第6話
『お帰りなさいませ、お嬢様』
屋敷に戻ったアリスとミシェルを、仕える使用人が揃って出迎えた。さすがに全員ではないが、それでもちょっとした人数だ。
「出迎え、ご苦労さま」
アリスが微笑んで言った。
使用人には挨拶もないのが普通だ。アリスは屋敷の主人ではないが、それでも雇主の娘である。仕える者の中には平民だっている。家によっては、憂さ晴らしの対象にすらなっていてもおかしくないとまで言える。
そしてそれは──さすがに痛ましい被害に合っている者は別だが──雇人も当然だと考えている。主が気持ちよく過ごせるよう、身の回りの世話をする。ただそれだけに専念すればいい。そう思って仕えているのが大半だ。
「ごめんなさい。少し遅くなっちゃった」
だがアリスは、そういった者らにも柔和な笑みを見せ、労いの言葉を口にする。その振る舞いは、本来あって当たり前の壁を感じさせない。彼女の性格は親による教育の賜物といえよう。列の端に見えるまだ幼い少女は、向けられた笑顔に顔を赤くしていた。
侍女の一人が恭しくお辞儀した。
「いえ。想定内ですので」
「……想定内?」
アリスが首をひねり、傍らに立つミシェルに視線を向けた。
見られたミシェルはすました顔で、持っていた手提げを軽く持ち上げる。
「お嬢様。こちらを……」
「あ、そうね。王都のお土産があるの。ロールケーキですって。みんなで食べてちょうだい」
さっきあった別れのごたごたはおくびにも出さず、アリスが合図を出す。
命を受けたミシェルが、一歩前に出た先達の侍女に手提げを渡した。受け取った侍女は冷静を装っているが、口の端がピクピクとしている。
先ほど真っ赤になっていた小さな侍女が、
「……コリーナ」
「はっ!」
コリーナと呼ばれたその少女が隣から脇腹を肘でつつかれ、慌てて姿勢を戻している。
仕える侍女として失格な姿を目の前にしても、アリスは咎めることもせず、変わらぬ笑みをたたえていた。
「お嬢様、まずはお汗を流しください。湯浴みの準備はできております」
「ええ。ミシェル、案内してもらえる?」
「かしこまりました」
アリスは侯爵令嬢だった。家格としては、上から二番目。
そのため、敷地もかなりの広さとなる。広大な庭には庭園や噴水まであり、屋敷も見上げるほどに大きい。晩餐室や舞踏室まで入れたら、部屋数だって三十を下らない。しかも、使用人が住み込む離れは別でありながら。そのうえ筆頭でもあった。下手な公爵より力がある。
それらはひとえに、彼女の両親──侯爵夫妻による国への貢献度によるものだった。
その広い広い屋敷をミシェルが先導し、二人で歩く。
向かうのはアリス専用の浴室。もう一度言う。アリス専用の、浴室である。さすがの侯爵家だった。
ミシェルが浴室に続く脱衣場のドアを開け、主を招く。
先に入ったアリスは、部屋の中央からわずかに壁に寄った場所に立ち、そのまま少し腕を広げるような姿勢を取った。
「失礼いたします」
アリスの服がするすると脱がされていく。
今日は脱がすのが簡単なドレスではない。軍服に似たそれは、一枚脱がしても肌が見えない。
だが逆にそれを楽しむかのような仕草で、ミシェルが少しずつ脱がしていく。
「んっ」
「ミシェル?」
「いえ、なんでも」
「そう?」
次第に彼女の、きめ細やかで真っ白な肌が見えてくる。
あれだけ激しい戦闘を繰り広げておきながら、痣どころかしみひとつないそれは、思わず指でなで上げたくなるくらいに滑らかだ。肩や肘といった先端部分は少し紅みがかっており、照り返すほどにつるんとしている。
「んんっ」
「ミシェル?」
「いえ、なんでも」
「そう?」
ミシェルの怪しい手付きで脱がされていき、最後には全裸となった。
