第2話 ぽんこつは刺繍と恋愛が苦手
「むー……」
スチュアート侯爵家。その広大な屋敷の一角にある自室で、アリスはうなっていた。
今日は作業がしやすいように、長い銀髪をサイドアップにまとめている。とがらせた口と、細めてもなお大きなその瞳で、自分の手の先をにらんでいた。
手元にはハンカチと針、そして糸。
そうしてにらむ姿も可愛らしい、花も恥じらう十八歳の乙女、アリス・スチュアートは、素敵な未来のために花嫁修業に勤しんでいた。
あれから一週間が経過しようとしていた。
やろうと思えば、念話で愛しの婚約者と会話はできたが、彼女には憚られた。
相手はお仕事なんだから邪魔してはいけない。ただし、向こうから連絡が来たらすぐにでも対応する。愛する彼が領地に引っ込んでしまったことは悲しいが、この時間を無駄にはできない。次に会えた時に渡すんだ。
そう決意を新たにして、糸を通していた。
「むむぅ、むーん……」
優雅に椅子に座った刺繍姿は、それだけで絵になる。だが、今はほんの少し猫背になって、上手く進まないそれに不機嫌な様子だった。
一手一手確かめるように糸を通すその手付きはおぼつかなく、後ろに立つ侍女はハラハラしている。
「アリス様。今のそこの手順、一手間違えておられます」
同じように椅子に腰掛けた女性が、手順の誤りを指摘した。おっとりした雰囲気の美女だ。失敗にも声を荒げる事なく、柔らかな笑みをたたえいる。
「あ……も、申し訳ないですわ」
アリスが慌てて糸を解こうとする。だが生地に絡んでしまい、食い込んで止まってしまった。あわあわするが、これ以上強く引っ張ってしまっては生地はほつれ、糸は千切れてしまう。
『むうぅ』と再びうなって、アリスは途方に暮れる。若干涙目だ。
「ふふ、どうぞ、貸してみてくださいませ」
女性が優しく受け取り、丁寧な手付きで糸に手をかける。さっきまで言うことを聞かなかったくせに、女性にかかると嘘のようにするりするりと解けていった。
それを見たアリスが針をじと目でにらみつける。
この裏切り物め。なにが気に食わないのか。そんなに私が気に入らないのか。
そう脅し語りかけるようだった。
いっぱしの淑女にはなれた彼女だが、それでも苦手なものはある。その一つが刺繍だった。ぶっちゃけ魔法を使ったほうが早いくらいだ。複雑な形でも問題なく縫えると思える。
彼はそれでも喜ぶだろう、とは思った。でもなんか違う、とも。
いい奥さんになりたいアリスは妥協を許さないのだ。たとえ、魔法に喘ぐ者がそれを聞いて眉をひそめようとも。
ちなみに彼女の母親も刺繍は上手くなかった。『侯爵家飼い猫のミィを象った』と言っていたが、控えめに言って豚だった。父親は大事そうに受け取っていたが。
「ここは思い切って表から通したほうがやりやすいですよ」
「遺伝かぁ……」
「え?」
「あ、いえ。ありがたく存じます、メリッサ様」
慌ててお礼を言ったアリスがハンカチを受け取りながら、目の前の女性、メリッサを見る。
ふわっとした雰囲気を持っており、ショートボブにした茶髪も相まって、どこか癒やしを与えてくれそうな美女だ。子供はまだいないはずだが、なんとなく母性を強く感じる。
メリッサは縫製ギルドの針子をやっていて、よく刺繍を教えてくれている。今日も忙しい中、こうして視に来てくれた。ちなみにアレフの妹だ。
「何度も言いますが、私のことはメリッサで構いませんよ」
「そんな、呼べないわ。メリッサ様は私の先生ですもの」
メリッサはすでに結婚している身である。刺繍も恋愛も、アリスからしたら人生の先輩だった。
恋愛は……あまり良い助言をもらえたことはないけれど。
「先生だなんて……私は刺繍が好きなだけです」
そう言って優しく微笑んだ。
できる女性は笑顔も美しい。自分も早くこうなりたい、とアリスは年上の笑顔を眩しそうに見つめた。
メリッサはギルドで一番の腕を持つ。彼女自身も周りからもなかなか辞められないようで、会えない会えないと悲しみ叫んでいたアレフは記憶に新しい。
「それにアリス様もすぐにお上手になられますよ。今回も愛する婚約者様への贈り物でしょう? 私は女ですから、アリス様から贈られるリチャード様が羨ましいです」
「あ、愛するだなんてっ。そんな、そんなのじゃないの……そうだけど、そんなのじゃないので……」
ならどんなのなのか。
真っ赤にうつむいてブスブスブスリ。
「お嬢様」
「あら?」
ハンカチじゃなくて自分の手に刺してしまっている。何度も何度も。
