少女の死と、ペパーミントシンドローム

第1話

タクシーの運転手は困惑した様子だった。

「本当にここでいいんですか? 間違っていませんか」

 と何度も確認してくる。しかし、彼女はここでいいと言った。料金を払い、領収書を受け取って、タクシーを降りた。

 最後まで不審なまなざしを向けていた運転手も、やがてタクシーを走らせ、去っていった。

 遠ざかるヘッドライトが見えなくなると、小雨降る中、彼女は夜よりも暗い闇の中に置かれたのだった。

 外灯はない。家の明かりもない。後方に空を照らす『覚醒都市』のまばゆい光りが集まっていたが、ここからではケーキに刺さる蝋燭の火のようにか弱い明かりにしか見えない。

 それでも、そんな明かりに無駄に目が慣れてしまうと、いざ振り返るとそこに待っているのは、先程よりもさらに深淵を深めた暗い世界だった。

 月があれば、闇も少しは薄れるのだろうが、小雨でも雨を降らせるだけあって雲は厚い。

 しかし、たとえ月が見えていたとしても、それだけを頼りにするのも無謀といえる。だから彼女のポケットにはちゃんと懐中電灯が用意されていた。スイッチを入れると闇から世界がくり抜かれた。

 彼女はその世界に一歩、足を踏み込んだ。

 ……なぜ自分がこの場所に呼ばれたのか。

 彼女はなんとなくわかっていた。電話をもらったときからの、相手の声がすでにいつもとは違っていた。そしてわざわざこんな時間に、この場所を指定するなんて……。

 私たちの関係はこれで終わってしまうのか。

 家を出てタクシーに乗っているあいだも、彼女はずっとそのことばかりを考えていた。

(折角できたのに)

 しかし、その関係を壊してしまったのは、紛れもなく自分であることを彼女は痛いほどに自覚している。

(言い訳はない。言われれば素直に謝る。そして罪を認めよう)

 その覚悟すら、彼女にはあった。

 でも、もし、自分勝手だと思いながらも、我儘な要求だと自覚とわかっていながらも、それでも彼女は関係を続けたかった。

 なぜなら、彼女にとって唯一の親友だったから。

 初めて出会った日のことを、彼女はいまでも鮮明に覚えていた。学校の昇降口、先生に用事を頼まれいつもより少し遅れて下校しようとしたときに、あの子と出会った。

 それからはなんて幸福な時間だったんだろう。彼女の高校生活は、そのときようやく花を開いたのだった。

 楽しかった。彼女はしみじみと思う。

 それだけに、いまそれが壊れようとする現実が、現実とは思えなかった。

 まるでひどい夢、悪夢を見せられている感じだった。

 あのときもそうだった、と彼女は思う。あのときも――目の前で動かなくなった老婆を見たとき、彼女はこれは夢だと、ひどい悪夢だと、現実なんかじゃない。そう思った。

 だが、現実というものは、そうした柔らかで居心地のいい逃避行な思い込みを、ずたずたになって切り裂き、その身に流れる血が鼓動によって全身に送られていき、細胞ひとつひとつに生きているという実感を嫌というほど伝えるのだった。

 夢だ、夢だ、夢だ、夢だ――違う! これは現実だ!

 老婆の頭から流れ出た血が、彼女を突き落とすように現実へと引き戻した。

 遠くで響く車のクラクションに、彼女は我に返った。

(現実は厳しい)

 彼女は空を見上げた。そこにあるはずの月に向けて白い息を吹きかけた。

 このまま夜が明けなければいいのに、彼女はそう思った。永遠と夜が続けば明日は来ない。明日が来なければいまの関係が永遠と続く。

 そんな甘い期待が彼女の心を染み込んでいく。

「……?」

 ふいに前方から、物音が聞こえた。地面に潜っているモグラが、土を掻き分けているような、そんな音が。

「そこにいるの?」

 彼女は闇に向かって問いかけた。

 こんな場所に普段人がいるとは思えない。もしだれかいるとするのなら、それは親友以外にはありえない。

 彼女は、関係が終わってしまうその前に、ちょっとでいいから親友と言葉を交わしたい、そんな欲求に駆られた。一言だけでもいい、謝罪の言葉だけでも聞いてほしかった。

 彼女の願望は、やがて声になって溢れ出した。

「ごめんなさい、本当に。本当にごめんなさい。私のせいで、私が自分勝手なあまりに。あなたのすべてを奪ってしまって、本当にごめんなさい」

 彼女は返事を待った。耳を澄ませて、親友の声を耳に沁み込ませたかった。

 だが……返事はなかった。

(終わったんだ、私たち)

 彼女の胸の中に冷たいものが広がった。それは血管を伝って全身へと流れた――

 突然、彼女は空と地が逆転したような錯覚に襲われた。

 胃を締め付けられるようなきりきりとした吐き気を覚えながら、身体の重心が頭部へと傾いていき、ついには頭と足が入れ替わり、頭が地面に、足が空へと向けられた。

 自分が落下していることに彼女が気づいたのは、亡くなるほんの間際だった。

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