第10話 家族がそろう日
「便箋……色……」
読み終えた手紙を引き出しにしまったアリスは、返信用の便箋を探し始めた。目的の色は蒼と白。どちらかがベースで、さらにもう一つの色がアクセントになっていると、なおいい。
教えられたとおりに、自分の髪と瞳の色のものを探すが──
「ないわね……」
いいものが手元になかった。引き出しの奥深くまで探してみるが、やはりない。上質なものはたくさんあったが、あんなことを聞いてしまった手前、他の色のものを使う気はまったくなかった。
「よく考えたら、返事を書くのにも許可がいるのよね」
ビューローから離れて部屋を出たアリスは、最初に会った侍女に話しかけた。
「お嬢様? いかがされました?」
「あのね……便箋をね、買ってきて欲しいんだけど……」
「切らしておりましたか。申し訳ございません」
「ううん、違うの!」
欲しい色を必死に伝える彼女の意図が通じたのか、侍女が優しい笑みを向けた。どうもそういうことがわかっているような様子だ。アリスはこそばゆい気持ちになるが、伝えないと手に入らないのだから仕方ない。
買い出しとなると、返事を書くことができるのは、明日以降になるだろう。早く書きたい気持ちにやきもきする。やろうと思えば、さっと行ってさっと帰ってくることはできたが、侍女らの仕事を奪うわけにもいかなかった。
別れて部屋に戻る。
ドアを閉めたあと、ビューローの方を見てにんまりとした。
(も、もう一度読みましょ)
すすすっと向かって、引き出しに手を付けた時、ノックの音がした。
「どうぞ」
ばっと手を離して返事を出す。悪いところを見られたかのような反応だった。
「失礼します、お嬢様」
「ミシェル? どうしたの?」
入ってきたのはミシェルだった。
ミシェルはアリスが立つ位置を見て、意味ありげな表情に変わる。
「な、なに?」
「いえ──お嬢様、ご両親がお帰りになられます」
「お父様とお母様が?」
「はい。お嬢様もどうぞお迎えに」
「わかったわ」
アリスが手伝ってもらいながら急いで着替える。
家族なのだからそこまで気にする必要もなかったが、久々に帰って来てくれる両親に、彼女は少しでもおめかししたかった。
部屋を出るとルークと出会う。彼も少しめかしていた。
「姉上」
「あら、貴方もお出迎え?」
「ええ、久々に会えるので」
嬉しそうな声だ。
ルークは本来、王都の別邸に移っているはずだった。学園に通う間は両親と会える機会はなかなかないため、楽しみにしている様子である。
弟の気持ちを感じたアリスも、自然と笑顔になる。
「家族が揃うのは久々ね」
「そうですね。どちらもお忙しいので仕方ないのですが」
「そうね。……ねぇ、ルーク」
「なんでしょうか?」
「手でも繋ぐ?」
「なんでですか!?」
可愛い弟のことと、両親に仲良いところを見せたくて言ったアリスだったが、ルークは全力で拒否した。
手を取ろうとするアリス。逃げ回るルーク。それを優しげに見るミシェル。三者三様でエントランスホールに向かう。
すでに侍女が勢揃いで待ち迎えていた。端っこにはコリーナ。あまり会ったことがないからか、見るからにがたがたしている。
そうして待つこと数分、表玄関のドアが開かれた。
入ってきたのは二人の男女。それに執事と侍女が続く。
男性はアリスと同じ色の銀髪を短く揃えており、紳士スーツを着用している。細身だが体格はがっしりとしていて、迎えてくれた二人を見て子供のように笑っている。
女性はルークと同じ淡い金髪をしていた。複雑な編み込みがよく似合っている。すでに社交用のドレスではないため、見た目ではあまりわからなかったが、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる、グラマーなスタイルだ。待っていた二人を見てとろけそうな笑みを浮かべた。
