第三章 忘れ去られた記憶

あれから3週間後


 仕事もようやく落ち着き、取れなかった休みをまとめて取ることになった。昂介はすっかり忘れていた例の封筒を思い出していた。


 “空を飛びたい”

 

 そういえばあれから封筒は届いていない。願い事を達成しないと次の封筒は届かないのか?


 でも……空を飛ぶって言ってもな……

 誰の願いか分からなけば、どうやって空を飛べばよいかも分からない。

 

 そうか!実は俺はピーターパンで、どこかにウェンディがいて、そして俺の帰りを待っているとか?

 それなら全て解決する。手紙は全てウェンディからで、俺の帰りを待ち侘びて、ピザやパフェを食べたいってせがんでるんだな。

 俺と遊園地に行ったり電車に乗ったりしたいけど、俺が全然気づかないから、痺れを切らしてとうとう大ヒントを出してきたんだ!


 現実世界の想像が妄想を超え、別世界に飛んで行く。


 我を取り戻した俺は、再び冷静になって考えた。

 俺だけが乗って空を飛んでも意味ないのかな?

 だいたい、何で空なんかどうして飛びたいんだよ……


 いろいろ考えたが、結局飛行機に乗ることぐらいしか、思い浮かばなかった。


 (そうだ!丈瑠に会いに行ってみよう!)


 昂介は丈瑠のいる大阪に旅行を兼ねて遊びに行くことにした。


 昂介は飛行機で飛び立ち、関西国際空港へ降り立った。

 丈瑠は空港まで迎えに来てくれていた。


「おー! 久しぶり!」


 久しぶり過ぎてなんだかむず痒い。背の高さや声や顔も変わっている丈瑠との距離感に困った。

 丈瑠は長身なのに顔は小さく、モデルみたいだ。黒のパンツを履き、グレーのパーカー、その上からベージュのジャケットを羽織っていた。


「お前、相変わらずイケメンだなぁ……。」

 俺は心の声をそのまま口から発していた。

 

「なんやねん!会ってすぐ気持ち悪いなぁー。」

 丈瑠は昔から自分が男前であることを認めない。


 だけど、そんな男前な丈瑠を見て俺は青春時代の淡い思い出をやっと思い出した。


 それは、中学二年生の夏休みに入る前の日のことだった。

 学校からの帰りのバスの中、俺は珍しく眠ってしまった。


 ふと目を覚ますと、自分の降りる停留所だったので、急いでバスを降りようとした。

 すると、後ろから、腕を掴まれ、

 「忘れちゃダメだよ。」

 と、笑顔で単語帳を渡された。


 その笑顔に俺は一瞬で引き込まれてしまった。あれが俺の初恋だった。


 だけど、丈瑠を見て、何故そんな出来事を思いだしたのかは分からなかった。


 俺達は近況を話合いながら、そのままUSJに向かった。

 乗り換えを一度だけし、1時間半ほどの時間であったが、俺達は10年以上もの隙間を埋めるかのようにたくさん話をした。


 ジェットコースターに乗って叫んだり、ジョーズやホグワーツ城の前でハイテンションで写真を撮ったりしていると、ふと自分が自分でない気さえした。

 

 特に俺達が興奮したのはスーパーマリオのゾーンだった。そこは、一歩入るとまるでゲームの中に自分が入り込んだような錯覚を覚えるほどで、一瞬でゲームの世界観に引き込まれてしまった。

 緑色の土管やその上で動く花がやけに目を引いている。高いなぁと思いながらも、ゲームに使う時計型の腕バントを購入し、俺と丈瑠は童心に戻ったかのようにコイン集めに夢中になって遊んだ。


 夜になるとさらに映画の世界に引き込まれ、路地の中に迷い込んだスパイダーマンの気分になってみたり、ストリートのゾンビを見てゾッと寒くなったりした。


 興奮も冷めないまま、その晩は丈瑠が一人暮らしをしている家に泊めてもらうことにしていた。

 

 帰る途中でコンビニでお酒を買い込み、丈瑠の部屋にあがりこむと、俺達はその日の疲れを癒すようにビールを身体中に流し入れた。


「俺さ……、昂介が会いに来てくれてホンマ嬉しいねん。」

 丈瑠はしみじみと言った。


 (もう酔っているのか?)

