Page3 : 悲愴

 幾度もひたいをぶつけながら匍匐ほふく前進の恰好で進む真子の目は、やがて下方から射し込む微弱な光を捉える。

 彼女を先頭にダクト内を進んでいた東宮と神楽耶は、潜めていた息をいっそう忍ばせ、真子の肩口から光の先へと目を凝らした。


「窓があります」

 真子は後方の2人にそう告げると、室内の詳細をさらに探っていく。


 殺風景な部屋だった。

 広さは約10畳。窓から射す月光が室内をひたひたと濡らしている。

 左右の壁際が個人用ロッカーでびっしりと埋め尽くされている以外、特筆すべきものはなにも見当たらない。おそらく用途はロッカールーム。あるいは書庫といったところだろうか。それが正であれば利用頻度も出入りも少ないことが予想される。加えて眼下に生き物の気配はなく、電灯も消されている。


 真子は来た道に一瞥をくれると、自身の細い顎に指を這わせた。


 最初の部屋からおよそ100メートルほど移動してきた。ダクト内へはロッカーを足掛かりに東宮さんの手を借りれば戻れるだろう。私自身の体力からかんがみてもここいらを脱出地点にできれば都合が良い――真子は考え、そして振り返った。


「まずは私が様子を見てきます。2人はここで待機を」

「……分かったよ。でも、くれぐれも気を付けて」

 不安げな東宮と神楽耶に頷きかけると、真子は給排気口の上蓋を慣れた様子で外し、くだんの部屋へと飛び降りた。


 着地したは良いもののバランスを崩し前方へと倒れ込む。目覚めてからこちら、真子の身体はふわふわと頼りない。極度の緊張からか、脳味噌と肉体が上手く調和していないような感覚に陥っている。

 「大丈夫ですか」という東宮の声に手を上げ、真っ先に部屋の扉へと取りつく。ドアノブに手を添え施錠されていることを確認すると共に、耳をそっとつけ外の音を確認する。静かだ。扉の先にあるであろう廊下――そこにせわしい往来の気配はない。


 真子は続いて扉の対面へと振り返り、そこに位置する窓へと向かう。施錠を解き、細く開いたその先には、沈みゆく満月がビルの狭間に消えゆかんとしている。身を乗り出して下を窺い、続けて上をしばし見遣る。

 やはり外壁の劣化が著しい。ここは全10階層からなる廃ビルであり、自分たちはその6階にいることが判る。窓のある方角から月が見えるということは、方角は西。そこからの景色に見覚えはなかったが、街並みからすれば日本の領土内であることが知れた。

 真子は状況と情報を整理しつつ室内を見渡していく。

 6階から飛び降りるのは自殺行為だ。なにか梯子の代わりになるものがいる――と視線を方々へ奔らせる。


 その目に留まったのは連立するロッカーだった。

 手始めに最も近場のものを開けてみる。アルミ製のほうきちり取りが一体になったもの、モップ、使い古された雑巾。あるのはそれだけだった。苦々しげな表情を浮かべて次々とロッカーを開けるが、どのロッカーにも同様の掃除用具が収められているだけだ。


「掃除用具部屋? これほどの数がここに集められている意味はなに?」


 真子が小声で呟いた刹那――カチャ。


 扉の施錠が小気味良い音と共に呆気なく解かれた。


「意味を考えるのは良い傾向だね。猫井真子」

 開く扉と廊下から解き放たれた蛍光灯の明かり、そしてその逆光によって黒く塗り潰された影は、人とは似ても似つかない形をしていた。

「目的はなに? 私たちを……どうするつもり?」

 後退あとずさる真子の問いに答えぬまま1歩、室内へと踏み入った影は、酷く落ち着いた所作で扉付近のスイッチをタップした。

 途端、月明りに濡れていた闇が照明の光によって洗い流されていく。


 真子の視界が捉えたのは下駄を履いた人の足。しかし、そこから上は全くのでたらめだった。着流しのえり許から伸び出した青白い皮膚はいびつ隆起りゅうきし、巨大な掌と不自然に細長い腕をかたどっていた。その中央には巨大な唇が鎮座し、そのさらに上部には申し訳程度の低い鼻、そして真子を見つめる巨大な一対の眼球。それら規格外な顔面の頂天を飾るのは、朱く染まったおびただしい量の蓬髪ほうはつだった。