彼女の可愛らしく、ほどよく育ったたるみのない臀部が、婉麗なラインを描く。特に二つに割れるそれは、見るからにぷるんとしていて、少し叩けば弾けるように震えるだろう。手足はどこまでも長く、指先一つまでが美しい。あんなに力強く剣を振るっていた二の腕は、ふにふにふにゃっとしており、手のひらは剣ダコなんて見当たらないくらいに柔らかだ。腰回りは細く、強く抱いたら折れてしまうのではないか、と思えるほどに華奢である。そのくせ、おへそ周りはふっくらとした肉感をしており、豊かに膨らんだ胸は重力にほんの少し負けそうになりながらも、つんと上を向いていた。
有り体に言って、大変につややかでたまらない肢体である。
そんな彼女が、一糸まとわぬ姿で無防備に部屋に突っ立つのだ。殺風景とも言える脱衣場に、蠱惑の華を咲かせるのは必然だった。
「まったく!」
「ミシェル!?」
「いえ、なんでも」
「そ、そう?」
十数年侯爵家に仕えており、アリス専属になってからもはや十年。風呂の世話なんて数え切れないくらいにやってきたミシェルだったが、それでも彼女の裸身には慣れることができず、毎回『初めて』感を味わっていた。
そういうミシェルも入浴の世話のため、湯着に着替える。
その姿もまた、筆舌に尽くしがたいものだったが、また別の機会にでも話すとしよう。
「ミシェル?」
「いえ、手相を勉強中で」
「そうなの? あとで教えてね」
「はい」
ミシェルが手のひらの柔らかさを堪能したあと、湯浴みの邪魔にならないようアリスの髪を結っていく。
アリスの髪。月の光がそのまま形になったかのような、その銀髪。
癖なんて皆無であり、さらっとした手触りのそれは生半可な編み込みを跳ね除けてしまう。一本一本が芯まで透き通るように煌めき、一房手に取れば、光を反射して輝くように波打つ。さらには芳しい香り。ふわっと匂い立つそれは、男女問わず虜にしてしまうような、どんな香水も適わない色香を放つ。さらに編み込んでいくと露わになるのは、信じられないくらいに綺麗なうなじ。髪を結わないと見えないため、まだ隠されていた彼女の新たな美貌が、ここで初めて引き出される。首の輪郭そのままに優美な女性美を描いており、見た者の劣情をこれでもかと煽り立てる。少々マニアックだが、首筋に沿って薄くなっていく生え際も素晴らしい。まさにパンドラの箱。びっくりボックス。
ふぅ……。
「んはぁ……」
「ミシェル?」
「いえ……相変わらずお嬢様の髪は美しいですね」
「ふふ、ありがと」
髪のボリュームがよく分かる、編み込まれたそこにミシェルが唇を這わせている。アリスからは見えていない。信頼なのか見ようともしないため、この時間はわりとやりたい放題だった。
長い準備と描写も終わり、ようやく浴室に入る。
広い。
まず広さに驚く。
湯が張られているために立ち昇る湯気で、先が霞むほどである。その湯殿もまた広く、手足を伸ばそうが、泳ごうが、たとえ数人同時に入ろうがまったく気にならないくらいである。隅にある、獅子とも百獣とつかないような彫刻は湯壺だろう。げぼげぼと、口から絶え間なく湯を吐き出していた。
床は一面、大理石と思しきつるっとした素材で作られているため、歩くとぺたぺたと音がする。反射も強いため、彼女の大事な部分が映り込んでしまうのではないか、と要らぬ心配をしてしまう。
これが彼女専用かと疑ってしまいそうになるほどに──繰り返すが──広くて豪華な浴室だった。
そしてそこはすでにほどよく温まっていた。さすがは侯爵家に仕える使用人たち、準備は万端である。
『こちらに』とミシェルが招き、まずはアリスの身体を清めていく。
とは言え、どこも汚れてそうには見えない。汗もかいてなさそうである。
だがしかし、だ。
うきうきしているミシェルを見ればわかる。
