Page4 : 悲恨

 眼下からはなんの音も聞こえてはこない。否、心臓の鼓動がけたたましく鳴っているせいで他の音が上手く聞き取れない。鼓膜に水が張っているような感覚で、周囲の音が酷くぼやけていた。

 それでも奏は進み続け、手を引かれる神楽耶もまたその意思に続く。

 猫井真子を殺した妖怪の動向は分からなかったが、依然として死体を眺めているわけはあるまい。すでに部屋を出たか、それとも――と給排気口を振り向く。そこに妖怪の頭部が覗いていたらと背筋が凍ったが、幸いそんなことはなかった。


 次なる明かりを目指して進む。今の奏にできることはそれしかなかった。

 音を出すこと自体に過敏になっているのか、それとも心が折れてしまったのか、後方の神楽耶は無言を貫いている。目の前で同年代の人間が殺されたのだ。それも異形に。そうなるのも仕方がない。むしろ、こうしてある程度の冷静さを保っている自分の方が異常なのかもしれない、と奏は思う。

 順応性が高いのか、単に薄情なだけなのか――いずれにしても戦地なんかにおもむいて真っ先に武勲ぶくんをたてるのは、自分のような人間に違いない。冷静で薄情ですべてにおいてどうでもいいと考えているような、そんな非情な人間。

 そこまで考えた奏はゆるゆると首を振る。目の前の事態に集中しろ。自分で自分に負のバイアスをかけてどうする。


 進んだ先――幾つかの光が奏たちの足許に現れたが、そのどれもが蛍光灯の煌々たるものであり、その付近には人間のものとは別の、異形の足音が絶えず鳴っていた。

 目指すべきは月明り。誰もいない部屋の窓から出て、そのまま壁伝いに脱出を図るのがセオリーだ。理解不能の妖怪たちと相対するよりは、落下のリスクに賭けるベットする方がマシだ。


「――あそこ」と、耳許で声が鳴る。思わず両肩がビクッとなるが、なかったことと誤魔化して口許だけの笑みで応える。

 神楽耶の指差す方を見ると、彼方に光が射していた。それまでとは違いぼんやりと、どこかうらぶれた表情の光だ。間違いない。求めていた光である。

「行こう」

 わずかに湧いた希望をかてに痛む膝を前へと進める。見飽きた景色と抜け落ちた感情を引きずり辿り着いた給排気口。そこにすがりついた奏と神楽耶は、じっと息を殺して気配を窺った。

 目立った音はない。限られた視界ゆえ光源の正体は知れないが、部屋に何者もいないのであればクリアだ。猫井の作法にならって蓋を外し、意を決して飛び降りた。


 部屋は広く、初めの部屋と同等かそれ以上のスペースがあった。

 一通り室内を見渡し、奏は自らの失態を悟って舌打ちする。部屋には窓がなかった。淡い光の正体は3つある出入口の上部に取り付けられた非常口を示すあかりのものであり、それらから発された薄緑の光で、部屋は異様な不気味さを醸し出している。

「よ……様子はどう?」

 神楽耶の声に返す言葉を生み出す直前、奏の両目は部屋中に等間隔で並ぶ無数の診察台へと向いていた。数にして50ほどあるそれには、皆一様に白いシーツがかけられている。純白を保っているものもあれば、部分的に茶色く染まっているものもあり、その差異が奏の中にある嫌な予感を助長させた。


 おそるおそる歩み寄り、手近な位置にあった診察台――そのシーツの一端をめくってみる。

「……なんだよこれ」

 思わず声が出た。

 そこには自分と同いどしくらいの青年が横たわっていた。生気は感じられず、胸の中央には野球ボールがすっぽりと通るほどの穴が開いている。


「ねえ、どうかした? 逃げられそうなの?」

 不安げな神楽耶の声に反応する余裕もなく、奏は目の前の現実から逃れたい一心でかけられたシーツを次から次へとめくっていく。しかしその行為は、残酷な現実をいっそう克明にするばかりであった。

 死体、死体、死体――診察台の上に安置された若者たちはすでに息絶えており、片腕のない者や頭部と胴体が繋がっていない者など、そのどれもが様々に暴行された痕跡こんせきを残していた。

 奏の後方でタンッ、と軽やかな着地音が鳴る。

 我に返った奏が振り向いた時にはすでに遅く、待ちきれなくなった神楽耶が呆気にとられた表情で室内を見回していた。


「なに……みんな、死んでるの?」

「来ちゃだめだ……!」


 言ってみたところですでにあとの祭り。彼女の手を借り引き返す術が断たれた今、再びダクト内に戻る手立てを早急に考えねばならない。

 しかし、奏の思考は別のところに引っ張られている。

 殺すことが妖怪たちの目的ならば、その遺体をこんなふうに安置しておく意味が分からない。後々まとめて処理するため、一時置き場としているにせよ、わざわざ診察台の上に1体1体置き、上からシーツまでかけておくなど、扱いがあまりにも丁寧過ぎやしないだろうか。