 背中が粟立つ感覚を覚えると同時に、真子のこめかみを冷たい汗が伝う。遅れて、思い出したかのようにようやく心臓が早鐘はやがねを打ち始める。

 言うまでもなく真子は動揺していた。しかしその理由は、相対するバケモノの醜さや、脱出計画が失敗に終わったという事実によるものではなかった。


 これまで視える『だけ』の存在であったバケモノが、こちらに語りかけている。

 バケモノとの意思疎通――それが今の真子にとって最大の衝撃であり、最も畏怖いふすべき事実だった。


「こうして私たちと話すのは、君にとって初めての経験だろうね。猫井真子」

 真子の心――その一切を見透かしているかのように、バケモノは静々しずしずとそう語った。

「とは言ってもね、今まで君が視ていたものと私たちの間に、種族や類目に関する違いがあるわけではないんだ。熟練度――そう言えば分かり易いかな。君が目にしていたものは言わば赤ん坊のようなものだ。歩くこともままならず喋れもしない赤ん坊。そして私は、大人だ」


 バケモノは朗々とそこまで喋ると、真子の方へ1歩歩み寄った。対する真子は1歩後退する。逃げるとしたら窓だ。東宮や神楽耶、逢坂、その他の大多数を半ば見捨てる形にはなってしまうが、生き延びるためにはイチかバチかそうする他にはない。

 いや――と、真子は思考する。窮地に立たされ混乱し、正常な判断ができなくなっていたが、考えてみればシンプルだ。この場を脱する方法は、その手立ては目の前にあるではないか。


「君たちをここへさらってきたことは認めよう。しかし、私は君たちに危害を加えるつもりはないんだ。信じてもらえないかもしれないが、これは事実だ。吞んでもらう他に手立てはない」

 バケモノの言葉に、真子は口許をわずかに緩めた。

「大人になることは――それすなわち嘘が上手になることだって、誰かが言ってたわ」

「……興味深いね」

「だからあなたは大人じゃないみたい。だってその嘘、バレバレよ」

「危害を加えないっていうのが嘘? 傷つくな。もちろん理由はあるんだろう?」


 巨大な両目に見据えられた真子は、その視線を自身の隣へ移した。そこには彼女が自らの手で探った掃除用具箱がある。


「逆に訊かせてもらえないかしら」


 電灯によって白日の許に晒された掃除用具――その中のモップと雑巾は、赤黒いなにかで禍々しい色に染まっていた。


「この道具であなたたちは……いや、あなたたちとはいったいなにを掃除したの?」


 数秒間にわたる沈黙。それを破ったのはクツクツと不気味に響くバケモノの含み笑いだった。巨大な体躯たいくで2歩、3歩と真子に寄りながら、バケモノは尚も笑みを絶やさぬまま、真子の鋭い眼光をその身に受けている。

 それに応じて真子は後退し、その背を窓にピタリと寄せた。


「たとえ喋れても、どれだけ凄もうとも、それで重大なことわりが変わるわけではないわ。人とあなたたちを隔てる壁は、そう簡単には消え去らない」


 言いながら真子は右足に力を込め――そして勢い良く踏み出した。


「ゆえにあなたたちバケモノは、私には触れない!」


 バケモノの向こうにある扉を目指して駆け出した真子は、瞬時にこれからの計画を立て直す。依然としてダクト内にいる2人を導くが先か、最初の部屋で待つ逢坂たちの許へ向かうが先か。いずれにしても情報の共有を――。