たとえ汚れてなかろうが汗ばんでなかろうが、身体を洗い流すことは、湯船に浸かる前に必要な儀式なのだ。彼女の玉のような肌を味わうためとかでは、決して無い。これは入浴に対する敬意であり、マナーである。準備をしてくれた者に対する感謝だ。だから必要なことなのだ。それに目には見えずとも、土埃くらいは被っているだろう。被っているはずだ。いやきっと被っている。だから必要な措置なのだ。
ちなみに、身体や指定した場所を清潔にする『洗浄』という魔法があるのだが、そんなものをこの場で言い出すのは野暮というものだった。
鼻歌交じりのミシェルが、ボディソープらしき液体を手のひらに取る。スポンジはあるというのに、あえての手のひらだった。こするたびにもこもこした泡が手のひらに生まれる。
『失礼します』とだけ言って、アリスの肌を優しく撫でていく。
最初は腕。次に肩、首と続き、本命である胸。いや、胸の下、大きな大きなその双丘を持ち上げないと隠れてしまうその場所。ここは汚れが溜まりやすい。溜まりやすいのだ。誰がなんと言おうと。そうして二つの宝石の下に滑り込ませた手に、ずしっとのしかかる重量感。手が、挟まれる。やられる。その心地よい重さと圧迫感に、本当に心がやられていく。
次、胸。またかよ、ではない。胸そのものである。
少し掴めば指が沈んでいってしまうような、見たまま絶妙な柔らかさである。むっちりとしておきながら、上品さを忘れないくらいに落ち着いてはいる。だがそれでも暴力的なまでのその形。まさしく『立派に育ってしまって』という言葉が相応しい。主張するかのように尖った、他の肌とは違う紅梅色に染まった先端部分に、首元から垂れてきた雫が集まってはふるるっと震え、ついにはつつっと流れ落ちていく。その様はまさに絶景、この世に現れた桃源郷である。
次、背中。
まず目に飛び込んでくるのが肩甲骨。その綺麗な形が浮き彫りになったところ、ほんの少し、本当にほんのわずかに、産毛が線に沿って生えている。こんなものどうやって耐えろと言うのか。こんなところも美しいのかどういうことだ、と罵らずにはいられない。背骨のぽこぽことした感触も格別である。下部には割れ始める二つの肉、つまり大殿筋が目立つ。さっさと下に行きたい、だがまだ楽しみたい。そういった欲望を直撃してくるような艶めかしさである。
次、ヒップ。言い換えると臀部であり、つまりお尻である。
きゅっとくびれた腰から、ラインに沿ってなぞっていくと辿り着く。してその形は逆ハート型。腰も前に入っていて、完全なる美尻。それが手を当てる度に形を変えていく。先述は間違っていなかった。うっかりしていると、弾き飛ばされそうになってしまうほどにぷるるんである。言っておくが誇張ではない。
次、おへそ周り。もっと言えば、鼠径部。
Vの字が何もせずとも手を先導してくれ、やわやわごしごしと擦っていく。Vの字が、先導してくれるのだ。しつこいようだが、先導、するのだ。甚だ度し難い。ちょっとだけぽこっとした感触も素晴らしい。緩い弧を描いているのだ。これはたまらない。さらに進んだ、微かな繁みに隠れているその先。穢れを知らぬ乙女の大切な部分なのだが、さすがに怖いのでここではやめておく。
次、太もも。言わなくてもいいが、大腿部。
胸と同じくらいにハリがあり、手のひらに吸い付いてくるようだ。いや本当に吸い付く。どういうことかと言うと、少し悪戯して、両の太ももをくっつける。そのあと離すと、まるでお餅のように一瞬それぞれが引っ付き、ぷにゅるんと跳ねるのである。本当に跳ねるのだ。まるで『離れたくない』とでも言わんばかりに。思わずこちらも『離れたくない』と言ってしまいそうになる光景である。
そのあとは、これも美しいカーブを描くふくらはぎと、可愛らしい足先とかかと部分を擦って、泡を洗い流して終わり。
終わりである。
名残惜しいが仕方あるまい。
「どえはこつぃらに」
