第4話 その令息、ぽんこつにつき
アリすら四人が楽しくしていた一方で。
もう一人の婚約者であるリチャードはというと、クライン領の屋敷にある執務室で、大量の書類を前に悪戦苦闘していた。
リチャードはクライン公爵家令息であり長男、つまり次期クライン公爵である。だからこそ、領地経営や帝王学など学ぶべきことは多い。彼女が安心して嫁いでこられるようにもしておかないといけない。だから課題や勉学には納得である。
納得であるのだが、それにしても──
「いくらなんでも多くないか?」
片付けたと思った端からどさ、どさと置かれる書類の束にうんざりとしてしまう。
「だから言ったのですよ。毎日少しずつでも片していきなさい、と。これでもペースは減らしているんです」
呆れた声を隠そうともせず、長期休暇前に出された課題を期日ぎりぎりでやるような、出来の悪い子供を叱る親のような言葉。
リチャードがじろりとにらむものの、相手は涼しい顔で新たな書類を机に置いていく。
「この前の訓練前にやろうとしなかった、リチャード様が悪いんですよ」
言葉の持ち主であるアレフは執務室にある輔佐机に座り、同じように書類を捌き始めようとする。恨みがましく見てくる視線など、どこ吹く風だ。
リチャードはペンを置き、不満げに腕を組んだ。
「しかしだな。婚約者に会えるとなると、他に手がつかなくなるのは当然だろう」
「気持ちはわかりますけどね。そのせいで、私も妹との時間が足りないのです」
「む……」
「完全に嫁ぐまで、もう時間がないのですよ。わかったらキリキリ働いてください」
「…………」
そう言われるとなにも返せなくなる。未来の相手は大事だが、今の家族も同じように大事なのだ。相手のそれをないがしろにするわけにはいかなかった。
むすっとしたリチャードは、大人しく書類に目を落として再開した。
そうしてから数時間。気づけば空に紅みがさす頃。
「んん……」
キリの良いタイミングで、リチャードが大きく伸びをした。
それを見たアレフもペンを置いて、
「休憩にしますか」
「そうだな。本当にそうだな」
凝り固まった筋肉を揉みほぐしながら、恨めしげに言う。
本当はキリが悪いが黙っておく。自分に不利な情報は隠す。これも貴族として重要なファクターだった。
「ふう……」
姿勢を戻して息を吐く。
今ごろ彼女はなにをしているだろうか。寂しく思ってくれてはいるのだろうか。
愛する婚約者の花が咲くような笑顔を浮かべつつ、思いを馳せる。
ちなみにその時のアリスは、進捗悪しの刺繍後を見て愕然としていたのだが、そんなことは知るよしもなかった。
「お茶を。それから夕餉の準備を。お茶はゆっくりでいいですよ」
アレフがそばに控えていた侍女に指示をする。侍女はぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとする。
(ふむ……)
その様子をリチャードが眺める。
アレフは己の従者であり、補佐であり、執事でもある。ほとんど仕事まで担当する側仕えな状態だ。昔から身の回りをサポートしてくれてきた名残でもあるし、今やなくてはならない存在ではあるのだが──
そのせいで家族との時間を奪ってしまっているのも事実であり、申し訳ない気持ちをリチャードは抱えていた。
(いずれ引き継ぎなりなんなりして、負担を減らしてやらないとな)
そんな主らしい思いを抱く。
侍女が退出して二人だけになると、アレフはどかっと音を立てて座り、ほとんど寝転ぶように椅子にもたれかかって、頬杖をついてにやにやとこちらを見てきた。
「しっかしお前もあの子も、ほんと進展しねーよな」
二人になった途端これである。
彼らは幼なじみであり、友人でもあった。兄弟同然で育ったため、他の者の目がなくなると、年上のアレフはすぐに素に戻って兄貴ヅラをしてくる。
前言撤回。やはり仕事は減らしてやらない。
弟分は考えを改めた。
