第二章 空想と妄想

 ――20XX年4月16日

 

 その日の朝はいつもの日常と違った。

 朝起きて冷蔵庫を開けると冷気は感じられず、中は結露でびっしょりになっていた。

 冷蔵庫を開けたままどうしようかなと考えていた時、壁掛け時計が前触れもなく落ちた。

 何か嫌な気がしながら、冷蔵庫の結露を拭き取り、朝食を食べる準備をしていた時であった。


「早く病院に来て!お父さんが……」

 

 母からの電話で病院に駆けつけると、ICUの中で管をたくさんつけられ、ベッドに横たわる父がいた。


 父は昔から、家族のために朝早くから夜遅くまで働いていた。休みを返上して仕事に行くことも度々で、いつも忙しそうにしていた。

 しかし、休みの前日は、「これが唯一の楽しみなんだ」と俺や妹のアルバムをめくりながら、大好きな日本酒をちびちび飲んで嬉しそうにしていた。アルバムに写る俺たちを懐かしそうに目を細めていた。その顔を俺は今でも父の一番の記憶として残っている。


 「お父さん、いつも無理してたからね……」

 母は、少し目を潤ませながら父の手をとった。


 俺は今まで人の死について考えたことはなかった。父は幸せだったんだろうか?


 俺はまだ結婚式に招待することも出来ず、孫の顔も見せてない。

 ちゃんと親孝行できていたのか?初任給で母と父を食事に連れて行ったくらいしか何も思い浮かばなかった。


 『目覚めるかどうかは五分五分です。もしも目覚めても、麻痺が残って話をしたり、歩いたり出来ないかもしれません。』


 まるでテレビを観ているような光景だった。自分の人生でこんな事が起こるなんて、現実として受け入れることができず、夢を見ているような気分だった。


(父さんはこのままで人生悔いはないのか……?)


 父に向かって心の中で呟いた。父へと言うより、それは自己への問いかけのようでもあった。そんな時、何か別な人格が自分の心を掻き立てた。


 思えば中学、高校は勉強一筋で部活も入らず、学校が終わるとすぐに帰宅していた。友達も少なく、趣味なんてあるわけもなく、俺は学校から帰ると自分の机に直行した。おかげで成績だけはよく、地方の国公立大学に一発合格した。


 大学に入学してからも一人暮らしの生活費を稼ぐため、学校とバイトの両立で遊ぶ時間もなかった。未だ彼女なんてできたことはないし、何かにハマったこともない。


 思い返してみたら、今も昔だって変わりない。思い出せば出すほど反吐が出そうだ。今までのつまらない自分を全て無かったことにしたかった。記憶から抹消し、そして、今までと違う自分になりたくなった。

 

 しかし、今から急に何をすべきなのか、何が出来るかなんて凝り固まった思考回路で考えられるほど簡単ではなかった。実現できそうもない未来を思い絶望や恐怖さえ感じた。



 

 一週間後 20XX年4月23日

 

 帰宅してポストを覗いた昂介は、一枚の封筒を見つけた。薄茶色で薄い紙の封筒は、外から中が少し透けて見えた。


「誰だ? 俺に手紙なんて……。」


 やじま こうすけ 様


 昂介は封筒を恐る恐る取り出し、差し出し人の名前を確認した。しかし、宛先はあるが、その他は何も記載はない。切手があるので郵便物に違いなかった。

 急き立てられるように、その場で手荒く封筒の上部を破り、中を覗いた。

 すると、折りたたまれた紙が一枚入っていた。昂介は興味と恐怖の隙間に挟まれながら、おずおずと封筒から紙を取り出して広げた。


 ――やりたいことその1

 宅配ピザが食べたい

  

 な、何だ? ?


 意味が分からず俺の思考は固まった。

 誰が何の為に、俺にこんな手紙を送ってきたのか微塵も分からなかった。気味は悪いがあまりにも思い当たらず、自分にの事だとは到底思えなかった。

 鉛筆で書かれた文字は決して綺麗とは言えず、文字は散らばっていた。


 「ピザか……」

 

 湯船に浸かり、手紙のことを考えた。


 ピザ屋の回し者の仕業か?