 丈瑠は饒舌に話だした。

 

「俺だって久しぶりに会えて本当に嬉しいよ!」

 昂介も心からそう思っていた。


「丈瑠は俺にとって唯一親友と呼べる男だよ」


 そう言う俺に丈瑠は何かを考えながら、

「ありがとうな……そんな風に思ってくれて。」

 と、言うと何秒か沈黙が続いた後、


 「昂介、中学の奴と誰か連絡取ってる?」

 と聞いてきた。


「いや……。誰とも……。」

 俺がそう答えると、


「実は……俺……、昂介に謝らないといけないことがあるんや。」

 丈瑠は神妙な顔つきをして俺に言った。


「なんだよ急に……何を謝るんだ?」

 もう何年も会ってない丈瑠がいったい何を謝ろうとしているか見当もつかない。


「何を言っても俺のこと嫌いにならんといてなー!」

 丈瑠はまるで彼女のような口調で言った。


「実は俺な……。中学の時の時な……、飯田ひかり覚えてる?」


 (覚えているもなにも、俺の初恋のひかりじゃないか!)


「覚えているけどなんで?」

 俺は動揺を見破られないよう、ぶっきらぼうに答えた。


 俺は忘れた記憶をまたひとつ取り戻していた。


 ひかりは小学校の時から一緒の明るくてムードメーカーの女の子だ。丈瑠とは親同士の仲がいいらしく、2人が仲良く話す姿をよく見かけた。


 中学に入ると、俺はクラスが同じになることもなく、ひかりと話す機会がないままだったが、あのバスの出来事以来、気になって仕方がない存在となっていた。


 中学二年生の一学期、図書室で勉強して遅くなった学校の帰りにバスでひかりと一緒になった。バスはガラガラで席はたくさんあったのに、ひかりは昂介の前の席に座った。


「矢島君、いつも席を譲っていて優しいね」

 前の席から振り向き、笑顔で俺に言った。


「いや……、そんな……。当然だし。」

 俺はあまりに突然のことに驚き、照れてぶっきらぼうに答えた。


 少し開いた窓からの涼風が昂介の赤らんだ顔の火照りをすぐさま冷やしてくれて助かった。


 ひかりが俺のことを見ていたことが嬉しくて、少し淡い期待をした日の始まりだった。


 それから俺達はバスで一緒になると話をするようになった。


 いつしか俺は学校でもひかりを目で追うようになった。中庭で友達と楽しそうに戯れ合うひかりを見ると自分も楽しくなった。


 しかし、三学期にひかりが丈瑠に告白したと噂で聞いてから状況は一変した。

 美男美女のお似合いな2人に俺は太刀打ち出来ないと諦めようとした。

 学校でもなるべく合わないように避けていた。


 けれどその後も丈瑠がひかりと付き合っている様子はなく、ひかりは丈瑠に振られたんだと思った。

 俺は丈瑠に勝るはずもなく、自分がひかりと釣り合わないことを同時に理解したのだった。


 中学三年生になると、丈瑠は大阪に引っ越しした。

 俺は学校帰りに隣街の塾に行くため、学校からのバスで一緒になることもなくなり、自然とひかりから離れて行った。


 今となれば甘く切ない思い出だ。


「俺さ……、ひかりに中学の時に告白したんだ」

 丈瑠は目線を俺から少しずらして言った。


「えっ……?」

 俺は頭が混乱した。


「逆じゃないのか?ひかりが丈瑠のことが好きだったんだろ?」


「いや……俺が振られたんや。」

 罰が悪そうに丈瑠は話始めた。


「告白したら、好きな人がいるって言われてな。」

 ひかりの好きな奴が丈瑠ではないのか??