両者とも見事な美形であり、四十近いはずだが、二十代後半と言っても誰も疑いそうもなかった。
「お帰りなさいませ、お父様、お母様」
「お帰りなさい、父上、母上」
アリスとルークが、タイミングを合わせて丁寧にお辞儀をする。姉はカーテシーで、弟は腰を折って。
「やあ、今戻ったよ。出迎えありがとう」
「ただいま、アリス、ルーク。知ってはいたけど、やっぱり戻っていたのね」
心地よい声が男女から綴られる。どちらもその容姿に合った美しい声をしていた。
「はい! お久しぶりです!」
ルークが満面の笑みを浮かべた。
『お帰りなさいませ、旦那様、奥様』
「君たちもありがとう。変わりなかったかな?」
「はい。特に大きな出来事はございませんでした」
「アリスのお茶会はどうだったの? 手紙読んだわよ。予定どおり催したんでしょ?」
ぐっ、とアリスが言葉に詰まった。何も今聞かなくてもいいじゃない、と目を泳がせる。
「お母様……そ、それは」
「ゆでダコになっておられました」
「ちょっと!」
『ゆでダコ』と二人が顔を見合わせた。ルークも不思議な顔をしている。
アリスがにらむが、発言者であるミシェルはは特に気にした素振りも見せず、すました顔をしていた。
「なんだか気になる話ね……アリス、あとで教えてね」
「えっ!」
「僕も聞きたいね」
「ええっ!」
「姉上、僕もお願いします」
「へええっ!?」
三人から言い寄られたアリスが一歩後ずさる。
両親が帰ってきてくれたのは、嬉しい。弟もいてくれている。家族が揃っているのだ。とても喜ばしい。
でもなぜだろう。彼女は出迎えたことを少し、ほんの少しだけ後悔した。
「そう、成長できたのね。よかったわねアリス」
「は、はい、お母様」
残念ながら昼食には準備が間に合わなかったため、家族が揃うのは夕食の時になった。
自室で刺繍の続きをしていたアリスは、母からお茶に呼ばれた。さっきの話を聞かせろ、ということらしい。
部屋に向かう際、父と弟から聞きたそうにちらちらと視線を投げられた彼女は、『男性陣禁止』と銘打って入室を制限。なおも付いてこようとする父に『嫌いになりますよ』と言い放ち、冷たくドアを閉じた。
そうこうあって、今は母と娘だけのお茶会をしている。
先日の話を母にする。それはアリスにとって非常に気が重く、大変に恥ずかしいことではあったが、彼女の中での一番の女性はいつも母親だった。
(相変わらずお母様は綺麗……)
ちらっと、己の母であるリエンナの容姿を見る。
とても実年齢に見えない美しい容姿、淑女たる冷静さ、崩さない微笑み。この歳でまだ社交の華と呼ばれているくらいだ。貴族としても女性としても、彼女は母親を尊敬していた。
「お恥ずかしい話しですが、なにも知りませんでした……」
すっとお茶を飲む。その仕草は洗練されている。ソーサーに戻す時にも音は立てない。彼女もまた、淑女の姿を見に付けている。
だがこと恋愛となると、途端におこちゃまに戻る。そのことが昨日に痛感された。贈り物の意図も知らず、見当外れのことを言い、挙句の果てには泣きわめいてやだやだと駄々をこねる。彼女でなくても、落ちこむのは無理もなかった。
だが、リエンナはそんな話を娘から聞かされても、口元に手を当て『ふふっ』と美しく笑った。
「恋愛なんて人それぞれよアリス。私なんて魔物の死体の前で出会ったのよ?」
「お、お母様……」
アリスが声を詰まらせる。
それだけ聞くとなんて嘘くさい話だろうか。令嬢が、魔物の群れの前で、侯爵家令息と出会う。
物語的には美しい。お姫様のピンチを救う王子様だ。アリスだって、昔から密かに憧れているシーンである。だいたいの敵は自分で片付けてしまうだろうから、夢のまた夢ではあるが。
それはともかくとして、リエンナの出会いのそれは大体の人は『ナニソレ』と言うだろう。それくらいにはありえない話だった。
しかし当の本人は笑顔を崩さない。