 俺はその戦略にまんまとはまり、頭はピザのことばかりだ。

 あれ?だけど、どこのピザ屋だ?店名が書いてなかったよな……?


 もしかしたら会社の奴からか?何のため?俺を揶揄って楽しんでいるのか?

 そうか、仕事が出来る俺を妬んでいるのかも!?いや、住所なんて誰も知らないはずだ。


 しかし、いくら考えてもピザが好きな人なんて、父しか思い浮かばなかった。


 (まさか……父さんが書いたのか?)

 

 馬鹿馬鹿しいと思うが、興味と謎の解明の為、俺は母に父の病状を確認した。母によると父の病状は安定し、一般病棟に移っていた。しかし、まだ話を出来るような状態ではなく、鼻から入れられたチューブで栄養を摂っているそうだ。


 (父さん、ピザ食べたいのか……?まさかな……)


 しかし、昂介にはどう考えても手紙の送り主が父以外に思い当たらなかった。

 ありえないような仮説をあれこれ立ててみた。現人神(この世に人間の姿で現れた神)が父の代わりに手紙を届けに来たかもしれないとさえ考えた。


 数日間、昂介は誰からの手紙か考えていた。小学生の時の友達、中学、高校、大学時代から今にかけて必死で自分の今までの人生を振り返った。しかし、どれだけ考えても思いつくような人物は出てこない。そして、思い出せば出すほど自分が思い出せる人の数の乏しさにゾッとした。


(俺はここにいることを誰にも知られることもなく、一生このまま過ごすんだろうな……)


 結局、唯一思い当たるのは父だけだった。

 昂介はピザを持って病院に訪れた。絶対違うだろうと思ってはいるが、そうせずにはいられなかった。


 「父さん、好物を持ってきたよ。」

 

 昂介は父の横に座り、ピザをゆっくり箱から取り出した。すると、その食欲を刺激する匂いは病室を完全に支配した。消毒液臭い病室はチーズとソースの濃厚な匂いに一瞬で入れ替わった。昂介の口は唾液で満たされ、胃腸は嬉しそうに動き始めた。

 

 「ほら、美味しそうだろ。父さんの好きだったピザだよ!」


 照り焼きソースの上にチーズがたっぷりとのり、その上にツヤツヤした焦げ茶色のスライスされたチキンがのっている。そして、その上にマヨネーズとたっぷりのネギが散っている。


 昂介は父の鼻にピザを近づけた。食べられないが、せめて匂いだけでも味わって欲しかった。父は目を開けているが、相変わらずベッドの上に横たわり動かない。しかし、そのおいしそうな匂いに父は、僅かに微笑んだ気がした。

 

 「旨い……!!」


 待ちきれなくなった昂介は一口かじり、反射的に口からその言葉を発した。胃に飲み込まれていくその塊は、全身を幸せな靄で包んでくれるような気分さえ与えてくれた。


 (ピザってこんなに美味しかったかな……?)


 ピザがこれほどまでに自分を幸せにしてくれることに驚いた。

 そして、幼い頃に初めて宅配ピザを注文した時の頃を思い出した。その時、妹と何を注文するか喧嘩になった。めったに食べられない宅配ピザを次はいつ食べられるか分からなかったからだ。


 「喧嘩するくらいなら俺が選ぶ!」


 父はネギをトッピングした照り焼きチキンピザやパイナップルピザを勝手に決めて注文した。


 「えっ――――、ピザに果物!?」

 

 フルーツのピザなんて気持ち悪いと、喧嘩していたことも忘れ、妹と父の愚痴を言った。

 照り焼きピザは父の大好物だってその時知ったが、パイナップルピザは俺と妹の喧嘩を止めるための冒険だったのかもしれない。

 あの時食べたパイナップルピザが忘れられないくらい美味しかった。そして、あれからパイナップルピザは俺の好きな食べ物の1つになった。


 父は大好きな照り焼きチキンピザを食べながら、俺達が食べる姿を嬉しそうに微笑んでいた。


 食べ物の匂いや味はまるで魔法のようだ。忘れていた記憶がその時の感情と共に次々に沸き上がってくる。昂介は忘れてしまった悦楽の記憶が自分の中にまだあるのではないかと期待した。


