第2話

 真帆ユニスはセットした目覚ましより三時間も早い、午前四時に叩き起こされた。

 彼女を叩き起こしたのはサイドテーブルに置かれたメガネだ。

 ピーピーと耳をつんざくような音は、彼女を心地良い夢から無理矢理引っ張り上げた。

(こんな夜中になんだよ)彼女は毒づいた。もっとも、初めは目覚ましのアラームだとばかり思っていたので、苛立ちを目覚ましにぶつけた。が、いくら目覚ましの頭を叩いても鳴り止まないので、(おかしいな、壊れたのか?)と訝しんでいるうち意識が徐々に覚醒し、そしてようやくその横に置いてあるメガネが原因だと気づいたのである。その瞬間、ユニスは弾かれるように跳ね起きた。

 メガネを掛けると警報音は鳴り止み、代わりに今朝――いや実際は昨日の朝になるのか――聞いた、少しタバコの臭いが鼻につく中年男の声が骨を伝って頭に流れ込んできた。

「おはようユニスくん、私だ。わかるかな?」

「イシマツ課長。おはようございます」

「こんな時間に悪いが、すぐに出て来てもらえるか」

「いますぐにですか?」

「そうだ。本当は今日の朝から働いてもらうつもりだったが、あいにく事件が起きた」

「……殺人、ですか」

「それ以外に我々が扱う事件はない」課長はつまらないことを言うように言った「書類上ではユニスくんは本日付け、つまり午前零時をもって四課に配属されていることになっている。問題はないはずだが、どうかね?」

「すぐに向かいます」

 そう返事をしたときには、すでにもうユニスは寝間着を脱ぎ、下着姿のまま部屋を駆け回っていた。タンスから一張羅のスーツを取り出して、ワイシャツに腕を通す。

「現場は追って送信する。――ああ、そうだ。この時間はタクシーの領収書を切ってもウチでは払えんからな。時間外労働オーバータイムワークは自腹で済ますのが今年からの規則になっている」

(ケチっ)ユニスは心の中で舌打ちしたが、課長に文句を言っても仕方ない。財布の中を素早く確認する。(まあ大丈夫だろう)

 通話回線が切れると同時に現場の住所がメガネに送信された。

 ネクタイを締めながらそれを確認したユニスは、割と近くでほっとした。タクシーなら八分ほどで着くだろう。

 ズボンを履き、ベルトを締め、歯を磨きながら、ボブカットの髪に寝癖で一箇所ぴんとはねた部分があったので、水で濡らした手で撫で付け整えようとするも、思うようにいかない。(もうこんなときに)時間もなく、ユニスは仕方なくそのままにした。

 コートを羽織り、財布、警察手帳をポケットに押し込むと、息が凍る十月の寒空の下へとユニスは飛び出した。


 ユニスが現場のアパートの一室に駆け込んだのは、それから十二分後のことだった。

 現場に足を踏み入れた彼女を迎えたのは、四人の男女だった。

 銀髪で五十代を迎えた、顔触れの中でもとくに歳のいったイシマツ課長は見てすぐにわかったが、残りの男二人に、女ひとりは見覚えがなかった。ただいずれも同じ黒いコートに、黒いスーツというまるでカラスのような格好からして、彼らが刑事であり、なおかつ同僚であることはユニスにもすぐにわかった。

「遅れてすみません」

 ユニスが言うと、すらりとした大人の女性刑事が面白いものを見るように微笑んだ。

「あら、可愛らしい子ね」

「なんだこのガキは」

 と毒を吐いたのは、その隣に立つ、赤い髪をツンツン立たせ、耳のピアスを光らす、およそ刑事とは思えない男性刑事だった。

 もうひとりの男性刑事は、背丈が一八〇ほどある、髪が耳を覆い、肩に触れるほどに長さがあって、ユニスの登場にも微動だにしない、寡黙な男だった。

 そしてユニスは、なんとなくこの男に注意が向かった。男のまなざしが、妙に冷たいことが気になったのだ。

 まあ、それはそれとして、

 ユニスが現場に現れると、課長が三人に彼女を紹介した。

「捜査会議の前に、先にみんなに紹介しておこう。今月から一名配属になることは前に話したと思うが、彼女がそう、真帆ユニス警部補だ」

「警部補?」赤髪の刑事は口を歪めた。「なんだよ、おれより階級うえかよ」

「当然じゃない。彼女は特別なのよ」

 屈託のない女性刑事の口調に皮肉は感じられなかった。それでもユニスは、特別という言葉に引っかかりを覚えた。

 が、いまはとりあえず紹介が先だとして、ユニスは背筋を伸ばし、足を揃え、敬礼した。

「本日付けで警視庁特別捜査四課に配属なりました真帆ユニスです。歳は十七。階級は警部補になりますが、なにぶん若輩者ですので、特別扱いせず、遠慮なくご指導のほどよろしくお願いします」