「あれから会話したのか?」
「いや。状況から、向こうも遠慮しているだろう。こちらから連絡するのは悪いと思ってな」
リチャードが言うと、アレフは呆れたようにがくっと姿勢を崩した。
「なんだそりゃ。剣で切り合ったり、魔法をぶつけ合ったりするやつの言うセリフじゃねえぞ」
「うるさい」
「手を繋いだことくらいしかないんじゃないか?」
「……前から言うが、彼女とは出会いが遅かったのだ。本来なら学園で共に過ごし、その、愛とやらを育むものなのだ。たぶん、きっと」
「……まぁ、な」
「俺はそれができなかった。だからこそ大事にしている」
リチャードはとある理由から学園に通うことはできなかった。幼い頃から屋敷で過ごしてきた。
同じ存在である彼女のことを知り、そして普通に生活をしていたということを聞いた時、彼はひっくり返りそうになったのだ。
スチュアート侯爵は化け物か、と。
「俺には俺の考えがある」
「そうは言うけどな。あまり大事にするのも考えもんよ? ちょっとくらい強引にいったらどうだ?」
「ば、バカを言うな。まだそんな段階では……ない、はずだ……いや、まさか……そんなはずは……」
「はぁ、これだよこれ。本当に似た者同士というか……」
ぶつぶつと思案を始めるリチャードに、アレフは呆れた顔をした。
リチャードの言うとおり、彼女との出会いは遅かった。つい二年前だ。そこから少しずつ仲を深めてきている……深めてきているはずだ。なればこそ、ここで台無しにするような手段を取れるはずもなかった。
誠実たれ。それだけがリチャードの信念だった。
「俺のことより、貴様はどうなんだ」
「あ? 俺?」
「こないだもいい雰囲気になっていただろう」
「おいこら、よしてくれ。そんなんじゃねーよ」
ぶすっとしたアレフがそっぽを向く。人差し指で膝をとんとん叩き始めた。
「一緒に行けばよかったではないか」
「行ってどうすんだよ。どーせあーだこーだ言われるだけで──」
頭をがりがりとかくアレフに、リチャードは『ふっ』と鼻で笑って、
「なんだ。そっちも進んでないではないか。チャンスは大事にしないといかんぞ」
「お前にだけは言われたくねえ……しっかしメリッサのやつ、張り切っていたな……」
「そうなのか?」
「『刺繍を見てあげるんです』ってさ。俺といる時より楽しそうだった……」
アレフが思い出すように中空をぼんやりと見る。妹だけではなく、もうひとりの人物のことも考えているのかもしれない。
リチャードが見ていると、アレフはぱたぱたと手を振った。俺の話は終わり、とでも言いたげな姿に、リチャードもそれ以上の言及はやめた。
「とにかく、だ。俺はアリーを大事にすると決めたんだ。強引にとは言っても、嫌われては仕方ないだろう」
「でもさ。それで彼女が他の男に取られたらどーすんの? 見た目も身分も引く手あまた──」
「んなっ!?」
がたがたがたたんどかっ!
床、椅子、机。すべての音を盛大に鳴らし、リチャードがものすごい勢いで立ち上がる。
「きゅ、急になんだよ! びっくりするだろ!」
アレフの言葉など耳にも入らず、両手をついた机を青ざめた顔で見つめる。
驚愕、という言葉がぴったりな顔である。コワモテで、デカブツで、表情も怖い。子供が見ると間違いなく泣く。いや、大人でも泣き出すかも知れない。
だがそんな他人の感想などどうでもいい。
ほかのおとこにとられる。
なんだそのききおぼえのないことばは。なにごだ?
「バカな。彼女は俺の婚約者だ」
そう、本当にバカな話だ。
彼女は婚約者である。つまり結婚を約束した仲である。それなのに他の男にうつつを抜かすだろうか? この間も言ってくれたじゃないか。『慕っている』と。
「あー……婚約ってただの約束だから……解消とか破棄とか──」
「はあぁ!?」
「ちょ、詰め寄ってくんなって! 怖い! マジで怖いから!」
こんやくはき? こんやくかいしょう?