 俺はなんだか気分が昂揚し、病院から母に電話をかけた。


「もしもし。俺、昂介。今父さんのところにきてるんだ。父さんピザ好きだったから、匂い嗅いだら意識戻るかと思って持ってきたけど嬉しそうな顔してくれたよ。」


 母は一方的に話す言葉に返すこともなく、ただ頷いて聞いてくれた。


 病院から出て駐車場に向かう途中、昂介は背後から視線を感じた気がしたが、振り返っても誰もいなかった。

 少し気味が悪くなったが、さっきの熱い感情の方が上回り、急ぎ足で車に乗り込んで家に向かった。

 

 ――次の日

 会社の休憩時間、同期の高木と後輩の中島が果物はおかずになるかどうかで盛り上がっていた。

 酢豚にパイナップルは合わないと言う高木に対し、中島は絶対に合うと意見が分かれていた。


 (これは偶然なのか……?)


俺は普段、人の話に割り込むタイプでもないし、会社で仕事以外に誰かと話をすることがほとんどない。

 特に同期の高木はいつもぶっきらぼうで上から目線なので、あまり関わりたくない奴だ。しかし、どうしても衝動が抑えられなかった。


 「俺はパイナップルピザ好きだけどな……」


 背後から唐突に話に加わった。

 

 「えっ……、あ……そ……そうなんですか……」

 あまり話をしない俺が急に話かけたので、中島は一瞬固まった。


 「パイナップルのピザなんて論外だろー!」

 高木は返した。


 「いや、とにかく合うんだ!パイナップルの酸味と甘味がチーズの濃厚な味をさっぱりとした風味にまとめてくれて、本当に美味しいんだ!」

  

 昂介は身振り手振りを交えて話した。


 「いやー、絶対ないなー!」

 高木は相変わらず高圧的な言い方で言い返す。でも、なんだか目の奥が嬉しそうにも見えた。


 「矢島さん、フルーツサンドって食べたことありますか?あれって美味しいですよね!」

 中島は俺達2人がこれ以上言い争わないように、気を使って話をそらした。


 結局、論争に決着はつかなかったが、相手の意見に反して自分の意見を言えたことになんだか満足していた。

 これまで仕事以外で自分の感情を誰かに見せることはなかった。なぜなら人の話に興味もなく、理解をする必要性も感じていなかったからだ。

 しかし、逆になんで今までらそうだったのか不思議にさえ感じた。

 

 ――そして

 一週間後、ポストにまたあの茶色い封筒が届いていた。


 ――やりたいことその2

 生クリームたっぷりのパフェが食べたい

 

(な、何だ?父は生クリームが好きだったっけ……?いや、甘いものはあまり好きでなかったはずだ。)


 頭が混乱してぐちゃぐちゃになった。

 意識のない父が手紙を書ける訳がないし、現人神が本当に存在しているなんて信じられることではなかった。

 

 でも、ありえないような仮説を打ち消すだけの根拠なんて思いつかない。


 カフェのキャッチーな広告にしたら雑過ぎる。

 誰かが俺にケーキを買って来いと催促する手紙なのか?やはり父さんか?

 そうか!父さんの病院の看護師が俺を気に入って、病院に来させようと仕向けているのかもしれないぞ!

 だいたい何で俺の住所知ってるんだよ。

 誰かがSNSで俺の住所を流していて、よってたかって俺を虐めているのか?

 

 いろいろ考えてみたけれど、普通に一番怪しいのは妹の凛子だった。

 凛子は甘いもの好きだったし、住所だって知っている。

 きっと俺に会い、いつものようにダメ出しをしたいんじゃないのか?

  

 “次の休みにお茶でもどう?”

 その晩、俺は凛子にメッセージを送った。


 “どうしたの急に?”