「ミシェル?」
「ではこちらに」
「うん」
下腹部に響く感触にもじもじとしているミシェルが、湯殿に導く。
アリスは足先からちゃぷんと入り、温度を楽しんだあと、静かに腰、胸と湯に沈めていった。
肩まで浸かったあと、『んは』と息を吐く。湯気で濡れた髪先が首に張り付いている。とても色っぽい。
氷山のごとく湯船に浮かぶ豊満な二つの──もうはっきり言ったら乳房である。お湯がその形にまとわりついていていた。これは凄い。どれだけ眺めても飽きが来ることのない、幽玄な景色。アガルタがそこにあった。
その声と仕草に、またもや身体をぶるりと震わせたミシェルが、アリスの髪を解いていく。
湯殿から外、垂れ流すように解いた髪を伸ばした。ただでさえ綺麗な銀髪が、湯気と水滴によって煌めくように光を反射する。
次、シャンプー。
今度も泡立て、頭皮を優しくマッサージしていく。
侍女歴十五年。鍛えた指テクを披露する場だった。
「んっ……」
「…………」
「んっ……あっ……」
「…………」
「……にゃっ」
「んふぅっ!」
「ミ、ミシェル!?」
「いえ、失礼しました。痛かったでしょうか? これくらいならどうですか?」
「ううん、気持ちい──あっ、それもきもちい……」
「んふぅっ!」
「ミシェル!?」
おバカなやり取りをしながら、髪先まで包むように洗っていく。
次、トリートメント。
たっぷりのオイルを手にとって、一房一房丁寧に溶かし込んでいく。
明日の彼女は今日より美しくなるために、心を込めてなで上げていく。今日より明日なのである。
「しばらくリック様に会えないわ……」
入浴も大部分が終わり、というところで、アリスがぽつりと言った。
「すぐに会えますよ」
ミシェルが桶に湯をためながら応える。
今回の始末として、アリスの婚約者であるリチャードが、少しのあいだ領地に引っ込む。そうなると、アリスも屋敷から出る用事がない。
ミシェルの心に暗い喜びが湧く。敬愛どころか崇高している主と、一日中引っ付き合える。
昔からくっつき虫になってくれたアリスも、今や成人。それも婚約済みである。いつだって『ミシェル、ミシェル』と呼んでくれたのは、すでに過去の話である。
さすがに寂しくもなる。アリスが三歳の頃から一緒に過ごしてきたのだ。寂寥もひとしおである。
だが、ミシェルにとって何より優先されたのは、仕えるアリスの幸福である。アリスの幸せは自身の幸せ、アリスの悲しみは自身の悲しみでもある。
お嬢様が成されようとされることを支えるのが、自分の役目──
そうした思いの元、ミシェルは話を続けていく。
「リチャード様も、次期公爵となるお方です。領地経営のための勉学は、重要なお仕事ですよ」
「わかっているわ。リック様はとても誠実で、私なんかを選んでくださった、す、素敵な方ですもの」
「でしたら聡明なお嬢様のこと。婚姻を結ぶまでには、そういった我慢もあることくらい、理解されているのでは?」
「それはそうだけど!」
ばしゃん、と湯船を叩いたアリスが涙目で見上げてくる。お風呂で紅潮もしているため、見られた方はたまったものではない。ミシェルはそっと視線を外した。
「それに、それにね……」
湯に口をつけて、ぶくぶくと泡立てる。
淑女らしからぬはしたない姿ではあるが、これこそがアリスの素。侯爵令嬢の仮面を外したアリスは、ただのおこちゃまだった。愛だの恋だのとなると、途端に幼子に戻る。そのギャップが周囲を乱すのだが……わかっている様子はなかった。
もごもごもごと、口に出すのを躊躇っているようなアリスだったが、ミシェルは先を促さない。余分なオイルを流し終えてからは、タオルに包んだ軽石で、チャーミングな肘などを軽く擦っていく。まるで『どうしました?』と言っているかのように。