どうもきょうはみみがおかしくなっているらしい。
リチャードがアレフの胸ぐらをつかむ。その手はぼやりと光っていた。
「アリエン」
「悪い! 俺が悪かった! 苦しいからやめてくれ! なに使おうとしてんだ!」
「アリエン」
「だな! ありえねえな! 彼女はそんなんじゃないって! お前に惚れてるよ!」
そンナんジゃなイ。俺ニ惚レていル。
それだけが彼の心に届き、人間らしさを取り戻す。つかんでいた手を離した。光は消えていた。
アレフは襟を正しながら、非難がましい視線を向けた。
「……ったく。そこまで気にするなら、少しくらいは強気に出たらどうなんだ。……って聞いてるか?」
「他の男……解消……破棄……アリー……」
「だめだこりゃ」
肩をすくめるアレフを無視し、リチャードは頭を抱えて机に突っ伏した。
彼の脳内に、ある一つの光景が思い浮かんでくる。
『ごめんなさい、リチャード様。私、こちらの方を好いてしまいました』
『リチャード様ったら、ぜんぜん男らしくないのですもの』
『私、打てども打てども響かない殿方は好きじゃないの』
『ごきげんよう、さようなら』
そう言って、ついこないだまでは自分に向けられていた奥ゆかしい微笑みを別の男に向け、嬉しそうに寄り添ってその腕を取り、背を向け離れていく──
「うおおおお!」
「今度はなんだよ!」
「アレフ! なんとかしろ! アリーを取り戻さないと!」
「意味わからんが落ち着け! 冷静さも男の大事なポイントだ!」
「ポイントか! アリーもそうか!?」
「ああそうだ! きっとそうだ!」
男の大事なポイント。彼女もきっと重要視する。
幻影を振り払い、なんとかリチャードは落ち着きを取り戻した。
「はあ……はあ……」
「大丈夫か。妄想はなはだしいぞ」
「う、うむ……すまない……」
「相手を信じてやるのも、婚約者の努めだからな」
「そ、そうだな……」
そうだ、とリチャードが思う。
自分が彼女を信じなくてどうする。きっと今ごろは、今度渡してくれるハンカチに向けて、微笑んでくれているはずだ。きっとそうだ。彼女は一度言ったことは覆さない。そんなことはわかっているじゃないか。
ちなみにその時のアリスは、進捗悪しの刺繍を眺めてため息をついていたのだが、リチャードには知るよしもなかった。
「それとだ。気づいていただろ? この前の彼女のドレスはけっこう攻め気味だった」
「む! や、やはりそうだったのか……?」
「そうだよ。これまでの超絶潔癖ピッチリから、多少なりとも肌を見せるようになったのはいい傾向じゃないか」
「むぅ……他の男に見せたくはないのだが……」
たしかに、この間の彼女のドレス姿は、ほんの少しいつもと違っていた。これまでは首元まで布があるのがほとんどで、たまに出しても鎖骨周りだけだったはずだ。それがもう少しばかり、深いカーブを描いていた。
その驚くほどに白かった肌を思い出し、顔が熱くなる。
「なに考えて──いや、丸わかりだな」
「む、そんなこと、ないぞ」
「ああそう。でもな、お前の対応がダメだ。ダメダメ。ダメすぎダメ男だ」
「貴様……」
ダメダメダメダメ言われたリチャードが、眉を吊り上げて不機嫌そうににらみつける。
この前の自分の行動を振り返ってみるが、特別ダメだったと思えることはなかった。出迎えの時は彼女の姿に驚いてしまったが、そのあとは冷静に振る舞えたと思う。二人だけでの茶会や散歩の時も、緊張はしたものの、流行りの管楽や最近の政策、技や魔法といった内容で会話は弾んだ……弾んだはずだ、と信じたい。今こうして罰を受けている、という問題はあったが、そこは彼女とは関係ないだろう。
「……なにがそんなにダメなんだ」
わからなかったリチャードは、イヤな顔をしつつもアレフに尋ねる。
だがそんな彼とは対象的に、アレフはすぐに指摘した。
「ドレス姿を褒めたのはよかったけど、そのあと見ようともしなかったろ。あれはダメだ」
「……?」
言われたリチャードが不思議そうな顔をする。
彼女が勇気を出して、いつもとは違う姿で会いに来てくれた。
彼にとってそれは大変に喜ばしいことだったが、だからといって女性の胸元をじろじろと見るわけにもいかない。だからこそ、視線をあえて向けないようにしていたのだ。己の全気力を振り絞って。
だというのに、目の前の男はそれがダメだったという。意味がわからない。
「どういうことだ。じっと見るのは失礼だろう」
「なんでゼロか百かなんだよ。断言してもいいぞ。彼女はあのあと落ち込んでいる」
「なに!?」
一応は兄貴分であるアレフの言葉に慄く。なぜ彼女が落ちこむのか、まったく理解できなかった。
「はぁ……あのな、そりゃあ鼻息荒く下心丸出しの助平な顔をしてたら、誰だって嫌悪する。でもな、まったく見ないってのも失礼なんだよ。基本的に見せるために着ているんだから。それも誰でもってわけじゃないぞ。好きな相手だからこそ見せたいんだよ」
「なっ……」
目からうろことはこのことか。
そうだ、彼女はほんの少し攻め込んだドレスを着てきた。それは誰のためだ?
