第32話 ヴェールの向こう


 春子は隣を歩くアランを見上げると不安そうに眉を寄せた――のだと思う。重たいヴェールが覆い隠しているため、その表情を拝見することはできないがここ最近、なんとなくだがアランは彼女の表情が分かるようになってきた。


「辺境伯というのは大変なのですね」


 ぽつりとこぼされた言葉に苦笑を返す。落ち合って早々、フローベール領のことを話したのは早計だったかも、と心配したが春子は特に不満げな様子は見せなかった。

 これがヴィルドール人の女性なら「また仕事?」と不満をぶつけるだろう。鬼無人は夫をたてることが美徳と聞いた時は自分の意見を持たないと思ったが、いざ夫婦として生活していくととても助かる。本来なら辺境伯であるアランは妻よりも国の守護を第一とすべきで、こうして毎日帰宅などしないのだから。


「いつご出立されますの?」

「明日の朝にフローベールへ向かいます。おそらく、数ヶ月は帰れません」

「仕方ありませんわ。それがお仕事ですもの」


 春子は足を止めるとアランを見上げた。楚々そそとした動作でスカートを持ち上げ、膝を折る。


「ご武運をお祈りしております」

「姫には苦労をかけます」


 無骨な手に、あかぎれひとつない指先が添えられる。人種の違いなのか自分よりも低い体温を感じてアランは微かに目を見開いた。

 春子からアランに触れるなど、初めてのことで驚いたのだ。


「いいえ、夫を待つのも妻としての努めでございます。アラン様のお帰りを、私はここでお待ちしておりますわ」


 くすり、と春子がヴェールの向こうで微笑んだ気がした。


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