 

「噂ではひかりが丈瑠に告白したことになってたぞ!」

自分でも驚くような大きな声で返した。


「なんでそんな噂になったのか分からへんねん。」


「それで、何をあやまるんだよ。今さら。」


「それがな……。」

 言葉を選びながら、丈瑠はゆっくりと話始めた。

 

「ひかりに告白した時、あいつは昂介のことが好きやって言ったんや。それで、昂介はどうなんかって俺に聞いてきたから、そんなん知らんわー。って言ってしまってそのままや。」

 それを聞いた俺は、そんな昔の話なのに、胸がギュと締め付けられたような痛みがした。


 凄く大切な落とし物をどこかに忘れたままになったような気分だった。


「でも……丈瑠が俺に謝ることないんじゃない。」

 俺は丈瑠に返した。


「でも、昂介もひかりが好きやったやん。それやのに、俺は知らんって言ってしまったから……。あの時、お前にそれを言わずに引っ越ししてしまったことがずっと引っかかっててな……。」


 「えっ、俺が好きだってなんで丈瑠か知ってるんだよ!」

 そう言って俺はハッとした。自分で好きだと認めたようなものだった。

 

「そんなん、昂介見てたら分かるわー!」

 丈瑠は何の疑問もないような口調で答えた。

 

 昂介は心拍数が一気に上昇した。


「昂介がひかりのこと好きやったから、昂介ファンは誰も昂介に告白せーへんかったんやろうな。」

 何だ……それ?


「お前、本当に鈍感やなー。気づいてなかったんか?ま、でもそんなところが女子ウケするんやろな」


 今更そんなこと信じられないし、聞いたところでどうにもならない。

 だけど、あの時……もし俺が告白していたら、俺の人生は少し変わっていたのだろうか?


「それでな、智哉って覚えてるか?再来週、神奈川行く時に、同窓会しようって言ってるんだ。ひかりも来るだろうから、それまでにお前にはこのことちゃんと話しておきたくてな……」


 智哉は丈瑠と同じサッカー部だった。

 ひかりとも仲がよく、3人でいる所もよく見かけた。


 今聞いた話が未だに信じられないのと、失われた青春時代の痛みが思った以上に深すぎて自分でも驚いていた。


 ――その晩、飲めない酒を多量に飲み、丈瑠と語り明かした。


 ――翌週、仕事から帰ってきた昂介は、ポストに茶色の封筒を見つけた。


 急いで家の扉を開け、その茶色い封筒を開封した。


――やりたいこと その6

 カリスマ美容師に髪を切ってもらいたい


 えっ……?


 これは謎解きなのか!?それとも本当の願いなのか?

そもそもカリスマ美容師なんて未だに存在するのか?


 前回もそうだったけど、この手紙は誰かの願いを叶えるためなのか、俺が代わりに叶えるのかだんだん分からなくなってきた。


 だけど何故?

 誰かが俺を試しているのか?

 それとも、拉致された誰かが俺にSOSを出しているのか?

 全く分からないことだらけだ。

 

 そのうち、カリスマ美容師を探す暇もなく丈瑠がやって来る日がきた。俺の実家に1日泊まることになり、俺も実家へ帰った。母も凛子もイケメンの丈瑠にデレデレだ。


 丈瑠は俺の部屋に泊まり、前回の話の続きを根掘り葉掘り聞いてみた。

 中学生や高校生時代をどうやって過ごしてきたのか、俺は青春時代を埋めるかのように丈瑠から話を聞きだした。


 丈瑠は、中学三年生の時に大阪に行った後、高校はサッカーの推薦で長崎へ行ったようだ。

 一年でレギュラーとなったが、二年生の時に怪我をして、そのままサッカー人生に終止符を打った。大学は実家のある大阪を選び、卒業後は大阪の不動産屋で働いていると言っていた。

 今回は仕事も兼ねてこっちに遊びに来たらしい。

 