お風呂上手は聞き上手。せめて話をしやすくするよう、リラックスしてもらう。できる侍女は、空気を整えることに集中するのだった。
「私、たぶん魅力がないんだわ……」
ぽかんとした。
どの口が言っているのか。これまで散々魅力を語ってきたのに、今さらどうするのか。こっちの身にもなっていただきたい。
容姿は端麗、スタイルも抜群。貴族として重要視される魔力も全身から迸るほど。それが魅力なしだと言うのなら、世の女性の大半はゴブリンである。
だがそれゆえに、高嶺の花と見られるのは理解できる。実際はおこちゃまといえど、自然に溢れ出る気品が、近寄りがたい雰囲気を出しているのはわかる。
そのためアリスは友人も少ない。男性は皆無だ。婚約者を除けば、唯一男性の知り合いと言えるのは、アレフくらいだった。
「どういうことでしょうか?」
肘、肩、膝と、柔らかな肌を愛撫、ではなくマッサージを続けていたミシェルが、根負けして問いかけた。
「あのね……」
またぶくぶくと泡を立てる。物憂げな目で水面を見つめていた。
「今回ね、ドレスね、が、頑張ってみたんだけどね」
ばきっ!
「ミシェル?」
「すみません、なんでもございません。続きを、お嬢様」
「そう? それでね……」
軽石を握りつぶしたミシェルが、予備を取り出す。
握り潰せるそのこと自体が、大変に怖いことではあるのだが、何事もなかったかのように振る舞わられる。
それはともかく、召し物の話しである。
アリスは普段から肌の露出を好まなかった。家族や同性の友人だけの集まりは別だったが、異性の前ではたとえ茶会や舞踏会といえど、出すのは鎖骨までかどうか、といったくらいである。結婚適齢期に差し掛かった令嬢としては、異常とも言えるくらいの潔癖具合だった。
ただ、それも仕方ないところもあるだろう。述べた通り、アリスは大変に美しく、身体に至ってはどこまでも扇情的である。男性の視線が集まるのは必然だった。そのため、その視線から逃れるように身体を隠すのも、また必然だったのかもしれない。
「恥ずかし、かったんだけどね。ああいうのが好きなのよね? 男の人って」
だから頑張ってみたの、と続ける。
言う通り、今回アリスは、ほんのちょっぴりデコルタージュなドレスを選択した。本当にほんのちょっぴりではあったが、胸元が開いたデザインを選んだのだ。つまるところ、胸の谷間を見せた。谷間を、ほんのちょっぴり。
一念発起していたのは、ミシェルだって知っている。なにしろそれを着せたのは彼女である。『これでよいのですか?』『間違っておられませんか?』と、何度も尋ねた。
『いいのこれで!』と、つんぷりしていたアリスの姿が、まだまぶたに残っている。なんせ昨日と今朝のことなのだから。
そうさせた当の本人に対して、多少なりとも嫉妬の心を抱くのは仕方ないだろう。割れた軽石は涙を流しているように思えるが。
『でもね』とアリスが三度、湯船に口をつけた。
思っていたような效果がなかったというのだ。
朝、アリスは勝負服でリチャードに会いに行った。恥ずかしさで顔は真っ赤だし、緊張で震えてはいたが、そのいじらしくも可憐な谷間を見せて、にこりと微笑んだのだ。
微笑まれた彼は、『くわっ』と音が聞こえてきそうなほどに目を見開いて、油の切れた機械人形のような動きをしながら、なんとかドレスを褒めた。
「似合っているって、言ってくれたけど、そのあとずっと目を逸らされたの……」
ぽつぽつと話す。
天井から落ちた雫が、ぴちょんと湯船を叩いた。
「本当はね、似合ってなかったんじゃないかって……無理して言ってくれたんじゃないかって……」
そのあともリチャードは視線を外しながら、アリスの頭、頭頂部あたりを見るばかりだった。
それを思い出したのか、目に涙が溜まっていく。
その姿を見てミシェルは思う。
初等部か?