 すぐさま返事が返って来た。

 

 とぼけているのか、それとも妹でもないのか……。

 昂介は会って確かめようと思った。


 「兄ちゃん〜!こっち、こっち!」


 俺は中島にパフェの食べられる店を聞き出し、予約を取った。飲食店の予約なんて生まれて初めてだった。

 だいたい、なぜ予約しないといけないのか理解不明だ。でも、中島が言うにはこういう店は予約が必要なんだと言う。


 「凛子、遅れてごめん!道に迷って……」


 俺は10分ほど遅れて店に着いた。

 50席ほどある席は全て埋まっているが、無機質なスケルトン天井と外に面した大きな窓が解放感を感じさせる。

 幾つかある観葉植物はたっぷりと窓からの日を浴びて緑の空間が広がり、混雑している店内だとは思えない爽やかな空間だ。

 

 しかし、カップルや女性ばかりの店内は昂介にとっては居心地が悪くてたまらなかった。

  

 「お兄ちゃん、よくこんな店知ってたね!兄ちゃんもやるじゃん!」

 

 ――んっ!?

 

 「実は、会社の後輩にこの店は紹介してもらったんだよ。」

 なぜだか焦って、しなくてもいい言い訳をした。


 「えっ!?女の人?いい関係だったりして?」

 凛子は興味深々に俺へあれこれ尋ねてきた。

 まったく余計なお世話だ。

 

 おそらく、今まで妹をあまり誘わなかったのは、言われたくないことを聞かれるのが嫌だったからだと思い出した。


「会社の後輩からこの店は聞いたんだよ。だいたい、今は仕事が大変で彼女作る暇なんかないし。」


「それ、高校の時も大学の時も言ってたよ!いつになったら彼女作るの?」

 

 これだこれだ。

 話をするのも嫌になるこの切り返し。


 妹の凛子は2つ下の妹である。目鼻立ちがはっきりした美人でスタイルもよく、明るい性格で家に昔から友達がたくさん遊びに来た。

 あの時の俺は勉強やバイトで女なんて厄介なだけだと思っていたから、凛子の友達が来ても何も気にしてなかった。

 だけど、凛子はだらしない格好の俺が嫌だったようで、いつもグチグチ言ってきた。

 俺はそんな凛子をいつか避けるようになっていた。


「今日は?急に呼び出したりして何か言いたいことでもあるの?合わせたい人でも出来たのかと思ったけど、違うみたいね……。」


(あれ?やはりあの封筒は凛子ではないのか?それとも隠しているのか?)


「いろいろあったし、甘いものでも食べたいかなと思って……。」

 少しカマをかけてみた。


「そりゃぁ、食べたいけど、急に誘ってくるなんて気味が悪いよ……。」


(やはり、手紙の送り主は妹ではないのか……?)


 俺たちはメニューからさんざん悩んだ挙句、イチゴパフェを2つ頼んだ。

 同じものなら恋人同士のように分け合ったりしなくても済むと思い、俺は凛子の選んだものと同じものにした。


 しばらくすると、店員さんがパフェを運んできた。

 お洒落な瓶にイチゴやクリームが何層にも重なり、一番上には一粒の大きなイチゴが白い粉を纏って宝石のようにのっていた。


 「いただきまーす!!」

 

 凛子は目の前に運ばれてきたパフェの写真を2、3枚撮り終えると、スプーン片手にクリームをスプーンで口に運んだ。

 

 「うわぁ~~~~!このクリーム凄く美味しい!兄ちゃんも食べてみて!」


 俺はおそるおそる白いクリームを口に運んだ。実は砂糖の甘すぎる味が苦手なのだ。

 昔どこかで食べたケーキが甘すぎて、それ以来生クリームも食べなくなった。

 

 しかし、一口食べた瞬間、その白くて空気をたっぷり含んだ生クリームは昂介の凝り固まった心をふわっと包んで溶かした。


(俺は、こんな美味しい食べ物を知らずに今まで生きてきたのか?)


「兄ちゃん、これ本当に美味しいね!」

 凛子は幸せそうな笑顔でパフェを口に頬張った。

 

(久しぶりだなぁ……凛子のこんな顔見るの)

 

 昂介は誰かと一緒に何かを共有できる嬉しさを久しぶりに感じた。

 俺達は、久しぶりにたくさん話をした。


 凛子と昔の話をしていると、忘れていた自分の記憶が呼び起こされた。

 一緒に住んでいたあの頃はまだ目標があった。でも、今の俺は何を目指して生きているのだろう?