 翌朝、俺は朝丈瑠と別れ、実家からそのまま出勤した。


 母も凛子も揃って見送ってくれた。父が倒れて以来、母と凛子とよく会うようになっていた。

 2人をカフェや水族館へ連れて行ったからなのか、2人はあれからご機嫌だ。


――翌日

「矢島さん、この領主書、先仕上げときましたんで、昼行きましょう!」

 相変わらず中島は仕事が早い。


「で、その後、彼女さんどうなんですか?」


「は?俺彼女なんていないよ。」


「え!?なら、カフェや水族館誰と行ったんですか?」

 勘違いされてもおかしくない。まさか妹や母を連れて行くなんて思ってないよな……


「あれは、妹や母と行ったんだよ。」


「え! そ……そうなんですか?なんだ……俺にも彼女さんの友達紹介してもらおうと思ってたんですけどねー!」

……なんだ、中島も彼女いないんだ。なんだか仲間意識が急に高まった気がした。


「中島、カリスマ美容師って何処にいるか知ってるか?」


「なんですか、それ?」


「いや……うん。髪切ってもらおうと思って。」


「なんだ、矢島さんもかっこよくなって彼女欲しいんですね!」

 ……ま、そうなったらいいんだけども


「俺、美容師の友達いるから聞いてみますよ!」


 中島は良い後輩だとつくづく思う。今までなんで気が付かなかったんだろう。この数年何を見てきたんだろう。


――トゥルルル♪♪♪


「もしもし。」


「あ、矢島さん? 中島です。見つかりましたよ、カリスマ美容師!」

 世の中にカリスマ美容師ってそんな簡単に見つかるのか?


「次の日曜日に俺も一緒に予約したんで、一緒に行きましょう!」


(相変わらず仕事が早い奴だな……。心の準備はまだ出来てなかったが、中島が一緒なら大丈夫か。)


 次の日曜日、昂介は、中島に車で連れられて隣街の美容院を訪れた。

 話を聞くと、世界大会でも優勝経験がある有名人らしい。中島の友達のおかげもあり、俺たちは今回特別に予約することができた。


「はじめまして、私が今回担当させて頂く島村です。今日は遠くからありがとうございます。」


 いかにもカリスマ美容師と言う風貌だ。髪は緩いパーマをかけて無造作な感じが今っぽい。髪の色は少し緑っぽいが決っして派手ではない。


「今日はよろしくお願いします。」

 俺は今更ながら、場違いな気もしたが、アミューズメントパークにでも来たつもりで楽しもうと思った。


「どんな髪がご希望ですか?」

 髪型なんて全くもってわからない。


「全てお任せします」

 そう言ってはみたが、どんな髪にされるか少し怖かった。それでも、この伸び放題でクセのある髪がどう変わるのか楽しみの方か大きかった。


――チョキチョキチョキ……


「前髪もう少し切ってもいいですか?」


――チョキチョキチョキ……


 目の前にある鏡の中の俺は、まるで別人のように変わっていく。

 カリスマ美容師は腰に付けているたくさんのハサミを部位や切る方法によって使い分け、軽快なリズムとともに髪が落ちていく。

 なるほど、これがカリスマ美容師の技かとひどく感心した。生まれて初めて髪も染めてみた。


「束感のあるツーブロックでアップバングに仕上げてみましたがどうですか?色もアッシュベージュで透明感があっていい感じになりましたね!」


 日本語か?何を言っているのかさっぱり分からない。

 俺は鏡を受け取り、360度あらゆる方向から確認した。

 (これは……俺なのか……!?)


