第4話

十二月に入っての検診日。ユニスは無事、異常なしをもらえた。そのあと、ちょうどお昼を迎えたとあって、そのまま倉島医師とともに昼食を取ることにした。倉島医師行き付けの半地下の喫茶店だ。

 シックな店内で、調度品も品が良い。カウンターには物静かな店主が立ち、二人は入り口から一番奥の、窓から見上げるように都市が見える席についた。ユニスがオムライスを注文すると、倉島医師は眉を緩めた。

「真帆くんは相変わらずオムライスが好きなんだね」

 そう言った倉島医師は、ナポリタンを注文した。

 それからユニスは近況や愚痴など倉島医師と世間話で盛り上がった。

「そういえば、真帆くんがここに来てもう五年になるのか」

「どうしたんですかいきなり、センチメンタルなこと言って」ユニスは吹き出した。

「真帆くんの成長を見て、月日は経つのが早いなと思ったんだよ」と倉島医師はしみじみと言った。

「まあ私も成長しましたけど、先生も随分成長したように見えますよ」

「男前になったかな?」

「もう少し痩せれば男前になると思います」

 倉島医師は苦笑した。ユニスも釣られて笑った。ふと五年という歳月が以前にも会話の中で顔を覗かせたように感じたが、彼女は思い出せなかった。

「でも、まだ私、『覚醒都市』に馴染めていないように感じるんです」とユニスは言った。「自分の居場所っていうのか、そういうものをまだ『覚醒都市』には感じないんですよね、五年も暮らしているのに。どこかで他人行儀というか、他所の家に預けられているような感じで」

「それなら、私だってそうだよ」

「先生も?」

「私だけじゃない。みんなそうだよ。ここはなんだか、だれにたいしても余所者扱いだ。落ち着かない。だから必死にもがいていないと、すぐに駄目になってしまいそうになる」

「落ち着きがないですよね」

「いつかはどこか、のんびりとした場所で暮らしたいよ」

「先生、『覚醒都市』を出るんですか?」

「いつか、だよ」

「よかった。先生がいなくなったら私困ります」

「嬉しいね」

「『覚醒都市』で頼れるのは先生くらいですもの」

「叔母さんとは、最近会ってるのかい?」

「いえ。警察学校を卒業したときに電話で報せたのが最後だったかな」

「そう」

「だから頼りにしてるんですよ、先生。――最近は嫌な事件が多いですし」

「〈能力者〉の肩身が狭くなることが続いているようだからね」

 ユニスはオムライスを口に運んだ。口に広がる旨味に身を任せ、少しでも嫌な気分を払拭させたかった。それができるだけの旨味が、ここのオムライスにはあった。

 ユニスはそこで、倉島医師の左の薬指に見覚えのないものがあるのに気づいた。

「先生それ、指輪じゃないですか」

 彼は照れくさそうに鈍い光をたたえる指輪のうえに右手を覆って、それを隠した。

「まあね」

「先生結婚されたんですか」

「いや、これは以前にちょっと……」

「以前って、あれ、先生って結婚していたんですか?」

「以前は結婚してたんだよ」

「え、そうだったんですか。知らなかった。どうして教えてくれなかったんですか」

「教えることじゃないしね。それに、もう離婚しているから」

「あ――そうだったの」ユニスは気まずくなった。「じゃあ、その指輪は……もしかして再婚とか」

「いや、そういうことじゃなくてね。これはちょっと……この日には付ける習慣があるだけだよ」

「ふうん……」

「ところで――最近苛々したり、気持ちが落ち着かないなんてことはあるかな」

「苛々ですか? いえ、べつにそんなことはないですけど」

「そう」

「なにか?」

「いや、べつに。ないならいいんだ。ところで、ペパーミントのガムはどうだろう。気に入ってもらえているかな?」

「はい。あれ、なんだか噛んでいると気分がとても落ち着きます」

「よかった」

 喫茶店を出ると、ユニスは医師と別れ、そのまま職場に戻った。ペパーミントガムを口に放り込みながら。


 事件は進展のないまま四日経った。

 これまでにわかったことといえば、被害者の人となりやその生活ぶりぐらいだ。性格にかんしていうと、酒が入ると喧嘩っ早く、それが原因のトラブルが多々あった。だがそうではない普段のときは、おとなしく、人当たりがいいわけではないものの、声をかければ挨拶くらいは返すほどの気さくさはあったという。家では熱帯魚を飼い、近所の猫には優しく声をかけたりする姿も目撃され、心の内は優しいのではという話だった。

