真帆ユニスの事件譚訪

花散流

消えた心臓と、謎の密室

第1話

 パソコンのモニターを見つめながらカップに手を伸ばした彼は、一口啜ろうとしてコーヒーが空だったことに気づき、そこでようやく時計に目をやった。

――午前零時。

 思いがけず仕事に熱中してしまったことに、そのとき彼は気づいた。しかし、それに見合っただけの仕事ができたことで彼の胸の内は満足感でいっぱいだった。締切は明後日までだが、原稿はほぼ書き終わっている。

 長い取材の日々だった。でも雑誌で取り上げ、それがこうしてひとつの作品になるのを目のあたりにすると、諦めずに続けてきた自分に誇りを覚える。

 そんな誇りを胸に、このまま仕上げてしまおうとしたが、一旦解けた集中力はそう簡単に戻ってくれないもので、キーボードに載せた彼の手は急に重たくなった。それでも、締切まで時間があるうえ、あとは締めの言葉だけを書けばいいという余裕もあって、彼はあっさりとパソコンの電源を落として、仕事を切り上げた。

 キッチンへ向かい、カップを流しに置いたあと、棚の下からブランデーを取り出した。氷を入れたグラスを持って、もといた椅子に腰掛け、一口飲む。

 仕事終わりの酒は彼の日課だった。部屋は静かで、グラスを傾けると鳴る氷の音がよく響く。外を走る車のクラクションが時折聞こえてくる。グラスを置き、一息つくと、ついにはなんの物音もしなくなる。これが彼にとっての日常であり、慣れ親しんだ生活。

 それなのに――それでもやはり――ふとした違和感を覚えてしまうのは否めない。

いまがまさにそうだった。

 そしてそうなると、否応なく、彼は寂しさに襲われる。

 この部屋には思い出を呼び起こすような品は置かれてない。彼がそうしたからだ。ここはあくまで仕事部屋。でも、頭の中にある記憶まではどこにも捨てることはできない。静かな部屋の中で、寂しさに襲われると、記憶たちが突然薪をくべて火を熾すように、ぬくもりを宿った思い出が彼の脳裏に蘇って来る。

 グラスのブランデーを飲み干し、新たに注ごうとする――が、その手は止まり、代わりにデスクに置かれた携帯に伸びる。自宅を選ぶ。コール音が聞こえて来る。それを聞きながら、おもむろにまたグラスにブランデーを注ごうとして――(なんだ?)――冷たい風に項を触られたように、ふいに背後に気配を感じた。

 彼は振り返った。そこには、(ありえない!)ひとりの人間が立っていた。

(男!)彼は咄嗟にそう思ったが、その人間は全身をコートで覆い、顔はつばの広いハットに隠れて、男か女か判別できなかった。それでも高い背丈に、大きな体格は男としか見えなかった。そしてその憶測は、すぐさま実証された。

「安東守だな」目の前に現れたその人間がそう言った。嗄れた声は男だった。

 男が呼んだ名前は、たしかに彼の名前ではある。しかし本名ではない。

「だ、だれだお前は!」

 彼は椅子から立ち上がり後退りする。しかしこれ以上さがる余裕などこの部屋にはなかった。狭いワンルームには窓すらない。換気扇がキッチンに取り付けられているだけだ。もちろんそんな小さな穴から逃げられるわけはない。玄関のドアだけがこの部屋と外を繋いでいる。だがそれは、男の背後に控えてある。ドアに駆け込もうとすれば、どうしても男の脇を通らなければならない。

「…………」

 彼の問いかけに男はなにも答えず、右手を翳しながらゆっくりと近寄ってきた。

 彼は恐怖におののきながらも、デスクに置いてあるブランデーの瓶に手を伸ばした。男の意図はわからない。しかし突然家に上がり込んでくる輩など強盗以外には考えられなかった。なによりこの男には不気味な――そう、不気味な殺意を感じさせる。それから――(何だこの匂いは? ペパーミント?)

 男がさらに一歩近づいてきたところで、彼は掴んだブランデーの瓶を思い切り投げつけた。瓶は男の顔の横をすり抜け、キッチンの壁にぶつかった。瓶は割れた。ただその音は男を一瞬だけ怯ませた。その隙に、彼は男の脇を抜け、玄関のドアに駆け込んだ。

(早く逃げるんだ!)

 彼は玄関のドアノブを引っ掴み、ドアを開けた――が、ドアは開かなかった。

(どうして!)

 ドアノブをいくら回してもドアをびくともしない。まるで壁のように彼の行く手を拒んでいる。まさか男の仲間が外でドアを抑えているのでは、そんな恐ろしい妄想が襲う。

 しかし、すぐに彼はそれが誤解であるとわかった。そればかりか、自分の犯した絶望的な過ちに気づいたのだった。

 鍵がかかったままだった。

(なにやってるんだおれは!)――彼はドアノブの捻りを摘んでロックを外そうとした。

 彼の首に腕が絡みついた。男が彼を羽交い締めにしたのだ。抵抗を試みるも、男の腕力はそれをはるかに凌駕していた。

 彼がようやく男の腕力から解放されたのは、部屋の中央に叩きつけられ寝かされたときだった。おまけに両手両足を手錠で固定され身動きひとつ取れない。彼の意識は沼のようにおぼろげだった。それでも目の前に聳えるように立つ男の姿は見える。

「こ、殺さないでくれ……」彼は懇願した。

「ジャーナリスト気取りの三流ライターが。他人の人生を滅茶苦茶にしておきながら命乞いか」

 男はそう言うと、被っていたハットを取った。

 彼は男の顔を見た。その瞬間、記憶の中にあったある男の名前が浮かび上がった。

「……お前は――」

 男の右手がゆっくりと彼に迫った。彼はそれを払いのけようともがいた。

 しかし男の右手は、無情にも、そして確実に彼の胸の上に置かれたのであった。

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