 俺は家に帰ってから何度も何度も鏡を見た。まるでテレビに出てくるダンスグループの誰かみたいだ。

 自分で言うのもなんだけど、かなりのイケメンに変身した。

 今までは伸び放題の髪で顔の表情さえ分からなかったが、よく見たら目もぱっちりして鼻も高い。


 何だか今までの人生を損した気分だ。女経験0の俺だけど、今なら女性を口説き落とせる気さえする。


「矢島さん、めっちゃくちゃ男前じゃないですか!」

 中島は俺を見てかなり驚いている。


 中島だっていつもよりワイルドでかっこよく決まっている。やはり俺のいつも行く床屋と美容院は仕上がりがこんなにも違うのかと感心した。


――翌日


「おい! 矢島その髪どうしたんだ!」


 課長にえらく驚かれた。

 注目された経験もない俺は、照れ臭いやら嬉しいやらなんとも言えない気分だった。


「矢島さん、めちゃくちゃかっこいいです!」

 そして、会社の女性達にかこまれる。これも入社後初めてだった。


 髪を切っただけでこんなにも注目されるなんて……


 今まで未来が見えず、何のために生きているのか分からなかった俺はいつの間にか、日々進んでいく日常をワクワクするようになっていった。


 

――トゥルルル♪♪♪

 夜に携帯が鳴り響く。丈瑠からの着信だ。


「もしもし、明日やで!忘れんといてや!」

 

「大丈夫だって!ちゃんと覚えてるよ」

 丈瑠は同窓会の約束を覚えているか確認の電話を入れてきた。

 

――翌日

「おー、こっち、こっち」

 指定された居酒屋に少し遅れて行った俺は、声の方に向かった。


一段高い座敷に8人ほどの人が見えた。


 俺は1人の女性に自分の視覚を乗っ取られた。まるでドラマを観ているみたいにその女性にだけスポットライトが当たって輝いているように見えた。

 間違いない。ひかりだ。


「智哉がみんなを集めてくれてん。」

 笑顔で手を大きく振る丈瑠の声が耳に入ってこない。


「矢島くん!久しぶり!」


「飯田さん……」


「そうそう! 嬉しい! 覚えていてくれたんだ!」

忘れるはずがない。それはあの“飯田ひかり”だった。


 昂介はひかりの2つ左隣に座った。

 丈瑠は相変わらずみんなを盛り上げ、面白おかしく話をしていた。

 ひかりはそんな丈瑠を見て始終笑っていた。

 

 一方で俺は、左側に感じる妙な緊張感に神経が集中し、丈瑠の声も耳に入らなかった。

 体の中から伝わってくる心臓の拍動が気になり、ひかりに話かけることも出来ずにいたのだ。

 

 (もしかしたら、ひかりは丈瑠のことが気になるのかな……)


 俺の悪い癖だ。すぐに悪い風に考えてしまう。

 丈瑠は昔告白してきた男だ。2人がこの晩をきっかけに付き合ってもおかしくない。

 

