第5話 その令息、ぽんこつではない
翌日。雲ひとつない青空を見て、アリスはほくそ笑んだ。
いい鍛錬日和だ。思い切り飛んだら、さぞ気持ちが良いだろう。
裁縫箱にある刺繍途中のハンカチは思い出さない。あれを考えてしまうと、この空とは違う曇天が心に広がっていくようだった。
「今日はこちらでいいんですか?」
ミシェルがアリスを着替えさせながら問いかける。
さすがの専属侍女。昨日は少し感傷的になってしまったみたいだったが、あれからすぐに復帰していた。
「ええ。ありがとう、ミシェル」
「いえ。今日もお綺麗ですよ、お嬢様」
姿見の前に立ったアリスが満足そうに笑顔を見せる。
彼女が着ているのはバトルドレスだ。先日着ていた軍服然としたそれとは違い、ちょっと大胆に二の腕が出ている。
上半身はたっぷりの布で足首までドレープを描いているが、下半身のスカートは膝上まで。このままだとさすがに肌も中身も丸見えになるので、黒のタイツとパンツ、ブーツスタイルの靴で隠すようにしていた。
動きやすさ優先、かつ華麗に。アリスも気に入っている衣装の一つだ。このまま男性の前に出ることはできなかったが、今回は自分一人。それも空の予定である。問題なかった。
なんとなくその場でくるりと一回転してみると、ドレスから伸びた布部分がふわりと舞う。この表現豊かなところも、彼女が好む理由の一つだった。
「昨日は失礼いたしました」
準備も終えたところで、ミシェルが殊勝にも謝罪した。侍女としてのプライドや、その他いろいろと考えることがあるのか、今日は普段より大人しい。いつもならもう少し理由をつけては、あれこれ調整だと彼女の身体を触るはずなのに。
それに寂しさを覚えたのか、アリスがもたれかかった。
「お嬢様?」
「ふふ。ミシェルも柔らかい」
「もう、お戯れが過ぎますよ」
そうは言うが、大変に嬉しそうな顔をしているのは気のせいではないだろう。
「昨日のことなら気にしなくていいのよ? 貴女は大事な家族なんだから」
「お嬢様……ありがとうございます」
「私もちょっと昔を思い出してしまったわ。こうしてよく引っ付いていたわよね」
アリスが懐かしむように、ぐりぐりと身体を押し付ける。
「そうですね。あの頃は本当にくるくると私の周りを回られて。『お仕事の邪魔です』と言うと、涙目になられてましたね」
「もう! そんなことは思い出さなくていいの!」
「ふふ。あのお嬢様がこんなご立派になられるとは。月日が経つのは早いですね……」
少しのあいだ、沈黙が降りる。
「……ねぇ、今日は調整箇所とかないの?」
「……いえ、そうですね。この辺りを少し」
甘えたような問いかけに、ミシェルも調子を戻してきたらしい。アリスのお腹部分をさわさわと触り始めた。くすぐったさに身を捩るが、彼女も嫌がりはしない。
もう。あとちょっと。
言い合って戯れ合う。昨日の家族的な触れ合いとは違い、冗談交じりに美女二人がくっつきあう姿は、不道徳的な匂いを部屋に広げた。
そうして二人で擦り合っているところに、ノックの音がした。
ミシェルが寂しそうに離れて、様子を伺いに行く。
「お嬢様、弟君様です」
「あら。どうぞ」
入室を許可すると、利発そうな少年が部屋に入ってきた。
年の頃はまだ十二歳ということで幼くはあるが、成長期で一番見目が変わってくる時期である。部分的に青年らしさも混じっており、一種の危うさを漂わせていた。
「姉上、おはようございます」
「おはよう、ルーク。久しぶりね、王都の別邸に移っていたんじゃなかったの?」
アリスの実弟であるルークは、母親譲りの淡い金髪が特徴的だ。それに対して、アリスは父親からそれを受け継いでいる。
彼女はそれを誇りにも思っているが、母親と同じ色、というのを、それはそれでほんの少しだけ羨ましく思っていた。
それにしても、少し前までは『姉さま』と呼んでいたはずだが。背伸びをしたいお年頃なのかもしれない。
