天翔る白馬の婚約者さま
向野こはる
第1章
Ⅰ 唖然とする邂逅
第1話
淑女も緊急事態には、石畳を蹴って走るものだ。
今回ばかりは、背後を追いかける侍女長のバラも、重い鎧と巨体を揺らして息を切らす近衛兵のリンドウも、城内ですれ違う誰も彼もお小言は言わない。
それほどにライネリカの表情は逼迫していた。
「っお父上さま!」
父の執務室を半ば蹴りあけた彼女に、娘の帰りを今か今かと待っていた父は、ソファーから立ち上がって娘を抱き止める。
「ライネリカ、無事で帰ったか、心配し」
「ぜっっっんぜん無事じゃないですのよ!!」
父の声に被さり彼女は叫ぶ。元々色白の顔を蒼白に変え、ゆるく内巻きにしたボブヘアーを乱す娘の形相は、まさしく無事ではないの一言だ。怪訝と困惑の中間で言葉を詰まらせた父に、ライネリカは足を踏み鳴らして金切り声を上げる。
「婚約者がお馬様だなんて、わたくし聞いてませんわぁ──ッ!!」
淑女も緊急事態には、泣き叫んでも許されるはずだ。
父は娘よりも真っ青な顔で、大きく目を見開いた。
◇ ◇ ◇
大国シスボイリー。
強大な武力で成り上がったその国は、数多の国を従える、世界一の国だ。
大国の支配下にある国は数十とも知れず、属国は武力による圧力への恐怖と、等しく与えられる恩恵にあやかって暮らしている。
ライネリカ・ベルジャミンの祖国である、小国エイロスもそのうちの一つだ。大きな湖と鉱山脈一つ、住民は王族合わせて二百人弱という、小さな国家である。とはいえ山から採取できる鉱物のおかげで、属国の中でも珍しい、大国の恩恵を一切受けずに生活が可能な国の一つでもあった。
ライネリカはその国の第二王女として生を受けた。柔らかなパープルブラウンのショートボブに、星空と称される吊り目がちな紺碧の瞳が印象的な、快活な少女である。
彼女には生まれた時から、大国に決められた婚約者がいる。
大国は、神の国と呼ばれる異国──人間の物ではない国と親交があり、橋渡し役という名ばかりの供物として選ばれたのが、丁度その年に生まれたライネリカであった。
ベルジャミン王室はもちろん反発したものの、武力行使を仄めかした大国から自国を守る術がなく、断腸の思いで婚姻誓約書を大国へ提出したのだった。
ライネリカは幼い頃から、自分に婚約者がいることは知っている。
しかし相手の情報と言えば、神の国の誰か、という事だけで名前すら知らない。手紙のやり取りもなく、大国が決めたという、今日まで本当に存在するのかも怪しい婚約者だった。
その日、ライネリカは大国に呼び出しを受けていた。
15歳になりデビュタントを終え、成人王族として認められた彼女に、大国より婚約者との顔合わせをすると通達があったのだ。
彼女はお気に入りの紺青色のドレスを身にまとい、大国より遣わされた使者一行と共に、馬車に揺られてぼんやりと景観を眺めていた。
小さな自国はとうに過ぎ、国境を越えて入った隣国も、大国が支配下に置く国だ。野畑を忙しなく行き交う人々を見つめ、彼女は一つ息を吐き出して座席にもたれ掛かる。
「姫様、お加減はいかがですか」
「……そうですわね……」
膝を突き合わせて向かい側に座るリンドウが、気遣わしげな視線を寄越した。それに曖昧な返答をし、眉尻を僅かに下げる。
ライネリカの脳内は、もはや不安しかなかった。
大国からの通達は、王族はライネリカ一人で来いという物だった。いくら成人を迎えたからと言って、通常であれば姫一人呼びつけられる事など有り得ない。ましてや家族すら誰も面識がない婚約者との初顔合わせだ。せめて国王が共に居るべきだろう。
とはいえ、やりたい放題を許された大国には、そんな常識は通用しない。
かの大国にとってライネリカの祖国など、国と名前がついた一地方という認識しかないのだ。
何度目かも分からない溜め息をこぼせば、隣に座るバラの片手が、そっとライネリカの手の甲に触れる。視線を向けても侍女長は何も言わなかったが、代わりに触れ合った片手を優しく握り込まれた。励ましに微笑んで、ありがとう、と伝える声は情けなくもか細く、戸惑って口端を引き結ぶ。
正直言えば、悔しいの一言だ。
小国とは言え、エイロスは古くより歴史ある国である。その王族として生まれたからには、国の為の婚姻もやむなしとは理解していた。しかしこればかりは自国の事など関係なく、大国の利益の為に嫁がされるのだ。
第二王女という比較的自由な立場の自分にだって、ベルジャミン王家の矜持がある。ライネリカは商品ではない。生まれた時から出荷時期が決まっているなど、人間としてあんまりではないか。
「……そ、そうですわ! わたくしのこの状況、悲劇の女主人公っていうのでしょう? 城下で流行っている本を読みましたわ! それには幸福な終わりがツキモノでしたの。だからきっと、わたくしにも白馬に乗った王子様が現れて、この状況から救い出してくださいますわ」
あえて明るく笑顔を見せれば、同乗する二人の表情は少しばかり和らいだ。ライネリカはほっとしてバラの手を握り返し、目を細めて再び車窓から外を見つめる。
大国までの道のりは、決して近い距離ではない。国が連なっているので野宿の心配はないだろうが、様々な国で一泊するだろう。ライネリカは沈みかける気持ちを無理矢理切り替え、他国の情緒を堪能することとした。
そうしなければ、今にも馬車を飛び出して、リンドウとバラと共に逃げ帰りたいくらいの気持ちなのだ。
込み上げる震えを必死に押し殺さなければ、泣き出してしまいそうなほどに。
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