 白く甘い生クリームは昂介の心を満たし、感情に新しい味を与えた。

 オシャレなカフェで食べるこのパフェは経験値の低い昂介にとって大きな挑戦でもあったのだ。

 昂介はそれを成し遂げた満足感で満たされ、もっと大きな挑戦をやってみたくなっていた。


 「お兄ちゃん……あのね……。」

 

 凛子が何かを言いかけた瞬間、凛子の携帯がタイミングよく鳴り響いた。

 

 「うん、うん。分かった。お兄ちゃんと代わるね。」

 そういうと、凛子は俺に自分の携帯を渡してきた。

 

 「昂介、お父さんが、お父さんが目を開けたの!早く来て!」

 

 母は泣いているのか、少し声を震わせながら、俺達に病院へ来るように言った。


 「わかったよ母さん。今から凛子と一緒病院に行くから待っいて。」

 そういうと、俺達は急いで病院へ向かった。

 

 父は倒れてから病状に大きな変化がなかった。俺はこのまま死を迎えるものだと覚悟していた。


 昂介は焦る気持ちを抑えながら病院に急いだ。


「母さん、凛子!」


「兄ちゃん、声かけてあげて。」


 気持ちを抑えようと短く何度も深呼吸息しながら来たので、昂介は病院に着いた時には喉はカラカラだった。


「父さん、俺だよ!昂介!」

 昂介は父の意識を体から引き出すように手を握り父を呼んだ。


 父は時折目を薄く開けて意識はあるようだが、話などはまだ出来そうではなかった。

 医者からの説明では、話が出来るかなど先のことは、まだ何も予想出来ないようだ。


 でも、俺は不思議と父には奇跡が起きると信じていた。


 ―― 20XX年6月25日

 1ヵ月後、忘れていた頃にまた例の封筒は届いた。


――やりたいことその3

 電車に乗りたい

 

 ……何だ?


 電車に乗りたいなんて子供みたいな願望だな……

 凛子でもなさそうだし、いったい誰なんだろう……?


 誰でもいいやと思いながらも、やはり差出人が誰かが気になる。


 もしかしたら俺のことを好きな女の子が俺を誘っているのか?会社の子かな?

 いや、もしかしたら通勤中によくすれ違って目が合うあの綺麗なお姉さんかもしれないぞ。

 電車に乗ってデートして……カフェに行って……そして…ふふっ

 あっ!!前回の手紙と同一人物なのか!?

  

 誰だ……誰だ……


 だけど、そんな女の子なんて思い出せるはずもなかった。

 

 ふと、母の顔が浮かんだ。母も一応女性である。

 

(そう言えば、あれから母と会ってないな……。)


 凛子でなかったらもう母くらいしか思い当たらない。

 

 母は毎日のように父の病院に行き、時たま病状を携帯のメッセージで送ってくる。

 看病に疲れた母が息詰まり、俺にヘルプを送っているのか?


 俺は、母の休息のためにも、どこか楽しめる場所に連れ出すことにした。


「もしもし。元気?父さんの所に通い詰めだし、息抜きにどこかにでも連れて行こうかと思って……」


「うん、そうだね……たまにはいいかな。ありがとうね。」

 母は少し考えた後、


「水族館に連れて行ってくれる?」

 と、まるで彼女と行くような場所を指定してきた。


 昂介は母と2人で行くには恥ずかしいなぁと思ったが、自分から誘ってしまった引け目もあり何も言えなかった。


 そうこうしてるうちに、出かける日はやって来た。朝、実家に迎えに行くと、凛子が玄関まで飛び出てきた。


「兄ちゃん、本当、何かあったの?この間は私で今度は母さんを誘うなんて……。」


 思えば妹や母に何かしてあげたことなどなかった。他人だけでなく、俺は家族にさえ興味がなかったのかもしれない。

 俺は大学へ行って働くことしか考えていなかった。

 それは、忙しい父を見ていたからこそ、安定した生活を一番に求めていたからかもしれない。


「えっ!今日は車じゃないの?」

 外に出た母は車がないことを不思議に思い昂介に尋ねた。


「あ……、うん……。そうなんだ。電車で行きたくなって」

 昂介はそれ以上何も言わなかった。


 タンゴトン……ガタンゴトン……


 思えば電車に乗るのはいつぶりだろう。仕事には自転車で行くし、他の場所には車で移動している。

 