 はきはきとした声に、初々しいユニスの態度は思いがけず彼らを――少なくとも女性刑事と赤髪の刑事には好感を与えたようだった。

「私は草凪ナオミ。よろしくね」

 と女性刑事が名乗ると、

「おれはトバ栄吉だ」

 赤髪が続いた。

(ナオミさんに、トバさん)ユニスはその名前をしっかり頭に刻んだ。

「来ることは知ってたけど、まさかこんな若い子だとは思わなかったわ。まさか課長の趣味ですか?」ナオミが言った。

「冗談を言うな」課長は咳払いする。

「ところでその髪は、最近の流行りなの?」

「髪?」ユニスは髪を触った。「あ、これは――寝癖です」

 ユニスは必死にはねた髪を撫でたが、寝癖は直ってくれなかった。

「十七ってことは、草凪さんより十も違うってことか」

 ナオミは怖い目をトバに向ける。「なに勝手に人の歳ばらしてるのよ」

「いいじゃないっすか、そんくらい」

「わざわざ言う必要ないでしょ」

「言わなくてもすぐに分かるんだから」

「なおさら言う必要ないでしょうが」

 二人のやりとりにユニスは思わず笑みがこぼれた。

 さて、最後のひとり、ユニスにどこか無関心な態度を見せる彼はというと、重く口を閉ざしたままだ。しかしみんなからの視線を感じるとようやく名乗った。

「諏訪マサノブ」

 諏訪――ユニスはその名前もしっかり、とくにしっかりと記憶した。

「紹介が済んだところで、さっそく捜査会議を始めよう」

 課長がそういうと、四人はポケットからメガネを取り出し装着した。ユニスも遅れまいとポケットを探ったが、メガネがなかった。(あれ、どこいっちゃったの?)ポケットには家から出る際に持ち出した財布と警察手帳、あとタクシーを降りた際に受け取った領収書、それからペパーミントのガムしか入ってない。

 慌てるユニスに、ふと額にこつんとあたるものを感じた。ナオミが彼女の額を指で突いていた。それから自分が装着しているメガネを指で突いた。なんのことかと思い、ユニスも同じようにやってみたところ、指先がなにかに触れた。メガネだった。すでにメガネを掛けていたのだ。

「――では始める」

 課長の言葉に連動するようにして、事件に関する資料や報告書がずらりとメガネを介してユニスの目の前に表示された。

「事件の概要はここに来るまでに読んでもらっているので繰り返すまでもないと思うが、念のため簡単に説明しておこう。ガイシャの名前は西荻俊平、四十二歳。職業、雑誌記者。雑誌に記事を載せる際には安東守というペンネームを使っている。十二年前に結婚、ただし三年前に妻は病気で亡くし、現在独身だ。子供はいない。

 死亡推定時刻はおよそ四時間前の午前零時。遺体が発見されたのもほぼ同時刻。つまり殺された直後に発見されたということだ。発見者は隣の住人と管理人。隣の住人がまずガイシャの部屋からガラスの割れるような物音を聞こえ、そのあと争うような音と声が続く。不審に思って管理人通報。管理人がチャイムを鳴らして安否の確認をするも反応はなく、部屋には鍵がかかっていた。そこで管理人の一存でマスターキーによる解錠が行われ部屋に入ると、このとおり、部屋の中央に遺体が寝転がっていた――」

 課長がそう口にすると同時だった。生々しい遺体が部屋の中央――つまり、ユニスたちの足元に現れた。

 ユニスは小さな悲鳴を上げ、その場に転んだ。

「あらあら大丈夫」

「失礼しました」

 ナオミの差し出す手を借りてユニスは立ち上がった。

「おいおい、こんなんで捜査できるのかよ」トバが呆れたまなざしを向ける。

「あら、あんたこそ大丈夫なの?」とナオミがトバに聞き返した。

「べ、べつに、おれは大丈夫っすよ」

「お騒がせしました。会議、続けてください」

 突如出現した遺体、これはもちろん拡張現実ARが生み出した映像だ。メガネを介してでなければ見えない。メガネを外せばそこにはなにもない、殺風景なワンルームがあるだけだ。