 生活については、被害者の経歴を調べたところ十年前までは定職に就いていたが、それ以降は職を転々する毎日を送り、現在は日雇いの仕事で稼いでいるようだった。そんな被害者の生活は、部屋の様子からしても決して楽とは思えなかったが、事実知人の証言から、日々の生活の愚痴をこぼし、知り合いからは金を借り、酒を奢ってもらったりと、苦しい一面を覗かせていた。

 ところが、これがべつの知人になると、一転して、最近の被害者の羽振りのよさを証言するのだった。酒を奢ってもらったり、金を貸してくれたり、その知人がどうしたのかと聞くと、ギャンブルで当てたというのだった。

 果たしてどちらが正しいのか、それについては現在も捜査中とのことだった。

 ところで、捜査は当初、物取りか怨恨の線で進められていた。怨恨にしてもおそらく金銭トラブルだろうと考えられた。要するに、事件は単純なものだと見ていたのだ。

 それが一転して思いがけず事件に複雑な色合いが浮かび上がったのは、事件の翌日、被害者の財布から発見された一枚のメモからだった。

 紙の切れ端を使って走り書きされただけのそのメモには、日時と時間、それから場所が記されていた。

 被害者が夜中に外出したことについて、捜査員のあいだでは近所のコンビニにでも行こうとしていたのだろうというぐらいにしか思われていなかった。ところが、メモに書かれていた日時は、遺体が発見された前日、つまり十二月五日で、時間は午後の十一時二十分、そして場所は自宅から少し離れた、とある雑居ビル裏手の駐車場だった。日時と時間は死亡推定時刻と重なるうえ、場所の駐車場は、遺体が発見された路地がまさに通り道だった。このことから、被害者はこのメモに従い、夜中、駐車場に向かうため外出したのではないかと推察された。そしてその道中で殺された。もしそうだとすれば、計画的な殺人という可能性も視野に入ってくることになり、事件はいきなり奥深い、複雑な様相を呈したのだった。

 捜査員は険しい顔つき、情報を求めて連日歩き回っている。しかしそれはあくまで一課の話にすぎない。〈能力者〉専門とする四課にとっては、〈能力者〉が関与していない以上は、他人事に過ぎないのだ。

 そして、肝心要、その〈能力者〉の関与はいまだない。

 おかげで、事件が混迷していくとは裏腹に、四課はいたって暇を持て余していたのだった。

 ユニスも、新しく入ってくる捜査報告書には必ず目を通し、それからなにか見落としはないかと過去の報告書も睨み続けたが、それでも〈能力者〉の関与を見出すことはできなかった。