「いったい……なにがしたいんだ」

「ユーモアだよ」

「ユーモア?」


 オウム返しに言ってから、奏は事態の危うさに気付く。

 弾かれたように振り向くと、部屋の出入り口付近に、先程の妖怪が立っていた。猫井真子を惨殺した、あの妖怪だった。


「皮肉なものだね。ユーモアは君たちが発明したものだろう? ただ肉体を蒐集コレクションするだけじゃあユーモアがないからさ。僕たちは、ここに集める前に愉しむことに決めているんだ」

「愉しむって、なにをだよ。これのどこが……ユーモアだって言うんだよ」


 奏の問いかけに、妖怪は巨大な口で醜く笑った。


「痛みと絶望の中で終わっていく未来ある命――暴力が生み出す笑いが分からないなんて、君にはまったくセンスがないね」


 妖怪の不格好な両腕には、上半身と下半身に分かたれた猫井の身体が握られている。下半身の断面からは解放された直腸が床に垂れ、上半身からは赤黒い臓器の一部が覗いていた。


 それを見た瞬間、奏の視界が真っ赤に染まる。


 ――為せば成る。


 猫井真子の言葉が脳裏に響く。絶命の直前であっても、猫井はついぞその信念を曲げることはなかった。短い時間ではあったが、彼女はまぎれもなく、英雄だった。


「殺す」


 奏の発した呟きが、部屋に重い静寂を生む。


「お前は殺す。骨のひとかけらさえ――残しはしない」



       ◆◇◆◇◆



 時は、猫井真子が絶命する直前までさかのぼる。


 初めの部屋に留まった逢坂涼成は途方に暮れていた。

 少し揺さぶれば呆気なく目を覚ますと思っていた人々は、存外深い昏睡に陥っているようだった。自身の目覚めはすんなりとしたものであったのに加え、先に東宮や猫井が起きていたことからすっかり甘く見ていた。

 責任感から生じる焦りによってしばし立ち尽くした涼成は、倒れ伏す無数の人々をぼんやりと見渡している。静寂に包まれた室内の様相はまるで死屍累々ししるいるい。目覚めの気配は微塵もない。

 まるで意図的に、昏睡と覚醒を操作されているかのようであった。


「こんなんだったら、東宮に起こすコツを訊いとくんだったぜ」


 腕組みしながらぶつぶつと呟いていた涼成は、刹那せつな、自身へと向けられた湿った視線に気付いて振り返る。しかしそこには、呆けた表情をした例のバケモノがいるだけだ。


「なんだよ。ビビらせやがって」

 言って視線を戻しかけた彼の耳に、コリン――となにかを嚙み砕く音が響く。

「おぉい!」

 咄嗟に叫んだ涼成の視界は、バケモノが立つ付近の壁を映し出す。


 そこには1人の少女が、壁にだらりとより掛かった姿勢で彼のことを眺めていた。

 うりざね顔にやけに大きな両目。それだけを採れば魅力的に見えなくもないが、目を覆う重たいまぶたのせいで、どこか間の抜けた印象を抱かせるかおだった。

 手にはキャラクターの笑顔をかたどった棒付チョコレートが握られている。先程の音はそれを齧った時のものらしく、キャラクターの顔面は一部が無残にも欠けていた。


「お前……こんな状況でなに食ってんだよ」

「シンパンマン・レロレロチョコです。あと1本あるんで食べますか?」

「いらねぇよ」

 言葉を返しつつ、彼の目は少女の容姿を無意識のうちに観察している。


 黒いパーカーに黒いスキニーパンツ。足許まで黒色のショートブーツときている。遠目に見れば魔女か死神がいるようにしか見えないだろうな――と逢坂は思った。黒一色に染め上げられた少女の中で、乱れたボブカットの両端、毛先から5センチ程までがあでやかな深紅に染まっている。


「いったいいつから起きてた?」

「逢坂さん……たちが目を覚ます少し前からです」

「どうして言わなかった?」

「声かけるタイミングなくて」

「なんでだよ」

「そういうの苦手で」

「苦手とか言ってる状況じゃねぇだろうが」


 そこまでの遣り取りを終えたところで、「まあまあ」と唐突な横槍が入る。即座に視線をそちらへ遣ると、青年のにこやかな笑みが涼成の視界に飛び込んでくる。

「気を取り直して、まずは自己紹介から始めましょうよ」


 女のような貌をした男だった。薄い唇は白桃色をした肌の上で綺麗な曲線を描き、黒目がちな瞳を妙に長い睫毛まつげが縁取っている。クリーム色のトレーナーにグレーのチノパン姿。光沢を湛えたストレートヘアの黒を囲うように染め上げられた、黎明れいめいを想わせる群青色が目に映える。