 結局、俺はひかりに連絡先も聞けずにその晩別れた。


 その日からひかりの顔が頭に散らついている。仕事にも力が入らず、心ここに在らずという日が続き、仕事もミスが続くようになった。


 そんなある日、高木が飲みに行こうと昂介を誘ってきた。


「お前、最近どうしたんだ?らしくないぞ」

 高木は乾杯後すぐに痛いところを突いてきた。


「あ……、うん。迷惑かけてごめんな」

 言葉に困る。


「また謝ってる。前にも言ったろ。同期じゃん。」

 高木はぶっきらぼうだが本当に優しい奴だ。


 俺は高木に今まであった出来事を話していた。

 高木は何も言わずにずっと俺の話を聞きながらお酒を飲んでいた。


 ひたすらお酒を飲んでかなり酔った高木は帰る時には足もフラフラで支えないと歩けないくらいだった。

 さすがに1人で家に帰すわけにもいかず、タクシーで家まで送り、家の玄関まで連れて行った。

 すると、中から高木の母親が出てきた。


「矢島さんですよね?拓哉がいつもお世話になっています。」

 細い手足で色白の母親は、高木を抱えていくことは出来そうもない。


 俺は高木の母と2人で抱き抱え、部屋の中へ連れて行った。


「お茶でも飲んで行って、矢島さん。」


 高木の母は、俺をまるで引き止めたいようにも見えた。


「では……、お言葉に甘えて。ありがとうございます。」

 通された部屋に座り、隣のキッチンでお茶を用意している母親を見ながらじっと待った。


 2Kの2人で住むには少し小さなアパートだ。台所はきちんと整理され、無駄な物はない感じがする。


「今日はありがとうね。拓哉はあまり人の話しないのに、あなたのことはよく話するの。」

 少し間を置きながら何かを考えるような話ぶりで言った。


「こちらこそ、高木君はぶっきらぼうだけど優しい奴で、俺はいつも助けてもらってます。」


 俺がそう言うと、母親は少し目を潤ませて、

「ありがとう、本当ありがとう。多分、矢島さんがあの子を変えてくれたのかもね。」


 その会話の中で、高木はきっと今まで何か辛いことがあったんではないかと察した。


 次の日、高木は俺にありがとうと一言だけ言ってきたが、あえて詮索するのはやめた。


 俺は今まで平凡に生きることを辛く感じてきた。だけど、今は本当に生き辛かったのか疑問に感じていた。


 その日の夜、丈瑠からメッセージが届いていた。


 “ひかりの連絡先聞いたから、連絡してみたら?”


 見た瞬間に息が止まり胸が苦しくなった。やはり、俺はまだひかりが好きなのか?


 ひかりは俺のことどう思っているのか、ひかりは丈瑠のことが気になっているんじゃないのか、頭はいろんな仮定でいっぱいだ。

 でも、俺が彼女に連絡するなんてことは簡単ではなかった。


 数日後、高木はこの前のお詫びに食事を誘ってくれた。

 会社の愚痴や上司の裏話でゲラゲラと大笑いしながら楽しく食事をしていたが、高木は急に神妙な顔で言った。


「誰にも今まで言ったことないんだけど……。」

 そう言うと、自分の生い立ちを話始めた。


「俺が小さい頃から、父親は母親に暴力を振るってさ……」

 なかなか衝撃的な出だしだった。


「俺は母親を1人家に置いておけなくて学校にあまり行かなくなったんだ」


「えっ、DVってやつか?」

 俺は身近にいる人にそんなことが起こっていたことに衝撃を覚えた。


 高木によると、高木は小学の頃から父親がお酒を飲んでは母親に暴力を振るいだし、それを止めようとした高木にまで手をあげるようになったのだった。


 高木はあざだらけになり、母もそのままにできないため学校も休みがちになっていった。


 たまに学校に行くと、机の中にたくさんゴミを入れられていたり、班分けする時も除け者にされた。

 仲良くしていた友達はだんだん口も聞いてくれなくなった。


 イジメは日ごとにエスカレートしていったが、担任の先生は高木が学校に来ないからだと高木のせいにした。


 誰のことも信用できずに、高木はそのまま引きこもり状態になっていた。

 そんな時、中学2年生の時の担任が役所などにも掛け合ってくれたり、父親や母親にもいろんな説得をしてくれた。

 それから父親はアルコール中毒を治すために入退院を繰り返し、徐々に高木は学校に毎日通えるようになったようだ。


 誰も信用出来なかった世界から救ってくれたのはその先生だった。


 しかし、高木の父はアルコール中毒を克服できず、次は窃盗などを繰り返すようになった。


 高木は離婚をするよう母親に言ったが、「昔は優しい人だったんだよ」って、いつも父親の肩を持った。


 そんな時、酔った父親が高木に暴力を振るい、高木は入院した。

 慌てて駆けつけた母親は、泣きながら自分を責めた。


 それから父と何度も話合い、離婚に漕ぎ着けたが、お金が無くなると高木の家に来て暴力を振るった。

 そんなことで、今は接近禁止令によって母親から父親を守っているようだ。


 俺は高木の話を何も言わずにずっと聴いた。さぞかし辛く大変な時期を乗り越えてここまできたんだろう。


「矢島、世の中タイミングが大事だぞ。俺の人生で中学の担任があの時に動いてくれなかったら、俺は今頃どうしてたのかと思ったらゾッとするんだ。」


 俺は、高木の苦労を思ったら、自分の人生がちっぽけに感じた。


「矢島見てたら昔の俺を思い出すんだ。ひとりで悩みを全て抱えたり、人と距離を取り過ぎてたり、思っていることを飲み込んでたりするところな。」


 昂介は高木に丸裸にされたような気分だった。全てを見透かされていることを気恥ずかしく思ったが、これほど俺を分かってくれてる人もいないんじゃないかという信頼感に近い感情も生まれていた。