「でも私は今とっても幸せだわ。貴女のような娘も授かったんですもの」
「お母様……ありがたく存じます」
「アリスはどう? 毎日を楽しめているかしら?」
「私ですか?」
言われた彼女が考え込む。
(どうだろう……)
毎日のように、彼への思いに馳せている。ちょっとしたことで一喜一憂していて、疲れる時もあるし、嬉しい時もある。苦しかったりするし、喜んだりもするが悲しくなることもある。ミシェルや友人にからかわれて、昨日も失敗してしまった。
だけど今朝、もらったお手紙を読んで愛おしい気持ちになった。昨日のお茶会がなかったら、書かれていた内容にもっと慌てふためいたはず。
そう思えば、たとえ失敗だったとしても、開催して良かったと思える。友人に会えたことも、素直に嬉しかった。
苦しい、悲しい、嬉しい、愛しい。
それはきっと。
「はい、お母様。私は今、毎日が楽しくて充実しております」
アリスは言い淀むことなく、断言した。
娘の言葉に、『そう』とリエンナは微笑んで、お茶をすする。
(きっとお母様も……)
きっと母も、こんな想いを抱きながら過ごしていたはず。
そう考えると、立派な姿をしていた母が、彼女には身近な存在に見えてきた。
のほほんとする彼女とは裏腹に、カップを置いたリエンナはしごく真面目な顔つきになって、
「だけど、アリスはもう少し成長したほうがいいわね」
「うっ……」
「身体だけは立派に育っちゃって」
「お母様!」
「指南役とか付ける?」
「しなっ……! 必要ありません!」
『冗談よ』と言ってまたお茶をすすった。
さすがはアリスの倍を生きた人生の先輩である。アメとムチをうまく使い分けてくる。
褒めるし、励ます。だけどお小言も言ってくるし、冗談も言われる。アリスは勝てるわけがないと思った。
後ろから喉を鳴らしたような音が聞こえる。振り向くと、ミシェルが肩を震わせて笑いをこらえていた。
「ミシェル」
「はい、お嬢様。お代わりですか」
「違うわよ」
しれっと答えるミシェルを睥睨してから、母に向き直る。自分もお茶を飲もうとしたが、残りがあまりない。
ミシェルが静かに近寄り、お茶を注いでくる。けっきょくお代わりのタイミングだった。カップを見つめてぶすっとする。
彼女の様子を、リエンナは清雅な笑顔で見つめていた。
「それにしても、アリスも大きくなったわね」
「お母様」
「外泊でしょう? まさか娘の口から、そんな言葉を聞くだなんてね」
「だ、ダメでしょうか……?」
ほんの少し甘えた様子で、アリスが母の様子を伺う。どことなく視線も上目遣いだ。ダメだと言われたら泣いてしまうかも知れない。それこそおこちゃまみたいに。
「いいんじゃない? お父様には私の方から口添えしておくから」
「本当ですか!」
「私は貴女を応援するわよ」
「やったぁ! お母様、大好き!」
「でも、ちゃんと貴女から切り出すのよ?」
「はい!」
アリスが両手を合わせて、満開の花を咲き誇らせた。続いて手紙のお返事を考え出し、その綺麗な眉間に皺を寄せる。そうかと思えば、がっついた返事を出してしまって、彼から嫌われる未来を勝手に想像しては、悲しそうに顔を歪ませた。
表情をころころと変える娘の様子に、リエンナがミシェルを手招きした。
アリスに聞こえないように耳打ちを始める。
(お茶会でもこんな感じだったの?)
(はい。たいそうに可愛らしいのですが、ご友人にいじくり回されておりました)
(そう……まぁ、そうなるわよねこれ……)
(そうですね……)
二人が無言劇を繰り出しているアリスを見て、またひそひそ話し出す。
(幸せそうだからいいのだけれど……淑女としてはどうなのかしら。なんというか、あまりに……)
(……私はこの姿も含めまして、お嬢様が持ちうる魅力だと──)
(ふふ。そうね、わかってるわよ。貴女も支えてあげてね?)
(は、はい! もちろんです、奥様!)