当然、自分のためじゃないか。
きっと前もっていろいろと悩んだはずだ。普段とは違う格好をするのだから。それでも、彼女は勇気を出して自分のために着飾ってくれたのだ。
それなのに。
「つまり俺は、彼女の決意を台無しにしてしまったのか……」
取り返しのつかないことをしてしまったと言わんばかりに、リチャードが机に突っ伏した。
もうあのような姿はしてくれないかもしれない。呆れられたかもしれない。なんて魅せ甲斐のない男なんでしょう。そんな声が聞こえた気がした。
「そこまで落ち込むかよ……あー、なんだ、誠実なのはお前の良いところだよ」
アレフが弟を慰めるように言った。
リチャードが顔だけ上げる。目尻に涙をためながら、
「そ、そうか!? アリーはまだ、俺のことを見捨てないでいてくれるか!?」
「たぶんな。それにもしかすると、次は更に攻めてくるかもしれない」
「あ、あれ以上だと!?」
この間ですらキツかったというのに。
どうする、自分は耐えられるか?
自信はまったくなかった。
「だからその時に後悔しないよう、両親や周りに聞いてみろよ。メリッサに相談してもいいが……あいつは彼女寄りだしな……」
「そ、そうだな!」
「とりあえず手紙でも書いたらどうだ? 回りくどいが、会話とは違う楽しさもあるしな」
「なるほど」
彼女寄り、というのはリチャードにはよくわからなかったが、次の機会には是非良い印象を与えようと決心する。
手紙というのも良い手だと思った。サプライズにもなる。喜んでくれるだろうな。
『リック様。私、貴方様の誠実さと、男らしいところが大好きです』
彼女がそう言う姿を、にやあと思い浮かべる。
その怖い笑顔に鳥肌を立てたアレフは、腕を擦った。
「ちょ、調子に乗んなよ。女心は綿毛だからな。柔らかいけど、ふわふわしてすぐに飛んでいっちまう」
「うむ、うむ、そうだな。心得た」
飛んでいってしまうという言葉に、リチャードが姿勢を正す。
「デカイからといって胸ばっかり見るんじゃねえぞ」
「キサマ! そンないヤらしイ目でアリーヲ見てイタのカ!?」
「なんだこいつ! めんどくせえ! なんでそうなるんだよ! ただの忠告だよ! それになんか怖えよ発音が!」
『忠告』という言葉に、また人間の心を取り戻す。
「耐えられる自信はないが……助平心なんてものは抱かん。安心しろ」
「まぁそうだな。お前はそうだろうな」
「どちらかというと、彼女の気品ある姿勢や気高き精神を見ていたい」
「今どきお前のようなやつも珍しいよな……」
誠実たれ、それだけがリチャードの信念だった。
これからも誠実でいよう。何より愛しい婚約者のために。婚姻するまでは手は出さない。だが少し、本当に少しだけ意識を変えてみよう。彼女が怖がらないように、だけどその意図は組めるように。こいつや他の経験豊富な人物に聞いてみることにしよう。少しは成長していると良いのだが。
深く考えた彼の耳に、軽薄な声が聞こえてきた。
「しっかしあのドレスよかったよなー。別段凄いもんでもないんだけどさ。普段がああだからかね? なんかギャップというか、雰囲気というか? いや普段のアレもよかったんだけどな、どエロくて。気づいていないのも背徳ぎりぎりというか。でもそれを『がんばりました』みたいにちょっとだけ谷間見せちゃってさ。恥ずかしそうにして。なにあれ。いや、もちろん俺は別に彼女に対して思うところはないんだけどさ。それとは別次元で、なんかお礼を言いたくなるというかなんというか──」
「キィサマァ!」
「あ、やっべ!」
「コロスゥ!」
「はいバーリア! 残念でしたー! もう大結界貼ってあるもんね! 俺の全力を──ちょっと待て、マジでそれはやめろ! 屋敷が!」
「ダアァーイ!」
「ゲ、ゲート! お願い、間に合ってぇ!」
物語のヒロインのような悲鳴を最後に、部屋は静かになった。
お茶を運んできた侍女が誰もいない部屋を見て、『またか……』と呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます