第2話 屋形舟
常世に住む龍帝の元には屋形舟で向かうという。
後宮で一番大きな池のほとりで、夷狗は屋形船の到着を今か今かと待っていた。生まれて初めて身に纏う花嫁装束は重く、早く脱ぎたいためでもある。離れた場所から自分を嘲り笑う肉親から、早く離れたいためでもある。この理不尽な人生から、早く開放されたいためでもある。
(生贄とは、龍帝様に食べられるということ。死んだら魂も龍帝様のものだから転生はできない……)
龍帝の花嫁に選ばれた時は絶望した。母は自分を生贄に差し出しても問題ない、悲しまないと口にして、背筋がぞっとする笑みを向けてきた。
生まれてはじめて母が笑いかけてくれたのに、あれほど恋い焦がれたものなのに、その笑顔を見た瞬間、夷狗は理解した。
(お母さまは決して私を愛してはくださらない)
分かっていたはずなのに、その現実を突き付けられた夷狗は次第に嫁入りの日が待ち遠しく思うようになった。
誰からも必要とされない自分を、生贄としてだが龍帝が必要としている。最期が龍帝の糧となるならこんな惨めな人生もいいもののように思えた。
しかし、夷狗の期待をよそにいつまで経っても屋形舟のやの字も見当たらない。
(できれば、一口で食べてもらいたい。痛いのは嫌いだから)
ほう、と息を吐き、池を覗き込んだ。凪いだ水面に自分が映りこむ。まず一番に目に入ったのは炎のごとく燃ゆる髪。次に青みがかった灰色の瞳。どれもこの国の民にはない色だ。
(この髪が、瞳がお姉さまのような黒だったら、お母さまは私を愛してくれたのかしら)
いいや、それは違うと思った。今よりも皇女らしい生活は送れるだろうが、母は愛してはくれない。無関心を貫くだろう。
そう考えたら水面に映る自分が泣きそうな顔をした。徐々に目尻は涙が溜まり、溢れ出た雫が頬を伝い、水面に落ちる。
静かに広がる波紋に、この場にいた全員が息を呑んだ。
夷狗が泣いたからではない。涙によって生じた波紋は消えず、幾重にも広がり、次第に大きな波となり池を、大地を揺らした。
立つこともままならず、夷狗はその場でへたり込んだ。視界の端では母と姉兄も同じようにへたり込むか、そばにある木にしがみつき、揺れの衝撃を逃がそうとしているのが見えた。
「な、なにが起きるんだ?!」
「きゃっ! 誰よ?! 押さないで!!」
「あんたが押してきたんでしょ!」
そんな中、一人の皇子が「なにか出てきたぞ」と池を指差して叫んだ。
「あらあら、たいそうなお出迎えでございますね」
突如として現れた朱塗りの屋形船——その船首に腰掛けた長身の女性は繊細に整った細面に甘美な微笑を浮かべ、夷狗達を見下ろした。
「とても賑やかで、煩わしいのはこの
微塵も欲を感じさせない清廉な声音とは裏腹に毒のある言葉に夷狗は
女性は夷狗の存在に気が付いたようで、頬に手を当てると小さく首を傾げた。黒髪が流れ、額から小さな角が覗いた。
「まあまあ、なんてみずぼらしい方。その衣装を着ているということは、あなたが青龍帝の花嫁になられるのですね。……ああ、ご挨拶が遅れました。わたくしは
地面に降り立った女性——歌流羅は笑みを深くさせた。
「花嫁御前をお迎えに参りました」
水が流れるようなしなやかな動作で膝をおり、「さあ、お手を」と夷狗に手を伸ばした。
夷狗がその手を取るか迷っていると背後で誰かが立ち上がったのが気配で分かった。衣擦れの音が
「——お待ちくださいませ」
近付いたのが母だと知り、無意識に呼吸を止める。
(まさか、お母さまが声をかけてくださるなんて)
少し、期待をしてしまう。そんな自分を浅ましいと思いながらも、母の言葉の先を待つ。
「妾はこの斎帝国の統治を任せられている
違った。母は女帝として龍帝の使者と話すために声をかけたのだ。
「この度は龍帝様が——」
夷狗は俯き、静かに時が過ぎ去るのを待った。
母は龍帝への弔いの言葉を口にし、末永い斎帝国の安寧を求めた。
にこにこと話を聞いていた歌流羅は頬に手を当て、小首を傾げる。口調といい、彼女の癖のようだ。
「あらあら、今代の女帝はずいぶんとおしゃべりなのですね。関係ない話をだらだらと……いつまで続くのでしょうか」
女帝の赤い唇が歪む。笑顔に怒りが滲む。
女帝が新たに唇を開く前に、歌流羅は再度、夷狗に手を伸ばした。
「さあ、花嫁御前。こちらに」
おずおずとその手に己の手を重ねる。すると池の水がふわりと浮かび、夷狗の周辺を漂い始めた。
「ご家族に挨拶はよろしいのですか?」
「……ええ」
挨拶もなにも、彼らは自分に声をかけられること自体嫌うはず。夷狗が再度、俯くと歌流羅はからからと笑った。
「では、参りましょう。青龍帝の元に」
周囲を取り囲む水が夷狗の足元で固まり、円形を形取る。夷狗が足を乗せると水は柔らかく反発するが足を飲み込むことはしない。
夷狗が両足を乗せると水の足場はゆっくりと宙を浮く。急なことに驚いて落ちそうになるが、歌流羅が支えてくれたため大事には至らなかった。
「す、すみません。すぐ離れます」
自分なんかより遥かに尊い貴人に支えてもらい、夷狗はさっと顔を青くさせた。今までの経験上、襲いかかるのは罵詈雑言だと知っている。いつものように俯き、時間が過ぎるのを待っているが歌流羅は何も言わない。
不思議に思い、おずおずと顔をあげると歌流羅は澄んだ青い瞳で夷狗を見据えていた。
「やっと、お目が合いましたね。あなたは青龍帝の花嫁になるお方、わたくしの主人なのですからお気になさらないでくださいませ」
先に屋形船に降り立った歌流羅は手を差し伸べる。
怒っている様子もないことに驚きつつ、夷狗は歌流羅の支えの元、水の足場から船上に移動した。
「さあ、こちらに」
案内され、座椅子に腰掛けた夷狗は周囲を見渡した。極彩色の
「青龍帝が治める地、
その言葉に、屋形船はゆっくりと池の底へ向かって沈んでいく。開け放たれた窓から水が侵入するが帳のお陰で夷狗の場所までは入ってこない。
それが不思議で両目を丸くさせると帳越しに、母や姉兄の姿が見えた。歌流羅に侮辱され、憤怒の形相を浮かべている母。その隣には秋嵐達皇女が身を寄せ合い、袖で口元を隠している。恐らく、笑いを堪えているのだろう。皇子達は興味なさげにするか水に沈む屋形船に好奇心に満ちた表情をしている。
(なんで、期待をしてしまうのか。期待しても無駄なのに)
まつ毛を伏せて、視線を落とした。人間の
(愛されたかった)
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