第2話

 十二月六日――

『覚醒都市』屈指の歓楽街も、朝はネオンの輝きも鳴りを潜め、街一帯は死んだように静かだ。

 歓楽街から一歩路地に入ると、そこもまた寝静まったように静かだが、ネオンが鳴りを潜めながらも派手な外装の建物がひしめく場所とは打って変わった、庶民的な家々が立ち並ぶ路地の静けさは、むしろ穏やかで、平穏な雰囲気だった。

 さらにそこにラジオからちょうど流れていた『大きな古時計』のピアノの旋律ともあいまって、情緒すら醸し出している。


 いまは もう動かない その時計

 百年休まずに

 チク タク チク タク

 おじいさんといっしょに

 チク タク チク タク

 いまは もう動かない その時計


 ユニスは、無意識に歌を口ずさんでいた。

 だがそれも、突如湧いたように集まる人々の騒然とした雰囲気によって打ち破られた。

 ユニスは運転手の肩越しからその人垣を見た。

「なにかあったんでしょうか、事件ですかね」と運転手が言った。

「そうらしいですね」ユニスは身なりを整えながら答えた。髪は今日も寝癖でぴんとはねがあったが、もうどうしようもできない。「あ、ここでいいですよ」

「ここでいいんですか?」

「ええ、ここに用があるんです」

 運転手の不審のまなざしも気にせず、ユニスは噛んでいたペパーミントのガムを紙に包んだ。それをコートのポケットにしまうと――公務員の始業時間は七時四十五分からだから、まだ朝の七時のいまはやっぱり時間外労働(オーバータイムワーク)になるのだろう――返って来ないと思いながらも、タクシー代と引き換えにもらった領収書も同じポケットに突っ込んで、タクシーを降りた。

「おはようございます」

 人垣を掻き分け現場に入ったユニスは、すでにいた諏訪とトバ、二人の同僚に挨拶した。

「またお前、寝起きのまま来たのか?」

 トバが挨拶代わりに、ユニスの寝癖に目を向けた。

「慌てて出てきたんで」

 ユニスはそう言って寝癖を撫でつつ、諏訪に目をやった。ユニスはもうべつに彼の態度には慣れていたので、無反応な態度にはむしろいつもの彼を見れてよかったという気持ちだった。

 規制線の外に集まる野次馬やマスコミの目から隠すためのブルーシートが現場を覆っている。三人はその覆いの外で待機していたが、ユニスがそっと覆いの隙間から中を覗いてみると、鑑識作業はすでに終わって、入れ替わりに入った捜査一課の捜査員が遺体を目の前になにやら話し合いをしているのが見えた。

「刺殺ですって?」

 タクシーで現場に来るまでに、捜査状況についてはメガネで確認していたが、念のためユニスは聞いた。

「心臓に胸、腹の数カ所に刺し傷があるそうだ」とトバが答えた。

 死体発見はいまから一時間半前の午前五時半頃。場所は人通りの少ないこの路地。散歩中の老人が路上に倒れている男を見つけた。近くが歓楽街とあって、最初は酔っぱらいが寝込んでいるだけとばかり思ったらしい。そうした光景は珍しくなく、ゴミ捨て場に酔っ払いが投げ捨てられたように寝込んでいる姿を、老人は以前にも見つけていた。

 だからこのときもその類だと思った老人は、とくに気にはせず、しかし倒れていたのが路上のど真ん中とあって、心配にはなった。歓楽街の路地ではあるが人通りは少なく、それでも裏道を抜ける車がたまにあるので、轢かれたら大変だ。声をかけようと近寄っていくと、倒れている男の周りがどす黒く汚れていることに気づいた。それが血だとわかると救急に連絡。続いて警察が到着。

 検屍により、男の死因は失血死と判明。胸や腹に刃物で刺された複数の痕が見つかった。死亡推定時刻はおよそ九時間前の昨夜の午後十時から日を跨いだ午前二時頃。遺体の状況と、凶器が発見されないことから殺人事件として一課は捜査を開始した。

「それで――」ユニスは一番気になっていたことを聞いた。「反応のほうは、まだ?」

「まだなにも」トバが言う。

「そうですか」

 事件は重大だが、四課にとってなにより重要なのは、これに〈能力者〉が関与しているかどうかだ。

 鑑識による念入りな作業が行われたが、現場から能力反応は検知されなかった。〈能力者〉の関与は直接的には確認されなかったということだ。

 つまり、現時点においてこの事件は四課の出る幕ではない、ということだ。

 にもかかわらず、ユニスたちが朝からこうして駆り出されたのは、見つかった遺体の男が〈能力者〉だったからにほかならない。


 田所浩平

 男性

 五十八歳

 操作能力者 B-

 無職


 携帯していた〈能力者〉カードからすぐに身元は判明した。そこから管理データにアクセスされ、職業から住所などの詳細もすぐにわかった。

〈能力者〉は法律で身元を示すカードを常に携帯していなくてはならない義務を課せられている。不携帯が発覚すれば、言い訳も聞かず逮捕だ。もちろん刑事であるユニスも例外ではない。肌身離さず携帯している。

 一課の遺体検分が済んだようで、捜査員がブルーシートから出てきた。それを見届けてから、ユニスたちがブルーシートに足を踏み入れた。

 遺体の状況は報告書にまとめられていたとおりだった。刃物で刺された傷以外、遺体に異常は見られなかった。

「とくに変わったところはありませんね」ユニスは遺体をまじまじと見ながら言った。

「そうだな」と諏訪は初めて彼女の言葉に返事した。

「だったらもうガイシャの自宅のほうへ向かいましょうか」口元をおさえながらトバが言った。

 被害者の自宅で続いていた鑑識作業がたったいま終わったと、報告がメガネに送られてきたのだ。

「まだ大丈夫ですよ。それにいま向かったって一課の捜索を待つだけですよ」

 ユニスはそう言うと、遺体にまた手を伸ばした。遺体と並ぶ所持品については、メガネで調べた。

「所持品は財布に携帯、〈能力者〉カード、あとはペパーミントのガムだけか。財布の中身は、現金の小銭だけ。遺体の服装からするとお金を持っているようには見えないけど。最初から持っていなかったのか、それとも盗まれたか」

「自宅も安いアパートらしい。それでも物取りの可能性は否定できないがな」と諏訪が言った。

「物取りか、あるいは通り魔か。……死亡推定時刻は夜中の十一時以降……ガイシャはそんな夜中にどこに向かおうとしていたんでしょう?」

「近くのコンビニじゃないのか」トバが涙目で訴えた。

「コンビニ――」

 仮に路地をこのまま進んでいけば、その先にはコンビニがある。

「なあ、もういいだろ、それぐらいにしておこうぜ」

 トバの懇願に、ようやくユニスは立ち上がった。

「よし。自宅に向かうぞ」

 諏訪もそう言うと、トバは一番にブルーシートから抜け出した。

 ユニスが諏訪の車の後部座席に滑り込んだとき、助手席に坐っていたトバが、振り返った。

「お前、遺体見るの慣れてるんだな」

「変な言い方しないでくださいよ」

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