Page7 : 悲哀

       ◇◆◇◆◇


 清崎楽陽はがむしゃらに走り続けた。


 出口の在り処も脱走の算段さえ儘ならぬまま、身体だけがやけに矍鑠かくしゃくと視界の景色を塗り替えていく。次から次から次から次。そうやって駆け抜けた逃走の果てにあったのは、変わり映えしない無機質な扉だった。


 考える暇もなく扉にとりつきこじ開ける。

 部屋の内観もロクに見ぬまま室内へ転がり込み、扉を急いで閉める。微かに震える指先で内鍵を施した瞬間、絶望と安堵が背後から圧し掛かり身体がくの字に折れた。膝が笑い出し、全身の力が抜けていく。楽陽は扉に背をつけたまま成す術なくその場に腰を落とす。


 両膝を折り両腕で己が身体を抱くと、楽陽は胎児のように小さく丸くうずくまる。脳味噌のネジが緩んでいるのか耳にガタがきているのか、周囲では低く不快なノイズが絶えず鳴っている。頭の中で無数の羽虫が飛び回っているかのようだった。


 ――君が継ぐんだよ。


 ノイズに混じって鼓膜を敲いた丸トの声に虚を突かれ、楽陽は青白い顔をハッと上げる。10畳ほどの室内には量産品のスチールデスクが1つ。卓上には申し訳程度の書類と新品同然のボールペンがあるきりで、そこで何某かの事務作業が行われていた形跡はない。体裁を整えただけの空っぽの部屋。

 人間の真似事でもしているつもりだろうか。


 扉を隔てた向かい側からは、人外の足音が近付いては遠退いてを繰り返している。なにかを捜していることは明らかだったが、彼女はその先を考えようとする自分自身を無意識のうちに制止している。

 ありのままの現実を余すことなく受け止めようものなら、呼吸の仕方さえすっかり忘れてしまいそうだった。肉体にも心にも表立った損傷は見られなかったが、楽陽の魂は大小様々な傷を負い、化膿した傷口からは悪臭を放つおどろおどろしい膿が流れ出ている。


 いくら視線を彷徨さまよわせても部屋に次なる扉はなく、脱出の糸口になりそうなものも見当たらない。楽陽は深く息を吸うと扉にそっと耳を当て、肺をいっぱいに満たした空気を今度はゆっくりと吐き出した。


 ――ここから出なければ。


 足音のないタイミングを見計らおうと感覚を研ぎ澄ませた刹那、側頭部に強い衝撃が加わり目の前が白く明滅する。

 戻った視界は床を捉え、その端には尚も火花がしつこく散っていた。浅いめまいと鈍痛が頭部を占拠している。

 何事かと顔を上げると、こじ開けられた扉の向こう側で、無数のバケモノたちが楽陽のことをじっと見据えていた。

 悲鳴を上げることも忘れ、楽陽は無我夢中で部屋の隅へと後退る。彼女を見つめるいくつもの瞳に好奇の色はすでになく、代わりにその目を染めるのは、目的を達しようとする者どもが宿す確固たる光に他ならなかった。


 ――ああ、私はここで殺されるんだ。


 自身を上空から俯瞰するような感覚に陥った楽陽は、どこか他人事ひとごとのようにぼんやりとそう思う。


 ――猫井さん、東宮さん、神楽耶さん、逢坂さん、丸トくん――皆の繋いできた命を背負うには、私はいささか空っぽ過ぎた。信念も気概も意味も理由も思想もない。こんな人間が、そもそも他の誰かの遺志を継ぐなんて大役を果たせるはずがなかったのだ。


 思った途端、悔やみきれない後悔と懺悔が楽陽の全身を包み込む。


「……ごめんなさい。私には……もう」


 壁際にへたり込み、震える両手で頭を覆う。

 無数の足音が近付いてくる。我先にと部屋へ雪崩れ込んでくる濁流の如き異形の気配。そこに込められた様々な色の殺意を、楽陽はつぶさに感じ取っていた。身を凍らせ心を摘ませる絶対零度の恐怖。それが彼女の全身を石のように硬くする。


 幾重にも渡る足音はもう目と鼻の先にまで迫っている。

 楽陽は目を閉じ、おぞましいほどの恐怖に身を任せ、最期の瞬間を、ただ、ただ、待つ。


 ――ヒュン。


 と、風を切るような音が鳴った。


 続いてなにか重たいものが、幾つも幾つも落ちる音。


 しばし身を強張らせていた楽陽は、自身に降りかかるはずの暴力が一向にやってこないことを不思議に思って目を開ける。緩くなったはなを啜ると、濃厚な血の匂いが鼻を突いた。