「母さん、父さんの状態どう?」

 母と何を話して良いかも分からず、父の容態を聞くことぐらいしか会話がなかった。


 (俺は本当に家族のことを知らないな……)


 母親と息子なんて、こんな関係が普通だと思っていた。

 だが、父が倒れてからはこれではいけないと思うようになった。人には終わりがあるし、人生はやり直しがきかないこともある。

 だけど、急に何をどうしたらよいのか分からない。


 昂介は母と会話をしたり、黙ったりと電車の時間をやり過ごした。

 会話は無くても電車で静かに母の横に座っているだけで、なんだか今まで離れていた時間を巻き戻したような錯覚を覚えた。

 母は優しげな顔で黙ったまま窓の外の風景を眺めていた。


 そうこうするうち、目的地に着いた。

 

 今時の水族館は凄く進化しているらしい。俺は中島から聞いて下調べをちゃんとしてやって来た。イルカやアシカのショーもやっていて、子供から大人まで幅広く人気がある水族館だ。辺りをふと見渡すと、家族連れかカップルがほとんどだった。

 俺達はどう回りから見られているのか少し気にはなったが、母は全く気にする様子はなかった。


――ザブーン、パッチャーン


「うわー! 可愛い! 凄い!」

 母は少女のように騒ぎ、全身から楽しさが溢れていた。

 

 俺はとにかく今日、母を連れて来て良かったと心から思った。ショーの合間やランチを食べながら母と昔話をたくさんした。

 

 俺は夏になると父とセミ取りに出かけては虫かごいっぱいにセミを詰めこんだ。

 だけど、いつもそのままにしてどこかに遊びに行くので、母はいつも苦手なセミを逃がしていたらしい。

 

 そう言えば、俺はよくポケットに好きな虫を入れて帰ってきては、母を怒らせていた。

 池で捕まえてきたカエルを家に放してしまい、大騒ぎになったことも思い出した。

 捕まえたカマキリを虫かごに入れ、一緒に捕まえた蝶も入れて家に帰ったら、母にえらく怒られたっけ……


 俺は一人思い出し、声を出さずにニヤニヤした。そして、昔はちゃんと好きな物があったことを嬉しく思った。


 ――20XX年7月23日

 例の封筒はまた届いた。


――やりたいことその4

遊園地に行きたい


……う〜ん。今回も子供からの願いみたいだな。

 本当に誰からなのか検討もつかない。


 もしかしたら俺には隠し子がいて、大きくなって俺と一緒に遊園地に行きたいと思ってるとか?

 

 いやいや、俺は女の子と関係を持ったことは一度もない。

 でも、お酒を飲んだ勢いでやってしまったのかもしれない。合コンで睡眠薬を入れられて、犯された……なんてことはないか……


 あり得ないような妄想をしながら、俺はあれこれ考えた。しかし、いくら考えても全く思い当たる人はいなかった。

 

 凛子と母さんが味を占めてまた俺に手紙を送ってきたのか?

 それとも……それとも……

 

 いろいろ考えた結果、俺はこの不思議な手紙に便乗して今までやってみたことのないことに挑戦することにした。


  次の日、

 

 「中島、次の日曜日に遊園地行かないか?」

 俺は会社で中島に声をかけた。


 「えっ、急に何ですか?」

 驚いた顔で俺を見る。


 「カフェや水族館を教えてくれたお礼にどうかと思ってさ……。」

 

 入社以来、俺は会社の誰かと食事にさえ行ったことはない。

 ましてや休みに職場の仲間と出かけるなんて、中島が驚くのも無理はなかった。


 「矢島さん、何かあったんですか?それとも、俺に惚れたんですか!?」

 いやいや、なんでそうなるんだ……


 「俺もたまには後輩と親睦を深めようかと思ってさ……。」

 

