の小鬼に視線を泳がせた。


「驚いたな。完全にじゃないか。今回は豊作だねぇ」


 バケモノが言葉を喋っている――戦慄する涼成は自然、自身の拳に力を込める。突如として現れたこのバケモノが、先程の小鬼よりも遥かに難敵であろうことは明白だった。

 倒れ伏していた小鬼のうち1体がよろよろと立ち上がり、巨漢のバケモノへと歩み寄る。


「おかしいです。あいつ、どうして俺たちに攻撃できるんでしょう?」

「君たちのような新芽は勉強不足でいけない。無知は罪だよ、まったく」

 巨漢のバケモノはその視線を涼成へと戻し、ギョロリと気味の悪い目をわずかに細める。

「あの髪色。黄緑だが、見たところ色調は緑に寄っている。龍翠リュウスイ珀樂ハクラク混色ハーフだね。龍翠は触覚に宿るから、早い段階で僕らに触れられるのもおかしくはないよ」


 意味の分からない会話を交わしているバケモノたちの付近、涼成は信じられないものを見た。身体が硬直し、脳味噌が弛緩する。視覚が捉えたとある情報の処理を、彼の脳は必死に拒んでいた。


 床に誰かが横たわっていた。見覚えのある体格、見覚えのある服装。しかしその身体には、本来あるはずのものがなかった。首から上、つまりは頭部が欠けていた。

 あるはずの頭を求めて彷徨う涼成の視線は、やがて巨漢のバケモノへと吸い寄せられていく。その両手は、なにかを掴んでいた。嫌な予感がした。


「……マジかよ」


 左手には、先程まで一緒だった神楽耶美彩の頭部があった。長髪を乱暴に掴まれた彼女の表情は諦念を湛え、その頬には涙の痕が這っている。身体から無理矢理引き抜かれたのか、首許からは白い背骨の一部が伸びていた。

 右手には、先程まで一緒だった東宮奏の頭部があった。彼は苦悶の表情を浮かべたまま、想像を絶したであろうその苦痛を永遠に留めている。


 脳内が無数の泡で満たされていき、それらが一斉に弾けた。

 歪む景色と色を失くした世界の中で呼吸も忘れ、その肉体だけが、達すべき目的に向けて滑らかに動く。

 涼成はその瞬間、自身の感覚の一切がひとつとなり、綺麗に調和し、純粋な殺意となっていくのを感じていた。

 視界が物凄い速度で巨漢のバケモノへと迫る。


 迫る。


 迫る。


 そして――。


「冷静さの欠如は精彩の欠如だよ」


 次の瞬間、涼成の視界は無機質な天井を映し出していた。

 いったいなにが起こり、どう決着が着いたのかも分からないまま、彼は酷い疲労感に襲われ、やがて目を閉じた。

「ちょっと休んだら行くからな……待ってろよ」


 彼は2つに分かれていた。天井を仰ぐ上半身から離れること10メートル。彼の下半身はそこにあった。切断された2つが再び1つになる日は、果てしなく遠い。

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