第9話 砕けた煉瓦


(あ、やばい)


 春子は冷や汗をかいた。ぶらん、と左足が宙に浮いている。

 春子は張り付いた状態で、左足の付近にあるくぼみを恨めしそうに睨みつけた。

 そこには煉瓦が在った。上の方が少し欠けているため、足置きにしようと左足を置いて、体重をかけた次の瞬間、煉瓦はするりと落ちてしまった。違和感を感じ、すぐに両手と右足に力を込めたため、体の均衡きんこうを崩すことはなかったがさすがに人様の城を壊したことに罪悪感を覚えた。

 少ししてから遥か下の方で煉瓦が砕ける音が聞こえ、城内がザワつく気配がする。耳を澄ませばアランともう一人、恐らくローレンスという男だろうか。二人分の声が聞こえ、春子はすぐさまこの場を離れることにした。月明かりはとぼしく、黒の外套がいとうを着用しているしているがこのような家守やもり姿は万が一でも見られたくはない。

 できる限り、息をひそめて、音をたてないように横へと移動していると窓が開く音がした。


「壁が崩れたみたいだな。煉瓦が落ちてる」


 春子は動きを止めた。その声はアランのものだが、どこか武骨な印象を受けた。


「煉瓦が? 職人に修理を依頼しておきますね」


 それに対して、ローレンスという男の喋りはゆったりとして耳によく馴染む。まるで出会った時のアランのようだ。


「ああ、あと領民に城に近づかないようにも言っておいてくれ。なにぶん、古い城だ。ここ以外にも壊れかけている箇所があるだろう」


 やはり、何度聞いてもアランの喋り方に違和感がある。


(これが素なのかしら?)


 春子はわくわくした。アランも自分と同様、他者を演じていたのだ。きっと、春子を怖がらせないようにするためだ。

 優しすぎる夫に両目を細めて、微笑めばアランは「姫には俺から伝えておくよ」と言った。


(え、今から?)


 これはまずい。春子は与えられた自室ではなく、執務室の真上のに張り付いているのだ。

 戻ろうと来た道――否、壁を伝い移動しているとローレンスが「明日になさっては?」と呆れ口調で嗜めるのが聞こえた。


(ローレンス様、よくぞ言ってくださいました!)


 春子はローレンスを褒め称えた。会ったことはないし、その手腕はアラン経由でしか聞いていないが予想以上に思いやりのある人物と言える。

 ローレンスの言葉にアランは「はいはい」と投げやりに言葉を返す。


「分かっている。姫は疲れているだろうし、こんな夜遅くに部屋を尋ねるなどできるわけないだろ」


 アランの言葉もあり、春子はまた壁の移動し始めた。

 尋ねることできない――つまり、夜に彼らのが尋ねてくることはない。


(……もっと早く確証を得たかったわ)


 内心で息を吐きながら春子は右手で頭部を触った。外套越しに触れるのは、膝下まで自慢の黒髪である。

 つい先程、適当に切ったので今は肩下までの長さだ。夜に彼らが部屋を尋ねてくると春子が留守にしていることがバレてしまう。なので布団の中に毛布で人の形を作り、その頭部には切り落とした髪を置いてきた。

 大切にしていた黒髪を短くするのはほんの少しばかり、躊躇ちゅうちょしてしまった。彼らが部屋を尋ねてこないのなら切る必要はなかったのだ。


(まあ、いいわ。この方が軽いし、手入れも楽そうだし)


 鬼無には「髪は女の命」という言葉がある。長く艷やかな髪は美人の絶対条件なので春子もそれはもう大切にしていた。

 だが、初めてここまで短くして気付いてしまった。短い髪はなんと軽いことか。気のせいかいつもより俊敏しゅんびんな動きができる。

 あと、結ぶのも楽だ。何度も毛先からほぐすようにくしを通す必要がない。それどころか手櫛で簡単にまとめてしまえる。


(お父様達が見たら卒倒しちゃいそうですけれど)


 肝っ玉がすわっている彼らでも、春子が髪をばっさり切るとは思わないだろう。ほんの少し、おかしくて春子は笑ってしまった。

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