「まずは僕から。丸トまるうらまどかです。女みたいな名前ですけど男です。さっきの自己紹介に倣えば高校2年生の17歳。こんなところですかね」


 この場の状況に全くそぐわない爽やかさで言った丸トは、後に続く者を促すかのように、少女の方へ屈託なく笑いかけた。それに釣られるような形で、チョコレートを平らげた少女が気まずそうに口を開く。


「楽しい太陽と書いて、清崎きよさき楽陽らくようって言います。陽気な名前ですけど陰気な方だと思います。家庭の事情で学校へは行ってませんが、17歳の女です」


 聞けば丸トも清崎も先程の会話を耳にしており、猫井が立てた試みのおおよそは把握しているようだった。聞いていたなら加われよ――と涼成は思ったが、言ったところで話を引き伸ばすだけだと閉口する。


「とにかく、あのバケモノが妙な動きを取るまでが勝負だ。早速だがお前らには登ってもらうぜ」


 言って給排気口を指差すと、2人は示した先を不安そうに仰ぎ見た。彼女たちはなにか言いたげな視線でしばし互いを見据えた後、2人揃って立ち上がる。それを了承の意と捉えた涼成は、拳を己の掌に打ちつけた。


「まずはどっちから行く?」

「レディーファーストで」


 丸トの声に従って、清崎が涼成の前へと進み出る。しゃがみ込んだ涼成の肩に清崎が足をかけた時だった。


「    ッッッ!!!」


 甲高い音が3人の鼓膜をつんざき、バランスを崩した清崎は涼成の肩口から滑り落ちてしまう。しかし涼成にも丸トにも、彼女の身を気遣う余裕などなかった。

 その声は、固く閉ざされた扉の傍――あのバケモノから発されていたからだ。それまで虚ろに宙を睨むばかりだったそのバケモノは、今や鬼の形相で、声とも音ともつかない振動の波を発している。

 それに伴い、周囲に伏した人々が嘘のように次々と目を覚ましていく。状況が物凄い速度で進展していることは明白であり、それが3人にとってこれ以上ない逆風となることもまた、火を見るよりも明らかな事実だった。

 しかし、混乱する脳味噌とは対照的に、涼成の皮膚感覚はありのままの凶兆をつぶさに彼自身へと伝達した。

 ゆえに彼は、その場にいる誰よりも早く動くに至る。


「扉の脇に走れ!」

 涼成の呼びかけに丸トと清崎は意外にも早く反応し、左右に分かれて扉のある壁へ、ぴたりと背をつけしゃがみ込む。

 バケモノの口が音もなく閉じる。音が止んでも尚、音波は鼓膜の内側に幾重もの波紋をもたらし続けている。

「強行突破しかないですかね」

 そう言う丸トに涼成はこくりと首肯する。ちらと清崎を窺うと、彼女は何食わぬ顔で扉の向こう側へと耳を澄ましている。2人とも、見かけによらず気丈なやからだ。斯様かような非常時にも関わらず、気付くと涼成は口許に微かな笑みを浮かべていた。


「ああ、これはさすがに死んだかもですよ」

 清崎の呼びかけに2人は扉の外へと意識を向ける。幾つもの種々様々な足音が折り重なり、外は慌ただしさの極致へと達していた。それらが生む振動はやがて部屋を揺らし、小雨は瞬く間に雷をはらんだ豪雨へ転じようとしていた。


「為せば成る。為せば成る。為せば成る」


 イチかバチか――そんな言葉が涼成の脳裏に浮かぶと同時。気付けば猫井の言葉が口をついている。猫井には猫井の、自分には自分の道がある――と涼成は気持ちを切り替え、全身に再び力を込めた。


「良い言葉ですね」

 傍らの丸トがそう呟き、向かいの清崎が小さく頷く。

「為せば成る。ままならないのが世の常ですが、今は祈りに身を任せましょう」

「それ、私も同感です。どうせ拾った命なんで――許されるまで生きるだけです」


 こころざしが低いんだか高いんだか分からない2人の言葉に、それでも涼成は希望を見る。これが、この瞬間が自分の最期かもしれない。そうだとしても、だからなんだと言うのだ。生きていることに変わりはなく、死んでいくことにも変わりはない。

 だったら別に、全てはどうでもいいことだ。


「揃いも揃って辛気臭えな。遺言かよ」


 言うが早いか、閉ざされていた扉が音もなく開いた。

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