「……すぐに管理人によって消防に連絡。救急隊が急行。駆けつけた救急隊から警察に通報。駆けつけた警察は、遺体の状況から事件として捜査を始めた。鑑識と検屍が行われた。検屍ではガイシャに外傷は見つからなかった。ただ背中に広く内出血の跡が見られたことから、胸腔内に損傷を起こし血胸状態であると考えられたが、死因の特定には至らず、解剖へと回された。その間に行われた鑑識により現場からはガイシャと発見者を含めて、複数の指紋が発見されている。血痕、血液反応はなし。そして、微量ながら反応が検知された。それで我々にお鉢が回ってきたというわけだ――」

 反応――〈能力者〉がその能力を使うと、硝煙反応のようにその周辺に痕跡が残ることは周知の事実だ。その痕跡が検知されたということは、すなわち現場に〈能力者〉がいたという事実を意味する。

 ちなみにいうと、反応が検知されるのは能力を使ったときにだけにかぎられる。〈能力者〉がただそこにいたというだけでは痕跡は残らない。つまり被害者の部屋で〈能力者〉が能力を使ったということだ。

 被害者は〈能力者〉ではない。隣人や、管理人にも違う。となれば、被害者以外の第三者である〈能力者〉がこの部屋を訪問し、わざわざ能力を発動したということになる。ちなみに、反応が検知されるのは能力を使ってから二十四時間ほどとされている。つまり二十四時間以内に〈能力者〉がこの部屋を訪れたということだ。

「――現在捜査一課のほうで地取りと関係者の洗い出し、それから自宅の捜索が進められている」

 事件の説明は、それで終わった。

「ここは自宅ではないのですか?」とナオミが聞いた。

「ここは仕事部屋だ」

「ああ、なるほど。どおりでなにもない部屋なわけか」

 ユニスは改めて室内を見回す。テレビもオーディオも電話も、ベッドもソファもない。あるのはデスクだけだった。本当はそこにパソコンもあったそうだが、鑑識によってすでに持ち出されたあとだった。

 キッチンには砕けたブランデーの瓶も散らばっていたそうで――それももう片付けられているが――第一発見者の隣人が聞いたガラスの割れる音と符合する。

 それから携帯電話も床に落ちていた。

「しかし」諏訪が口を開いた。「これだけでは〈能力者〉の犯行とは言えないのでは?」

「そうね」ナオミも同調する。

 ユニスも同意見だった。反応が検知され〈能力者〉が現場にいたことは証明された。しかし、それですなわち事件に関与しているかはわからないのだ。事件の起こる前にこの部屋を訪ねて能力を使っただけかもしれない。関係者の洗い出しもまだ終わっていないため、知人の〈能力者〉が訪れただけとも考えられる。幸か不幸か、このアパートには防犯カメラのたぐいがないため訪問者の確認は難しく、この説をただちに否定することはできない。

 だが、課長は断言するように言った。

「ほぼ間違いないと、私は考えている」

「なにか証拠でも?」諏訪が聞いた。

「――司法解剖の結果が先程出た」

 四人は送信された解剖報告書をそれぞれで確認した。

 たちまち、いずれも似た反応を見せた――つまり、眉間に皺を寄せたのである。

『遺体から毒物、薬物反応は検知されず。外傷も一切認められない。内臓系、脳にも損傷なし。胸腔内に血胸が確認されるも、肋骨、両肺に異常、損傷は認められず。その他の内臓系にも異常は確認されず。認められるのは、心臓がないことだけである』――(心臓がない?)ユニスはなにか見落としがあると思って報告書を読み直したが、事実は覆されなかった。

 遺体は心臓だけがなくなっていた。

 背中にあった内出血は、心臓がなくなったことで胸腔内に血液貯留を起こしていたためと判断。死因も心臓を失ったことによる心肺停止、および失血死と判断された。

 だが、ユニスが注目したのはそこではない。

 

(外傷を与えずに心臓だけを取り出すなんて)

 人間業ではない。

 となると、犯人はおのずと人間業を超越した存在――〈能力者〉にかぎられる。

「異議はないかな」

 課長が部下を見回して訊ねた。

 異議を唱えるものはだれもいなかった。

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