「さすがにもう、この事件は私たちの管轄外なんじゃない」

 ナオミのその言葉に、ユニスの中にも、そうかもしれない、という諦めというか、納得するものが現れるようになっていた。

「やっぱりそうなんですかね」

 ユニスはそう言うと、目の前をふと見た。諏訪がメガネでなにかしらの捜査資料を調べているようだったが、それはいつものことで、その中にとくに変わった様子は見られない。

 トバはといえば、すっかり暇を持て余して欠伸をするばかりだ。

 だが、事件の総数と照らし合わせれば、むしろこれが本来の四課の日常であった。これまでが少しばかり忙しすぎたのだ。

「ユニスちゃん、コーヒーどうぞ」

 雨宮にマグカップを渡され、ユニスは慌てて頭を下げた。

「すみません」

 雨宮は自分のデスクの椅子を引っ張り出して、ユニスの隣に落ち着いた。

「なにかわかった?」

「いえなにも。やっぱりこの事件は関係ないんでしょうね」

「だろうね」

 雨宮は自分のコーヒーに口をつけた。そのときナオミが声をかけてきた。

「そういえば、あの事件はどうなった?」

 あの事件? どの事件のことなのかわからないユニスは、雨宮のほうを向いた。

「ああ、あれ。捜査は継続中らしいけど、事件性はないみたいだから、たぶん突然死で決着するみたいだよ」と雨宮が答えた。

「ふうん、そっか」

 それで二人の会話は終わった。ぽかんとするしかなかったユニスは、

「え、あ、いまの会話なんですか?」

 と慌てて訊ねた。

「なにが?」とナオミが聞く。

「あの事件のことですよ。あの事件って、なんのことですか?」

「会社社長が亡くなった事件だよ」と雨宮が今度は答える。

「会社社長?」

「あれ、知らないのユニス」とナオミが意外な顔をした。

「最近の事件ですか?」

「四日前の事件だったかな」

「五日前じゃない?」と雨宮。

「ああ、そっか。ぎりぎり五日前か」

「ぎりぎり?」

「夜中に起きたの」

「〈能力者〉がかかわってるんですか?」

 コーヒーを飲んでいたナオミが、笑った。「関係してたら私たちが捜査してるはずでしょ」

「そうですね」

「この事件だよ」

 雨宮がメガネを差し出した。ユニスはそれを拝借する。

 事件は十二月五日に起きたものだった。被害者は桧山慶一郎、チェーン展開している飲食店の社長。そんな彼が自宅の書斎で亡くなっていた。

 ユニスはまったく初耳な事件だった。(こんな事件あったんだ)でも報告書を読めばそれもそのはずで、事件には〈能力者〉の関与は一切認められていない。つまり、四課にとっては管轄外ということになる。同じ警視庁でも、世間を揺るがすような大きな事件でないかぎり管轄外の出来事はまったく耳に入ってくることはない。そこは素人と同じニュースを見なければ知ることはなく、ましてや路上で殺された事件の資料に没頭していたユニスにとっては、なおさら知る由もない事件だった。

 関与がないとなればユニスの関心も、たちまちのうちに失せていった。それでも報告を読み進めていくと、事件の様相に少し興味を覚えた。

(密室で、死んでいた)

「ちょっと興味惹かれる事件じゃない?」

 雨宮に言われて、ユニスは頷いた。

「さっきこの事件突然死で片付けるって言ってましたけど、本当なんですか?」

「だってそれ以外には考えられないでしょ。凶器があったり、外傷があれば事件だって言えるけど、部屋には凶器はないし、遺体にも外傷はない。なにより死因は心臓発作って解剖でも確認されているんだから」

「けど……この人、なにかに怯えていたっていう話ですよ。しかも、命を狙われているかもしれないって家族からの証言もありますし」

「あくまで、証言はね。でも、それを証明するものはなにもない。最近会社の業績が悪いようだったらしいから、もしかしたらその不安が、家族にはそう見えただけなんじゃない」

「それで書斎までリフォームしますか?」

「仮に、家族の言うとおり、本当に害者は命を狙われていたのかもしれないわね」とナオミが言った。「でも今回のこととは関係なかったのよ。まあ、命を狙われているっていうストレスがたかって、心臓麻痺を起こしたのかもしれないけど。なにより――」

「そう、なにより、亡くなっていたのは密室の書斎だった」雨宮が言葉を継いだ。「ドアにも窓にも破られた形跡はない。しかも、証言だと家族の目の前で亡くなったっていうんだし――正確には、ドア一枚隔てているけど、争うような音も、だれかの声も聞いてない」

「もしこれが〈能力者〉の犯行だったとしたら、そうね、以前にあった転移能力だったら密室も関係なく侵入できるでしょうね」とナオミは言った。「けど、書斎からはなんの反応も検知されていない。つまり、書斎では能力は使われなかった。転移能力なら部屋に侵入することは可能だけど、抜け出すことはできないってことになるわね」

「だったら、姿を消せばどうです。どこかべつの場所で能力を使って姿を消し、書斎に侵入してじっと潜む。そして害者が帰ってきたところで犯行に及ぶ。逃げるときは、消防隊が書斎に侵入して遺体を見つけたそのどさくさに紛れれば万事うまくいく」

「まあたしかに、方法としては決して不可能ではないわね。でもそれならどうやって犯人は害者を殺したっていうの?」

(そこが問題だ)

 遺体に外傷はない。薬物を投与した注射針の痕や、電気ショックなどを受けた火傷痕もないという。

 しかしその一方で、被害者は亡くなる一ヶ月前に人間ドッグを受診している。高血圧で肥満は指摘されているものの、心臓に疾患は見つかっていない。すなわち心臓麻痺を引き起こすような状態ではなかったということだ。

 ただ、もちろん、あくまで可能性の話であって、年齢的に突然心臓麻痺を起こしたとしても不自然とはいえない。

 ユニスはもう少しこの件について考えを巡らそうとした。しかし所詮は無関係な事件だ。

 彼女はため息をひとつつき、借りたメガネを雨宮に返却した。

 ところが、思いがけない方向からこの事件がユニスに問題を投げかけてきたのである。

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