「お母様? ミシェル?」
妄想から帰ってきたアリスが、こそこそと話し合う二人を不思議な様子で見つめた。
「なんでも」
「ないでございますです」
ミシェルの言葉遣いがおかしい。
不審に思ったアリスが問いかけるも、リエンナが夫人権限として黙らせた。教えられない彼女は不機嫌な顔をする。
「お礼はするのよ?」
「あ、はい、もちろんですお母様」
話を戻してくる母に、アリスも意識を向け直した。
「失礼な態度も取らないようにね」
「はい」
「言っておくけど、まだまだゴールじゃないのよ?」
「ゴール、ですか?」
「スタートラインのちょっと前、まだ準備運動に入ったばかりよ。結婚するのがゴールじゃないの。ようやくスタートするのよ」
「スタート……」
「家が変われば生活も変わる。苦労することもあると思うわ。失敗だってたくさん。子供ができたら悩むこともいっぱいよ。産んだあとも考えなきゃいけないことが山程ある。それがずっと続くのよ」
「…………」
母の言葉に驚く。そんなこと考えもしていなかった。
もちろん不安はある。求められる姿になれるだろうか。彼を支えられることができるだろうか。そういったことで悩んではいる。
だが、結婚したら一緒に住んで、毎日一緒にいて。ちょっとずつ触れ合えて、そのうち子供も産まれて、一緒に育てて。ずっと幸福でしかない生活が続く。彼女はそう信じて疑ってこなかった。
だが今は母の言葉に、頭に冷水をかけられたような衝撃を覚えていた。ほとんど茫然自失。目を瞬かせ、終いにはうつむいてしまう。
「そんな……そんなの……」
今でも苦しいことがあるのに。下を向いたまま言葉を絞り出す。
ミシェルが慌てるが、リエンナは動じることなく、子供をあやすように話しかけた。
「でもね、それ以上に幸せなことが毎日続くの。もう幸せだなと考えることも難しいくらい」
「……そう、なのですか?」
アリスが顔を上げる。そこには昔から変わらない、母の優しい笑みがあった。
リエンナはそれを見て、くすりと笑う。『本当に我が娘は』と言葉を続けた。
「貴女が幸せをくれたのよ?」
「え、私……?」
またもアリスが驚く。父や母の助けになったことなんて、記憶にはあまりない。むしろ迷惑をかけてばっかりだった。
洗礼の時も我儘を言ったし、そのあとも負担を強いてしまった。少しでも、と思って勉学等には励んできたが、自分がバカだったせいで、家族みんなに心配をかけてしまった。
そんな自分なのに、母は幸せをもらえたという。アリスにはわからなかった。
しかし、母であるリエンナは、不思議にしている彼女とは違い、思い出を蘇らせるような声で話していく。
「そうよ。へとへとになって帰ってきても、貴女が癒やしてくれたのよ。『ママ! 疲れているのなら私が肩たたきしてあげる!』って」
「…………」
「最初に子供を授かったとわかった時は、それはもうもの凄い騒ぎよ。執事も侍女もみんな泣き出して。あの人なんていきなり入学手続きをしようとして。止めるのが大変だったのよ?」
「…………」
「貴女が熱を出して寝込んだ時なんて、お父様も私もおろおろして。侍女長から『邪魔』と言われて部屋から追い出されて。それでもはらはらして見守っていたのよ、寝付けなかったくらい」
「…………」
「洗礼のあとも、絶対幸せにしてやるんだって、みんなでそう決意して。大変だったけど、貴女の笑顔を思えばどうってことなかったわ」
「……お」
「学園に行っちゃったあとなんて、寂しくて仕方なかったのよ。貴女は手紙をたくさん送ってくれたけど、どれだけやきもきしていたか。別邸に移ろうか、と何度思ったかわからないわよ」
「お、かあ、さま……」
「貴女が婚約するという話をした時、貴女は笑っちゃうほど舞い上がっていたけど、そのあと私も舞い上がって。神様にお礼を言ってからぐすぐす泣いたのよ。産まれてくれてありがとうって」
「おがあざま!」
すでにアリスは涙腺が崩壊していた。
ぼたぼたと流れる涙をミシェルがハンカチで拭いてくれるが、その優しい手付きからも想いが伝わってきて、どうしても止まりそうになかった。
そうしてアリスはやっと理解した。自分は愛されている、と。
「貴女がいてくれたから、私はもの凄い幸せなの。もちろんルークもね。だから貴女も幸せになりなさいね、アリス」
「はい、はい……おがあざま!」
「まったく。昔から泣き虫なんだから」
「ぞんなごどないもん……!」
「あらあら」
けっきょく、おこちゃまに戻ってしまった。だが今くらいはいいだろう。
びーびーと泣くアリスに、リエンナもミシェルも、それぞれのハンカチで涙を拭いていく。
自分が誰かの幸せになる。とても素敵なことだと思った。彼にとってそうなれるだろうか。そんな家庭を築けるだろうか。
なりたい、そうでありたい。
アリスは強く強く、そう願う。
「それはそれとして」
リエンナが雰囲気をがらりと変えた。
「お、かあさま?」
「スチュアート侯爵家として主催したお茶会を、失敗させたわね?」
「ふぇっ!?」
そこからのリエンナはムチしかなかった。
アリスは姿勢を正して、くどくどとお小言を聞く。茶会と社交の大切さを、社交の華本人から延々と聞かされた。それは、侍女が夕食の準備ができたことを知らせてくれるその時まで続いた。
だけど、それも。
なによ、笑っちゃって。反省してるの?
してますお母様。
あら、もう。
ふふ。
アリスは母の腕をつかまえて、嬉しそうにダイニングに向かった。
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