 と、そこまで考えた時。真子は自分の身に起きた異常を悟った。

 全身が熱い。焼けるように、熔けるように。

 そしてなにより、駆け抜けすり抜けたはずのバケモノの姿は、未だ自分の前方に立ち塞がったままだった。


「もう1度――」


 ――グチャッ。


 再度動こうとした時、すぐそばで鳴った湿った音に、真子は視線を落とした。


「あれ――?」


 下半身がなかった。

 腹部からは赤い肉と桃色をしたホースのようなものが垂れ下がるばかりで、肝心の脚部は床の上であさっての方を向いている。

 足先に力を込めようとするが、そんな努力も虚しく、真子の意識はやがて襲ってきた強烈な痺れの波に抗えず、みるみるうちに混濁していく。

 バケモノの両手が真子の脇腹を掴んでいる。上半身だけになった真子の身体を引き上げると、その耳許にねっとりとした声でささやいた。


「大人は秘密を語らない。それはなぜだと思う?」


 咳と共に大量の赤が胸許を染める。 

 真子の返答などハナから期待していないといった様子で、バケモノは真子の上半身を床へ放り投げた。


「秘密はとっておきまで取っておくものだからだよ、猫井真子」


 ――どちゃっ、という音。

 絶命の直後、真子の視線はダクト内からこちらを窺う東宮と合う。恐怖と狂気と驚愕に染まる東宮の顔を見据えて、真子は最期の言葉を発した。


「なせ……ば……な」


 命の幕切れは酷く呆気ない。それが、猫井真子の18年に渡る歳月の最期だった。



       ◆◆◇◆◆



 人の命が奪われる瞬間を見たのは、それが初めてのことだった。


 東宮奏は込み上げてくる強烈な吐き気を抑え、次に取るべき手段の最適解を求めんと思考する。脳味噌は熱く脈打ち、視界は紫色にんでいる。それでも考えなければ死ぬだけだ――為せば成る、為せば成る。

 気付くと奏は、猫井真子の口癖を脳内でしきりに繰り返している。心なしかそれだけで、今にも狂ってしまいそうな不安感が少しだけ和らいでいくような気がした。


 猫井真子の侵入経路である給排気口は、未だ天井に大口を開けたままの恰好で放置されている。今は彼女の残骸に見蕩みとれている妖怪だが、いつこちらに視線を向けるとも知れない。まずはこの場から、少しでも遠くへ――。

 そう思い神楽耶を振り返った奏は、思考よりも早く身体を猫のようにしならせて、今まさに叫び出さんとしていた彼女の口許を手で塞いだ。掌に伝わる熱い呼気と震えを押しとどめ、彼女の耳許に、「しー、しー」と細く長い息を吐く。


「こらえてくれ。君が叫べば僕も死ぬ。もちろん君も」

 言葉選びに慎重になる余裕はなかった。神楽耶の動揺がさらに色濃くなる危惧きぐが頭をよぎったが、彼女の震えは次第に弱まり、開いていた瞳孔どうこうも収束していくのが分かった。

 安堵したのも束の間、神楽耶は奏の手を振り払い、ダクト内をもと来た方向へと引き返し始める。

 今は脱出経路を探る時。引き返した先に光明はない。一刻も早く脱出経路を見つけ出し、皆に伝えなければ。

 咄嗟に神楽耶の肩を掴もうと手を伸ばしたが失敗する。奏は思わず声を掛けようとして、しかしすんでのところで奥歯を噛んだ。

 ――止めなくては。

 そんな奏の焦燥が天に届いたのか、神楽耶はその身をぴたりと止めた。しかし、追いすがろうとした奏の身体も釘打ちされたように固まっている。


 理由は明白。神楽耶の向こう側から――甲高い音が鳴っていた。


 無線のノイズかエフェクターから生じるハウリングに似た音。それでいて鳥か獣のように妙な生々しさを含んだ音。

 そこまで考えた奏の脳裏に浮かんだのは、初めの部屋にいた妖怪の姿だった。

「まずい……!」

 手遅れ、幕切れ、時間切れ――瞬時に浮かぶ言葉たちを押しのけて、奏は尚も諦念を抱かない。抱けるはずがない。それは目の前で散った猫井真子に対する裏切りであり、彼女の信念に対する冒涜ぼうとくだ。諦めてなるものか――。


 戻るか? いや、戻ったところで道はない。

 思った奏は硬直する身体を引きずると、やがて神楽耶の身体をそっと抱いた。

「進もう――。猫井さん、逢坂くん、まだ自己紹介していないみんなの分まで、僕らがぐんだ。その意志を。僕らが伝えるんだ。この――怒りを……!」


 その眼にあかい光を宿して、奏は神楽耶の手を引いた。

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