いや、初等部ですら、もう少し高度な恋愛をしている者もいるだろう。ましてやアリスほどの年齢になれば、獲物を狙う蛇のごとく男性に執着する女性も少なくない。アリスが着たドレスなど子供だましと言える、零れ落ちてしまいそうなくらい、まるで娼婦のような格好をする者までいる。
それが成人男女、しかも婚約関係、さらには結婚直前であるにも関わらず、少し肌を見せては赤くなり、少し肌を見せられては目を逸らす。
最高神の加護を持ち、人外の力を振るう二人は、こと恋愛においてはぽんこつの権化、へたれを拗らせたミジンコレベルな存在だった。
ミシェルがやわやわと宥めていく。
「リチャード様も、可愛らしく綺麗にお飾られたお嬢様に面食らったのでしょう。褒めてくださったのがなによりの証拠です」
「でもねでもね? お部屋で二人になった時も、同じような反応だったの……やっぱり私に魅力がないからだと思うのよ……」
「ジロジロとご令嬢を見るわけにもいかないでしょう。お嬢様の美しさを直視できなかっただけですよ」
「王都のお出かけでも、そのままだったのよ? それに、ナナリーは『いちころだった』って言ってたもの……」
ナナリーというのはアリスの友人である。どうやら、色々と吹き込まれていたらしい。土台がぺしゃんこなアリスに、なんという爆薬を持たせるのか。穴ぼこだらけになって収拾つかなくなるのは、当然とも言えた。
「そのあと着替えたから、感想も聞けなかったし……」
お出かけが終わってから、今日の場所に向かう前にアリスは着替えた。
しょんぼりしながら脱いで、ミシェルの腕に抱えられたドレスは、同じようにしょんぼりしているように見えた。
「色々とあ、愛を囁いてはくださるの。贈り物だってたくさんいただいているわ。恋文だって! ……でもね、見もしなかったのは、たぶん、きっと、そういうことなんじゃないかなって」
「…………」
「私、ちゃんとリック様に求められる妻女になれるか、不安なの……」
およよ、と顔を両手で隠して今日一番の落ち込み具合を見せる。
そんなアリスに、
「お嬢様……お嬢様が不安になられていること、私にはよくわかりますよ」
柔らかな微笑を浮かべ、従者でありながら母や姉のような雰囲気を出して、ミシェルが優しく話しかけた。
「ミシェル……うん……」
「つまり既成事実が欲しいのですね?」
雰囲気は壊れた。
「貴女はなにを聞いていたの!」
「違うのですか」
「違うわよ! なんで驚いているの!」
真っ赤になったアリスが、ミシェルの腕をべしべしと叩く。
そうは言うが、正直違わない気もする。
相手の気を引く格好をする。手を出して欲したがる。求められる姿になりたそうにする。それはつまり、さっさと襲ってほしいと思っているわけで──
「ちょっとなに考えているの!」
「お嬢様が抱える愛欲を」
「ばか! ばかぁ!」
バカ正直なミシェルに、湯がざぱんざぱんとかけられる。
びしょ濡れになったミシェルは特段怒りを覚えることもなく、濡れそぼったままアリスの首元、その綺麗なうなじに顔を近づけた。
「あっ……」
「すみません、ついからかってしまいました」
「ううん……私も、ごめんなさい……」
「……ここ、いい匂いがします」
「も、もう……」
ぽたぽたと、ミシェルの髪の先から落ちた雫が、アリスの肩に落ちる。それは胸元や背中を伝って、湯船に消えていった。
断っておくがこれが彼女らの、二人だけになった時の普段の距離感である。特別何かあるわけでもないのだが、その関係は見た者をよく誤解させてきた。そりゃするだろうこれは。
しばらくその姿勢のままでいたミシェルが、アリスの可愛らしい耳元で話しかけた。