 「えー、そうなんですか!それならみんなで行きませんか?」


 話が大きくなったことを悔いる暇もなく、中島は、後輩の田中と俺の同期の高木を誘った。


「矢島が誘って来るなんて意外だったなー。仕事以外興味ないのかと思ってたわ!でも嬉しいよ。」

 

 高木の何気なく言い放った言葉がやけに胸に刺さった。

 

 全くもってその通り、俺は仕事以外に興味が無い。だから仕事だけは必死にやりこなしてきた。

 しかし、仕事だけにあった自尊感情を蹴飛ばされたかのようだった。


 俺は仕事以外に何の興味もない面白みのない男だと思われているんだろう。


 日曜日の早朝、俺はみんなを車に乗せて遊園地へ向かった。

 サービスエリアで朝定食を食べ、遊園地には30分も早く着いた。

 会社の話で盛り上がっていた俺達は、そんな待ち時間は全く苦にもならなかった。

 

「田宮課長は絶対ヅラですよね?この間、誰かとぶつかった時に髪がちょっとずれてましたよ!」

 中島の言葉に笑いが起こる。


「あ、そういえば、社員旅行では大浴場で髪洗わないって聞きました!」

 田中も加えて言った。


「えっ?そんな話誰から聞くんだ?」

 俺は会社に入って噂話なんて未だに聞いたことがない。


「お前らなー、歳取ったら誰でも何か出てくるんだ。それを笑ったらだめだよ。」

 

 (あれ?高木ってこんな奴だった?)

 俺は驚いた。誰かを否定してもかばう奴でないと思っていた。


「えー、でも隠すから陰で言われるんですよー!」

 中島は笑いながら答えた。


「誰でも人に隠しておきたいことがあるんじゃないかな?」

 何か考えているような様子で高木は呟いた。


 俺には知らない事が他にも沢山あるんだろうなと感じた。いつも過ごしていた日常がなんだか空っぽに思えた。

 遊園地が開門しすると、俺達はこの遊園地の呼物であるジェットコースターへ真っ先に走って行った。

 ジェットコースターの怖さよりも、誰より先に乗れたことに何より興奮した。

 

 俺はいろんな気持ちを吹き飛ばすかのように、大声で叫んだり、笑ったりした。

 久しぶりの遊園地を誰よりも楽しんだ。そして気がついた。


 (この数年、こんなに笑ったことがあっただろうか……。)

 

 「矢島、今日はありがとうな!これからも同期としてよろしく!」

 帰りの道中、高木はさらりと言った。


 “同期”ただそんな言葉の響きがとても嬉しかった。


 ここ数年、笑い方すら忘れていた。人と一緒に笑うことがこんなに心地よかったんだと自分でも驚いた。

 それからは、職場の昼休憩を誰かと一緒に過ごしたり、仕事帰りに会社の仲間と飲みに行く時間も増えていった。


 少しずつだが、自分の中で何か変わっている気がしていた。


 ――20XX年9月23日

 また例の封筒だ。

 今や、怖さよりも興味や楽しみでさえある。


 ――やりたいことその5

 空を飛びたい


 ……おっ!


 想像を超えてきた。


 えっと……

 次はスカイダイビングか?バンジージャンプか?

 これは凛子でも母さんでもないよな……。

 

 流石に今回の願いは何をしたら良いか、全く思い浮かばず、そのまましばらく手紙のことは忘れていた。


 

―― 高木拓哉

 

 「ただいまー。」

 玄関の扉を開けるなり、疲れた様子を見せることなく台所に行き、高木は母に向かって声をかけた。


 「おー、今日もご飯おいしそうだな。」

 そんな高木を母はにこにこして言った。


 「最近、拓ちゃん変わったね。なんかいいことあった?」

 母は見透かすように言った。

 

 「結構大変な仕事が片付いたからね。」

 少し遠くを見るように高木は思い出すような口調で母に答えた。


 チリリリン……

 

 家の電話が鳴り響いた。

 母の穏やかな顔は一瞬でおびえた顔に変わり、高木を見た。


 「もしもし。はい……そうですけど……はい……」

 高木はいつもよりやや低いトーンで電話に答え、電話をゆっくり切った。

 