「それが、生徒の一人がやらかした一件、どうも長引くらしく。再開がもう少し先に長引いたということで、いい機会なので戻ってきました」
「まぁ、いつまで?」
「とりあえず今月いっぱいですね。来週まではいますよ」
「そう! ではしばらく一緒にいられるのね」
「はい! 今日の夕食を楽しみにしています!」
嬉しそうな声を二人が上げた。
「ルーク様、おはようございます」
「おはよう、ミシェル」
「それで、わざわざどうしたの?」
「いえ、訓練に向かうと聞きましたので。お見送りをしようかと」
「まぁ、ありがとう」
弟からの見送りということでアリスが微笑む。
生徒の一人がやらかした一件というのは、彼女も弟からの手紙で知っていた。
どうも伯爵令嬢と男爵令嬢が何やら激しく言い合ったあと、男爵令嬢が魔法を行使したようだ。学園内、しかも無許可で使われたそれは、教室の一角を無残な姿に変えた。今は復旧、学則とカリキュラムの見直しに時間がかかるということで、短期的な休校になってしまっている。
幸いなのは、甲高く叫んで感情任せに暴走した男爵令嬢とは違い、伯爵令嬢は冷静に対処したことだろう。一緒にいた取巻の令嬢はもちろん、敵意を振りかざした相手すらも護るために無許可で防衛の魔法を発動。そのおかげでけが人は出なかったようだ。
男爵令嬢は退学。生徒同士、学園内で起きた事ということで、家にまでは責を求められなかったが、醜聞は醜聞である。これから苦しい思いをするだろう。それで十分に反省してもらいたい。
同様に伯爵令嬢にも注意がいったが、人的被害を回避したということでお咎めはなし。それでも自ら停学を選択し、今は領地で静かにしているらしい。
それにしても、男爵家が伯爵家相手に喧嘩を売るとは。子供というのは怖いもの知らずだ。小さな社交場でもあるのだから、喧嘩などせず、将来の繋がりやパートナーを探せばいいのに。
そう考えたアリスだったが、嫌な思い出が蘇ってきたような、苦い顔をした。
「姉上……?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないの」
「そうですか……」
雰囲気の変わった姉を、ルークが心配そうに見つめる。ミシェルも黙り込んでしまった。
また心配をかけてしまった。アリスが己を叱責する。
それはもうあの時に十分にかけたのに、と落ち込んでしまう。
「それで、今日はどういった訓練をされるのですか?」
彼女の想いを汲み取ったのか、雰囲気を変えようとルークが明るい声を出す。姉と同様、弟もまた聡明で、思いやりに溢れる子だった。
こんなに優しい家族に、これ以上余計な気遣いをさせてはならない。アリスは弟の愛しい気持ちに決心する。
「どちらかと言うと訓練ではないの。新しいことを試してみたいというか……」
「あぁ、リチャード様のためなのですね」
「ルーク!?」
弟からの爆弾発言に、決心した姉らしい姿は一瞬で崩壊した。あたふたして答える。
「り、リチャード様は関係ないの。自己鍛錬というか、イメージトレーニングというか……とにかくそんなやつよ」
「姉上。別に僕がいても、リチャード様を愛称で呼ばれてもいいんですよ」
「ルーク!?」
弟の追加攻撃。ダイレクトアタックだ。もろに食らったアリスの心は瀕死である。
ルークは十二歳でありながら、すでに中等部の教育を修了している。優秀な姉を見て育ったためか、日々勉学に励んでいた。コンプレックスを抱いているかと思えばそうでもなく、美しく聡明である姉に、ただただ憧れを抱いた結果らしい。
しかしそれはアリスも同じだった。彼女もまた、中等部を卒業するころには高等部の教育を終えていた。
それなのに、この差はどこから来るのか。まったくもって不思議だった。
(え、私、弟に翻弄されてるの? 嘘でしょ?)