「ではうんとお美しくなられましょう、お嬢様」
「ミシェル……」
「ハンカチもお渡しになられるのですよね? 次にお会いになった時に、リチャード様を驚かせてやりましょう」
ハンカチ。その言葉を聞いたアリスが『うっ』となった。
「き、聞いてたの?」
「お嬢様の浅はかな考えなんて予想できますよ」
「なによそれ!」
ミシェルの頭が掴まれ、ぶんぶんと揺らされる。跳ねた水がぴちぴちと辺りに舞った。
「それはともかく、大丈夫ですか」
「し、刺繍はゆっくりとやっていくから、いいの。教えてもらう必要もあるし……」
「どうして言い出したんですか?」
「う、うるさいわね……でもそうね、そうよね。次に会ったときには、もうちょっと、ほんの少しだけ、が、頑張ってみるわ」
「その意気です、お嬢様。それに新たな技も閃いてみてはどうでしょう? お嬢様の新鮮で熟れた瑞々しいブツを見せたら、リチャード様も我慢できなくなること、間違いなしでしょう」
「なんか言い方が気にかかるけれど……わかったわ! 次こそ見ていなさい、リック様! めろめろにしてあげます!」
ばしゃんばしゃんともう一度湯船を叩いてから、ぐっとガッツポーズをする。気分は戻ってきたようだ。単純だった。
「それと、お嬢様は公爵夫人となり、リチャード様を支えられるお方。母君様を見習い、社交の方にも勢を出しては如何でしょうか?」
「……あまり気乗りしないのよね」
「時流を把握し操る、それが夫人の努めです。さらに公爵夫人ともなれば、流行の発信源であることを求められる場合もございましょう」
「そうだけど……」
「とは言え、恋愛方面で攻められるとおこちゃまなお嬢様には、とてもではないですが耐えられないでしょう。ですので、ニーナ様とナナリア様をご招待してみては? 気の置けないご学友であれば、お嬢様でもなんとかなるかと」
「今、凄い失礼なことを言われた気がするわ」
「そうですね」
「否定くらいしなさいよ……でも、そうね……ナナリーから助言もいただきたいし……」
そこまで言ってアリスが見上げる。
「ミシェルはどうなの? 今日も二人になれたんでしょう?」
「……ご冗談を」
「す、凄くいやそうな顔、ね?」
しかめっ面になったミシェルが、目を丸くさせるアリスを無視して片付けを始めた。
「さぁ、あまり長湯しては逆上せてしまいますよ」
「あー! はぐらかした! ねーぇ、どうだったの?」
「さっさと拭いて着替えましょうね。今日はお嬢様が好むご衣装ですよ」
「ちょっと、答えなさいよ!」
じゃばっ、と仁王立ちになった全裸のアリスが、指を指してビシッとポーズを取る。柔らかな肌はぷるっと震えた。
「お夕飯の準備もありますからね」
「だからどーだったのー!」
引き下がろうとしないアリスを、ミシェルが強引に引き連れて浴室を出る。
入浴のあいだに用意されていた部屋着を手に取り、『きっとミシェルに負けたのだわ……』とおいおいしているアリスを着替えさせていく。布は少なめだが、青に白のアクセントが素敵な、まるで青空のようなドレスだった。
まだなおわめくアリスを引きずり、部屋に放り込んだあと、一礼してからドアを閉める。
「……まぁ、それなりに楽しかったですが」
ぽつりと言って、ミシェルは夕餉の準備を料理人に伝えに行った。
なお、その夜にミシェルはコリーナに手解きしながら、自分の入浴をぱぱっと済ませた。
なぜ何もないところでびたーんと転ぶことができるのか。彼女には甚だ疑問だった。
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