だが真っ白な肌はいっさい傷つかず、逆に針が折れ曲がってしまっていた。
「これで三本目ですね」
侍女が新しい針を取り出しながら、呆れたように言った。
「またやってしまったわ……でも数えてなくてもいいじゃない」
ぶすっとしながら針を受け取る。
「針だって無限じゃありません。メリッサ様も、あまりお嬢様をおからかいにならないでください。この調子ですと二桁の大台に達します」
「ごめんなさい。可愛らしくて、つい」
「さすがに二桁もいかないわよ」
おかしな現象を目にしても、誰も不思議に思わない。メリッサも侍女も、その程度で傷つくアリスではないことを知っている。
だがそうとわかっていても、可愛らしい御手に針を突き刺す姿を見たいわけではない。針の本数も守る必要がある。侍女のハラハラはそういった色々な理由だった。
「むー……そういうメリッサ様こそ、旦那様とはど、どうなの?」
針に糸を通しながら、アリスが噛み噛みで言った。
「え? ど、どう、とは……?」
「この前アレフ様が言っていたのを、聞いてしまいまして。早く子供が見たいって。その辺り、どう、なのかしら?」
アリスの反撃。今度はメリッサが真っ赤になるターンだった。
「に、兄さん……!? ここ、子供だなんて……そんな……」
「ほ、欲しくないの?」
だが反撃しているはずのアリスも、その顔を真赤に染めている。初心な彼女には諸刃の剣だった。
「こ、子供は……欲しくない、と言えば嘘になりますが、なんていうか、その……」
「ぜ、ぜひ聞かせて!」
「あ、アリス様!」
この通り、メリッサもどちらかというと恋愛には初心である。すでに結婚しているくせに、反応は女学生のそれ。
ギルド一のお針子さんは、仕事のできるぽんこつだった。アリスが(自分もダメージを喰らいながら)からかうことのできる、唯一の人物だ。だからこそ助言はもらえそうにないが。
ぽんこつVSぽんこつ。当然、話は進まない。
「そういったことはなかなか……お仕事もありますし、た、タイミングとか……」
「旦那様のこと、お好きじゃない……?」
「そ! ……そんなことは……お優しくて、色々と気遣ってくれて、私なんかにはもったいないくらいで……」
「ではその、お、お好きなのね?」
「…………は、はい」
「やっぱり!」
「あ、アリス様!? アリス様のほうこそ、リチャード様とはどうなんですか!?」
「えええ!?」
「婚約してもう二年目も終わりくらいでしょう? キ、キスくらいはしましたか?」
「キキキキス!?」
「そうです、キスです! どうなんですか! したんですか!」
「そんなのまだ早いわ! はしたないわ!」
「え、一度も?」
「ぐっ……」
「二年間、一度も?」
「ぐぐっ……」
「……したくないのですか?」
「えっ」
「その、したくないのですか、キ、キスを……」
「……したいです」
「キスしたいんですか!?」
「なんで驚くのよ!」
「アリス様がキスを……キスをしたいんですね! アリス様がキスを!」
「そんなにキスキスキスキス言わないで! メリッサ様は毎日いつでもどこでもしておられるんでしょうけど、私たちはまだ婚約中の身です! メリッサ様は毎日いつでもどこでもしておられるんでしょうけど!」
「してませんよ! 人をキス魔みたいに!」
「どうだか!」
真っ赤になってぎゃあぎゃあ言い合う。刺繍はこれっぽっちも進まない。さっきまで優雅に刺していたはずなのに、淑女とできる女性はどこに行った。
呆れ顔の侍女が助け舟を出す。
「はいはい、キスキスお嬢様も。ザ・キス魔のメリッサ様も。そのへんにしてください」
「なによキスキスお嬢様って!」
「ですからキス魔じゃありません!」
助け舟どころか火に油だった。
両方から噛みつかれそうになった時、ノックの音がした。侍女がそそくさと離れて部屋側から声をかける。どうやら休憩のようだ。
「お嬢様、ミシェルとコリーナです」
「入って。メリッサ様もご一緒にどうぞ」
「はい、ありがとうございます」
ぜぇはぁ、と乱れる息を整えて優雅に伝えたそれは、さっきの会話がなかったかのようなお嬢様然とした声だった。メリッサも椅子に座り直して、先ほどと違わぬ笑みを顔に浮かべている。
さすがの変わり身の早さだった。恋愛ぽんこつだろうとなんだろうと、この二人は、侯爵令嬢とギルド一の手腕を持つ才女なのだった。
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