「……えっ?」


 おそるおそる顔を上げると、そこにはいちめんの血の海が広がっていた。

 先程まで息巻いていたバケモノたちは肉塊と化し、床を埋め尽くす青き血だまりの中に切断された肉片を浮かべている。理由も手段も解せぬままだったが、とにかくあれほどいたバケモノたちが、ものの一瞬で屍骸と成り果てていた。

 あまりの光景に情報の処理が追いつかず、楽陽は呆けた表情で室内をぼんやりと見渡している。おぞましいはずの地獄絵図が、楽陽にとってはなぜか酷く美しい。やはり頭のネジが飛んでしまったのかもしれない。

 そんなことを考えている彼女の視線は、やがて開け放たれた扉へと吸い寄せられていく。物々しい軍用ブーツ。そこから視線を上げた先には、見覚えのない人影があった。


 若くも老齢にも見えるその男は、黒に若草色のまだら模様が入った髪を後ろでひとつに結えている。その異様な髪色は、彼が楽陽たちと同様の運命に翻弄されているであろう事実を暗に物語っていた。

 濃紺のワイドパンツに白い襟付きシャツ、深緑色の羽織を身に纏ったその男は、さながら抜刀の構えを保持したまま、鋭い視線を楽陽へと注いでいる。

 男の手許に刀やナイフといった武器の類はない。ならばどうしてそのような構えをしているのか――などとあらぬ思考を始めた楽陽に、「おい」と低い声がかけられる。


「怪我はないか?」


 警戒心を露わにしたまま、楽陽はこくりと首肯する。その反応にわずかに肩をすくめて見せた男は、面倒臭そうに口許を曲げた。


「他に生存者はいるか?」


 声を出そうとした楽陽だったが、乾ききった喉からは空気の漏れる音しか鳴らず、やむなく首を横に振る。


「安心しろ――と言っても無駄だとは思うが。とにかく君は今、九死に一生を得た。もう大丈夫だ。君は助かったんだ」


 そこまで言われてようやく、楽陽の中で消えかけていた希望の灯火が再燃し始める。縮んでいた心臓が徐々にまともな律動を刻み始め、呼吸が正常な深さへと戻っていく。


「これは……貴方が?」

 やっとのことでそう訊ねるが、男がその答えを口にすることはなかった。


「現在の君が混乱の極みにあることは重々承知しているが、生憎それほど余裕のある状況ではないんだ。よって、細かい話は省かせてもらう」

「……はぁ」


 足許の血だまりへ視線を注ぐ楽陽は、仕方なく気のない返事をするに留める。

 男はひとつ息をつくと、どこからか取り出したスマートフォンを耳にあて、なにやら報告らしき事々を淀みなく伝え始める。淡白で乾いた声だった。冷徹と言い換えてもいいかもしれない。

 電話口の相手と話している時も、男の晴眼は楽陽をじっと捉えたままであり、その冷たい視線に居心地の悪さを感じた楽陽は、いっそう深く俯いてしまう。


 感情の薄いその男は一頻り話し終えると通話を切り、楽陽へ向けて淀みなく語りかけた。


「薄々勘付いているとは思うが、君は今、非常に微妙な立場にいる。市井しせいにおける特級秘匿事項とっきゅうひとくじこうに該当する梔子くちなしとの接触、及び同じく前項に該当する【異彩いさい】の顕現。それら2つの秘匿を身に宿した特殊人材レア・リソースときている」


「私は……いったいどうなるんですか?」


「ふむ」と、男は顎に手を遣ると、値踏みするかのような視線を楽陽へと注いだ。


「この際、嘘や気休めは心にとって毒だろう。よって正直に言うが、もう元の環境には戻れないことを覚悟してほしい。仮に元の生活を送ろうにも、奴らは今日のように再び君を捕獲しようと画策するだろう」


 捕らえられ、拷問を受け、そして殺される。日常生活を送る対価として支払うには余りに重た過ぎる業だった。

 暗澹あんたんたる表情の楽陽を気遣う素振りも見せぬまま、男は淡々とした口調で言葉を紡ぎ続けている。


「そこでだ。君は我々の組織で保護させてもらいたい。長期間の保護が予想されるが、住環境やその他の待遇は現状と同等かそれ以上のものを保証する。ただ1点、家族などとの接触は――」


「大丈夫です」

 男の言葉を遮る形で、楽陽は言った。

「家族は2年前に亡くなってるんで」


「そうか」と短く呟くと、男は血だまりの前で立ち尽くす楽陽へと手を伸べた。

きさき月彦つきひこだ。君の名前は?」

「清崎楽陽です」


 言った刹那、伸ばされた手を掴むことなく、楽陽は唐突に意識を失った。青々とした血の池に倒れ込むと、どろりとした飛沫が部屋の壁を盛大に汚す。


 こうして――彼女たちの数奇なる運命は、異形の血液にまみれるところから幕を開ける。

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