密室の死と、大きな古時計
第1話
十二月五日――
桧山慶一郎はこの日、朝から神経質そうにそわそわとして落ち着きがなかった。
仕事が終わり、夜帰って来てもそれは収まらず、むしろ一層激しくなり、妻がお手伝いと分担して済ませた戸締まりも、いま一度自分の目でたしかめないと気がすまないといったように、一階から二階のすべての部屋と廊下の窓の戸締まりをチェックした。それが終わると、自分の書斎に入り、鍵をかけて閉じ籠もった。
彼のこうした神経質な警戒心が家族の目につくようになったのは、二ヶ月くらい前になる。それまでももちろん、戸締まりなどには厳しかったが、あくまで妻や家族に確認を訊ねるだけで、わざわざ自分でひとつずつ確認することはなかった。
怯えている、家族がそう確信を得るようになったのは、一ヶ月前になる。彼が自身の書斎を、まるで要塞のようにリフォームしたのだった。書斎にある唯一のドアには二重の鍵を取り付けた。施錠は内側からしかできず、外には鍵穴もないため、一旦鍵をかけたら部屋の中からしか開けることができない。そして唯一の窓も防犯ガラスに取り替えたうえに、そこも二重ガラスにした。防犯グッズ等も買い込み、さらに家に帰るとまず彼が家族に聞くのが、不審な電話はなかったか、だれか訪ねて来なかったか、家の周りに不審な人物は見なかったか、というただならぬことを匂わす質問だった。
ここまで来ると、もはや疑う余地はなかった。しかし、当の彼は、頑なにその理由を言おうとはしなかった。しつこく訊ねようもんなら、
「うるさい」
と怒鳴る始末だった。
警戒心は日毎に悪化し、それは徐々に神経過敏といっていいほどになっていった。
桧山慶一郎が社長を務める会社は、彼が興し一代で現在の地位までのしあげた。
家族としては彼の抱えている悩みを、なにを警戒しているのか、その理由が知りたかった。しかし彼は家族のそうした相談にも頑なに答えなかった。
以前の彼にはない気性の荒さも、この頃から滲み出ていた。会社では厳しい彼も、家族の前では穏やかだった。それが家族の前でも口を荒げるようになった。
家族は心配しながらも、しかし彼の機嫌を損ねるもの憚り、いつしかこの話題を避けるようになってしまった。
そしてこの日、桧山は書斎に籠もると、そのうえで部屋の前に娘婿を警備員のように置いて、一晩見守るように命令したのだった。彼に従順であった娘婿は、社長であり義父である彼の命令を素直に従った。大学時代ラグビーに勤しんでいたこともあり、体力、腕力には自信があった。とはいえ、さすがにずっと立っているわけにもいかないので、途中から椅子を用意したが、それも書斎のドアの前に置き、だれの侵入も許さないと坐り込んだのだった。
桧山は時折、外にいる娘婿に声をかけた。
「ちゃんといるだろうな。――だれか訪ねては来なかったか?――怪しい物音は聞かなかったか?」
「大丈夫です」
その都度娘婿しっかり答えた。安全だとわかると、安心したように彼は引っ込んでいった。だが、それから十分も経たずに、またしても部屋の中から声がして、同じ質問を投げかけるのだった。
実際、その夜は穏やかで、物音しない静かな夜だった。もし仮に何者かが窓を割るなり、ドアの鍵穴を弄るようなことがあれば、すぐにわかったことだろう。しかし、そうした物音はおろか、人の気配すらなかった。
書斎から、娘婿に声をかける以外に、電話だろうか、ときおりだれかに話しかける桧山の声が聞こえた。娘婿はそれに聞き耳を立てるつもりはなかったが、聞こえてくるのがその声だけだったこともあり、自然と声に意識が持っていかれた。
「今夜だ。絶対だ……」
「指定した場所は覚えているな……」
「報酬は必ず……」
「失敗は許さんぞ……」
そして、商談でもまとまったのか、
「わかった……」
という言葉を最後に、彼の声は途絶えた。
夜も十一時になろうとしたとき、娘婿もさすがに疲れてきた頃、嫁であり、桧山の一人娘が、夫を労ってホットコーヒーを持ってきた。
「悪いね」
「いいえ。それより、お父様はどんな感じ」
「社長は大丈夫、中にいるよ。そういえば声を聞かないな。もう寝たのかもしれない」
娘婿がそう言うと、まるでそれを咎めるように、
「おい、そこにちゃんといるな」
と声をかけてきた。
「はい、ちゃんとおります、社長」と娘婿は背筋を伸ばして答えた。
「お父様、大丈夫ですか」
娘は思わず声をかけた。
「なんだお前もいたのか。心配するな。お前は早く寝なさい」
娘には優しい彼の声が返ってきた。
「でも私、心配で……」
娘は父を気遣い、それ以上の余計なことは言わないようにそこで口をつぐんだのだったが――書斎から桧山の苦悶の声が聞こえたのはそのときだった。
「な、なんだ――どうなってるんだ。やめろ、やめろ、苦しい!」
彼の異変は、外にいる二人にもすぐに伝わった。
「どうしました社長」
「お父様、どうしましたの?」
二人の声は、近くの部屋にいた彼の妻にまで届いた。彼を心配して寝付けなかった妻は、二人の声を聞くと慌てて部屋から飛び出してきた。
「どうなされたのです?」
「社長の様子が変なのです」
「苦しむような声が聞こえたんです、お母様」
今度は三人でもって書斎のドアを叩き、声を上げた。
しかし、その直後に聞こえた断末魔のような声以降、書斎は蛻の殻のように静かになった。
三人の脳裏を同じ不安が過ぎった。ついに娘婿が、その腕力でドアを破ろうと試みた。しかし、二重の施錠で固められたドアは頑丈でびくともしなかった。
彼の妻が消防署に電話をかけているあいだ、娘婿は窓からの侵入も試みていた。カーテンで遮られ室内の様子はわからなかったが、窓を叩いてもやはり反応はなかった。書斎は二階にあるので、梯子を使わなければ窓には届かず、ようやく届いても防犯ガラスがその行く手を拒んだ。ハンマーを持ち出すも、防犯ガラスは容易く割れてはくれなかった。しかもそれが二重ガラスとあってさらにたちが悪い。
書斎に足を踏み入れたのは、最後の声を聞いてから二十分が過ぎた頃になる。駆けつけた消防隊が防犯ガラスの窓を破ったのだ。
そうして踏み込んだ書斎には、息絶えた桧山慶一郎がいた。
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