 「なんて……?」

 母は恐る恐る高木を見上げて聞いた。


 「あー、大丈夫。警察から近況を聞かれただけだから。心配ないよ。」

 高木はそう言い残し、自分の部屋のドアを開けて去った。


 高木は部屋のベッドに座り、一冊のアルバムを手に取って見ていた。一枚、二枚とめくると、そこには小学校の高木が写っていた。しかし、その顔は黒く塗りつぶされていた。

 高木は塗りつぶされた顔を眺めると、大きく息を吐き、何かを決意したかのように風呂へ向かった。


 ――20XX年10月1日

 そんな矢先、凛子から久しぶりに電話がかかってきた。


「お兄ちゃん、丈瑠君から家に電話あったよ!携帯教えておいたからまた連絡あるかも。」

 その声で凛子のテンションが上がっているのがよく分かる。

 

 桜井丈瑠は小学校の時によく遊んでいた友達だ。中学はサッカー部に入ったので、帰宅部の俺と遊ぶことは少なくなった。


 しかし、部活のない週末は俺の家へよく泊まりにきて夕食を家族みんなで食べたりした。

 その後丈瑠は大阪へ引っ越し、なかなか会えずにいた。振り返ると俺の人生の中で唯一親友と呼べる友達だったかもしれない。


 ――トゥルルルル、トゥルルルル


 知らない着信番号だ。


「もしもし。」


「あ、昂介?俺、丈瑠!元気やった?今何してるん?」

 声は変わっていたが、話口調は変わらない。大阪弁混じりだが、懐かしいあの時の丈瑠のままだ。


「今度そっち行くんやけど、昂介に会えるかな?」

 

「おー!久しぶりに会いたいなー!」

 

 昂介は久しぶりに友との会話を楽しんだ。丈瑠は、明るくて無邪気なまま昔とまったく変わらなかった。

 仕事や昔話など1時間は話しただろう。あまりに楽しくて、まるで時間軸がズレたように錯覚さえした。


 電話を切った後、昂介は何か忘れてしまっている大切なことがあるような気がして胸がソワソワしていた。

 しかし、どうしても思い出すことが出来なかった。

 


 それから1週間が過ぎた頃、会社で大きなトラブルが起こった。何日も夜遅くまで残業し、寝る間もない日々が続いた。

 誤った見積書を取引会社に送ってしまった後輩のミスであった。しかし、指導係である昂介はその責任感から後輩のフォローを必死に続けた。


 なんとか峠を越えた時、ふと昂介は自分がこんな状況でも平常通りに仕事をこなし、しんどさを感じていない自分に気付いた。


 気が付くと同期の高木や後輩が他に応援の声を掛けてくれるなど手助けしてくれていた。

 取引先の住所や電話番号をいち早くまとめてそっと机に置いてくれたのは同期の高木だった。

 

 「高木、ごめんな……。俺のせいで帰りも遅くなって。」

 ある日の休憩時間、高木と食事をとった後、昂介はそう言った。


 「お前な!そういう時はありがとうって言うんだぜ。仕事を手伝うのは当たり前だし、失敗の尻を拭くのはお互い様だ。謝るのは違うだろ。でも、感謝はしろよなー!」

 

 高木はいつも通りの高圧的な言い方であるが、どんな言い方をされようといつからか嫌な気はしなくなっていた。


 「あと……」

 

 「お前さ、何か困ったことがあったり言いたいことがあったら、自分からちゃんと言わないとダメだぜ。自分の殻に閉じこもっていたら、困っていることも気づけないからな!」

  高木は一瞬言うのを躊躇ったが、伏し目がちに何かを思い出すかのようにゆっくり考えながら俺に言った。

 

 高木の発した言葉は妙に重く、その言葉がずっしりと心に深く突き刺さった。


 ろくに話をしたこともなかった高木のことを偉そうで苦手な嫌な奴だと思っていた自分は高木よりずっと嫌な奴だった。

 おれは高木ともっと打ち解け合えたらいいのにと初めて思った。

 


 

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