 入社してから味わったことのない感情を抱えたまま、高木と別れて電車に乗った。


 ひとつだけ見つけた空席に座り窓を眺めていると、すらっとした若い女性が近づいてくるのが視線に入ってきた。


「やっぱり矢島君だ!」

 “飯田ひかり”だった。


 慌てた俺は、席を立ち、

「あ……、よかったらどうぞ。」と、席を譲ろうとした。


 しかし、ちょうど駅に停車し、隣の席が空いたので、ひかりは笑いながら隣の席に座った。


「今帰り?遅いんだね。」


 その笑顔はあの時のひかりのままだった。

 俺達はたわいもない話をして、ケラケラ笑った。


 ひかりは、

「それじゃあ、私次の駅で降りるね」


 息が詰まり、言いたい言葉が喉に詰まった。

 “連絡してもいい?”

 その一言がなかなか言えず、しばらく変な間があった。


 ひかりも何かその間を察したのか、黙ったままだった。


「矢島君、またねー!」


 ひかりは笑顔で手を振って電車を降りた。

 でも、なんだかその笑顔は寂しそうにも見えた。


 昂介は家までの帰り道、高木の言葉を思い出していた。こんなチャンス二度とないだろう。弱い自分を責めたが後の祭りだった。

 

 なんとも言えない失望感で昂介は自宅マンションに帰って来ると、ポストにあの封筒を見つけた。


――やりたいこと その7

クリスマスを彼女と過ごす


 気がつくとあの封筒が最初に届いてから半年が経っていた。


「もうクリスマスか……」


 高木の言っていた言葉を思い出しながら、ひかりに連絡して良いか聞く勇気が出なかったことにひどく後悔していた。


 (それにしても……いつもタイミングのいい手紙だなぁ……)

 

 思えばこの半年、俺はこの手紙に自分は翻弄されてきた。そして、いつしか忘れていた刺激や興奮、自分自身を取り戻していた。


 この手紙は神様から俺へのプレゼントなのではないかと本気で思った。


 封筒を手に握りしめながら家のドアを開けた昂介は、玄関で靴を脱ぐとすぐに鞄から携帯を取り出した。


“今日は会えて嬉しかった。今度、食事でも行かない?”

 ひかりにメッセージを送った。電話番号を何故知っているのか気持ち悪がられても、今連絡しなかった方が一生後悔すると思った。


 “私も久しぶりに会えて嬉しかったよ!是非食事行きたいな”

 ひかりからすぐに返事が来た。

 

 (おっしゃーーー!)

 昂介は携帯を片手に、右手はガッツポーズをして喜んだ。


 ――クリスマスイブ


「乾杯ー♪」


 少し高級なレストランを予約し、ひかりと2人で凄すクリスマスイブ。


 俺達はデートを重ね、お互いの愛を確かめ合い、全てが仕組まれているかのように順調な交際が始まった。


 交際してから数ヶ月、あの手紙は届かなかった。


 俺の毎日は飽き飽きしていたあの頃とは180度変わっていた。


 仕事が変わった訳でもなく、上司や部下が変わったのでもない。

 初恋だったひかりが彼女になったからでもなかった。


 何が変わったのか昂介にも分かっていた。


 しかし、これから何十年先の幸せを先払いした感覚がして、時折不安な感情が込み上げた。

 この先も俺が変わり続けなければ、幸せは消えてしまうようなそんな不安に駆られていた。

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