そんなことはあってはならない。彼女はせめてもの反撃を試みる。
「る、ルークこそ。王女殿下とは、その、ど、どうなのよ」
「どう、とは?」
「ええ!?」
反撃はカウンターを食らった。
王女殿下。これも弟からの手紙で知っていた。ルークは王女殿下──クローディアからアプローチをかけられているらしい。
王家から好かれるとは。アリスは姉として鼻が高い思いも抱くが、その手紙を読んだ日はなかなか寝付けなかった。どうも手紙の節々から、自分なんかよりよほど高度な恋愛をしているように感じたのだ。
決してアドバイスを期待しているわけではない。成人した自分が、中等部上がりたての弟に頼るわけがない。大人の女性は大人の恋愛をするのだから。付き合いが長いとはいえ、いや、だからこそ不敬になってはいけないから話を聞くだけ。そう、全ては可愛い弟のためだ。
そういった諸々の思いも込めた反撃ではあったのだが──
「それは、その……」
もごもごとアリスが口ごもる。
どうして自分が恥ずかしい目に合わないといけないのか。自分はただ、弟の恋愛について聞きたいだけなのに。
そう思うが、自分から出した話題なのだから、とほんのり赤くなった顔で口を開く。
「その、王女殿下と、どういうお、お付き合いをしているのかって……」
「クローゼ──クローディア王女殿下とは、適切な距離感を保って付き合っていますよ。今は勉学に集中したい、と伝えてはいますが、あまり聞いてくれなくて。好意を向けられているのはわかります。ですが、今は自分のことで精一杯なんです。ただ、彼女の高い知識と、王家であるゆえの深い見識は助かっています。一緒に勉強するのは楽しいですね。陛下や父がそろそろ婚約の話をするそうですが、僕はまだ早いと思っています。もう少し成長してから、その時にも気持ちが変わらないのであれば、交わしてもいい、と思っています。本来断れないんですけどね、親と第二王子殿下に感謝ですね」
「え? あ、えっと……」
すらすらと述べる弟に、姉がたじたじとなる。才媛であるにも関わらず、彼女は理解が追いつかない
(えっと、つまりどういうこと……?)
──悲しいかな、聡明で思いやりに溢れる似た者姉弟は、こと恋愛力という点では似ても似つかなかった。
「そ、そう。よいお付き合いをしているのね……?」
「そうですね」
涼しい顔で答える姿を呆然と見つめる。しかも、家族の前では『リック』と愛称で呼ぶことができない自分とは違い、ルークはナチュラルに王女を愛称で呼ぼうとしていた。
どうやら自分は弟に負けているらしい。アリスがようやく認める。会えれば嬉しいきゃっきゃっとはしゃぐだけの自分が、子供のように思えた。子供のような、ではなく、まぎれもなく子供だった。
「言い過ぎですよ、このお嬢様に向かって」
ミシェルが庇う。
「すみません姉上」
さらにルークが追い打ちをかけた。
(やめて、庇わないで、謝らないで。これ以上はお姉ちゃん、本当に惨めになっちゃう)
まったく嬉しくないそのフォローと、これまた全然嬉しくない謝罪に、
「と、とにかく。清きお付き合いをしなさいね、ルーク」
「もちろんです、姉上」
けっきょく当たり障りのないことしか言えなかった。そのことにまたずぅんと落ちこむ。
(それにしても、『適切な距離感』か……)
落ちこむ気分とは別に、アリスは考える。
彼と自分のそれってどんなのなんだろう? 来年には婚姻を結ぶのだから、もうちょっと、なんというか、近づいても良いのかも知れない。手は何度も、恥ずかしさで死にそうになりながら握ってはいるが、もうちょっと踏み込んで……腕とか組んじゃって。ひょっとしたら抱きしめたりもできるかもしれない。ええ! いいの!? そんなこと! 軽い女だと思われるんじゃ!
「姉上?」
「ダメよダメよそれは……」
「あーねーうーえー?」
「あ、でも…………あ、でも!」
「ルーク様、そっとしておきましょうか」
「う、うん、そうだね」
放置されたアリスは、一人悶々と考え込む羽目になった。
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