第五章 現実

「実は、この手紙は、昨年の4月から届き始めたんです……」

 

 そう言って、俺は最初に届いた手紙から今までのことを聡太君の母に話をした。


 この手紙のおかげで自分がどのように変わることが出来たかを俺は聡太君の母に溢れるように話して聞かせた。


 「そうなんですね……」

 聡太のお母さんは俺の話を頷きながら最後まで聞いていた。


「実は、聡太はいろんな当たり前が今まで出来ずにここまで生きてきたんです……」

母は涙声で、気持ちを落ち着けながら一言一言ゆっくりと話始めた。


「聡太は、幼少期に癌を患ったんです。一時は寛解し、普通にみんなと同じような生活を送っていたんですが、最近また新たな癌が見つかって……」


 岡田聡太は現在15歳の男だった。一年前から治療の為、入退院を繰り返していた。

 思うような治療の効果も出ず、治療方法を変え、4月からまた化学療法が始まった。


 4月と言えば、父が倒れた月だった。接点があるなら、俺が初めてこの病院に来た時なのだろう。


 「ピザは聡太が一番好きな食べ物でした。でも、持ち込みが出来なくて……」 

 聡太の母は手紙を振り返りながら話をし始めた。


 5月、聡太は免疫力が低下し、クリーンルームと呼ばれる病室へ移った。

 化学療法の副作用で食欲が落ちて吐き気や嘔吐の症状もでるし、味覚異常で味も感じなくなる。

 それなのに、食べて良いものや持ち込みなど更に規制は厳しくなった。

 

 (そうか……あの手紙は本当に自分の願いだったんだろうな……。)


 聡太は甘い物も大好きだったが、加熱出来ない生物は持ち込みが出来なかったので、大好きなお菓子やアイスクリームも食べることができなかった。


 生クリームのパフェも本当に食べたかったのだろう。


 その後、府状が回復してクリーンルームをから一般病室に移動した。

 

 しかし、その頃から聡太はしきりに外に出たいと言っていたそうだ。

 今まであまり自分の気持ちを押し出すことがなかったが、その時はストレスからなのか、母にも強く当たったようだ。


 そして、治療効果も確認出来ず、さらに化学療法が続き、髪は全て抜けていった。


 病状はそのまま悪くなる一方で、最後は寝たきりになっていった。そして、毎日ベッドの上で過ごす日々に弱音を吐くようになっていった。


 しかし、クリスマスが近づく頃、奇跡的に聡太は病状が良くなった。検査の結果もよく、外出が許されるかどうかまで回復した。


 しかし、最後まで外出は出来なかった。

 聡太の母はそんな息子のため、クリスマスに家族みんなで病院に集まって病棟の看護師が開いてくれたクリスマスパーティーに参加した。


 その直後、肺炎を起こしてそこから病状は更に悪くなった。

 聡太は調子の良い時に自分の力を振り絞り、あの桜をみたいと言う文字を書いたのだろう。


 もしかしたら、桜を見る前に自分の命が尽きてしまうと思ったのかもしれない。


 俺は聡太のお母さんと聡太に会いに行った。


「こんにちは……。矢島昂介です。」

 聡太は目を薄っすら開け、瞼を二回閉じた。


 何で俺に手紙を送ってきたのか、何で俺のことを知っていたのか聞きたいことは多かったが、その姿を見たら何も言えなかった。


 そのまま家に戻ると、ポストにまた手紙が届いていた。


――やりたいこと その9

 もっと生きたい


 調子が良い時にこれを書いたんだろう。

 今日会った聡太の姿を思い出すと胸が苦しくなった。


 俺は4月始めに休みをもらい、部屋で埃を被っていた一眼レフカメラを持って京都に向かった。


 新幹線の窓から見える景色を見ていたら自然と涙が出てきた。

 この景色を見ることが出来ることにさえ今は感謝できた。


 京都に着くと、まずレンタサイクルショップへ向かった。

 鴨川の遊歩道を少し肌寒さを感じながら颯爽と走り抜け、金閣寺や嵐山など大勢の観光客がにぎわう風情ある京都の町を一日中巡った。

 俺の頭には聡太のことで一杯だった。何枚も何枚も何かに憑りつかれたかのように桜の写真を撮った。


 昂介は自宅に戻ると、写真屋でプリントアウトして聡太の病院へ急いだ。


「聡太君、桜だよ!」


 昂介は撮ってきた写真の中で一番お気に入りの写真を手に取り、聡太に見せた。


 聡太は目を閉じたまま、何か言いたそうに口を動かした。しかし、酸素マスクで覆われ、昂介には聞き取ることは出来なかった。

 

 聡太はそれから意識混濁状態が続き、目を開けることはなかった。

 昂介は聡太の病室の天井や壁に桜の写真をたくさん貼り付けた。


 その横にはいつもひかりの姿があった。

 2人は毎日のように病室に訪れ、いろんな話を聡太に聞かせた。


 昂介は病院で聡太と会うたびに手紙をもらった時から今までのことを振り返っていた。

 今までのつまらない毎日を全て環境のせいにしてきた。どうにもならないことだと諦めていた。

 しかし、それは単なる現実逃避だったのかもしれない。

 

 今、聡太が1日でも生き抜いて欲しいという感情や、自分や回りの大切な人が生きている日常を尊いことだと感じている。

 聡太が俺の人生を変えてくれたと言っても過言ではなかった。


 ―――― ―― ――――


 その日は朝から雨がふり続き、僅かに残っていた桜を降り落としてしまいそうだった。

 薄暗い雲に覆われた空は不穏な風を巻き起こし、何か良くないことが起きそうな胸騒ぎがした。


 嫌な予感がしながらも、スーツに腕を通し、家を出ようとした瞬間、携帯がなった。


 “母さん”


 携帯の画面に表示された名前を見て少しホッとした。


(朝早く何だろか?)


「もしもし、昂介……お父さんが……」


少し上擦った母の声は、驚きの中に喜びが混じった声だった。


「お父さんが、意識を取り戻したの!」


俺は急いで病院へ向かった。

父の意識が戻るなんて内心諦めていた俺は少し戸惑っていた。

意識のない状態が生なのか死なのか実は分からなくなっていた。

急に父が死から蘇ったように思い、なんだか不思議な気分でもあった。


「こぅ……す……け……」


病室に顔を出した俺を見て、父は途切れながらも俺の名前を呼んだ。

昂介をはっきりと認識していた。


 (また、父さんと話が出来る日が来るなんて……)


 今まで溜め込んだ感情が溢れだし、その温かい感情は涙に変わった。

 父が生きているという実感をやっと感じることができたのだ。


 昂介は凛子や母とそれから病室で父との思い出に花を咲かせた。

 

「私……実は兄ちゃんにはずっと幸せになって欲しいと、思ってたんだよね。」

 凛子は言いにくそうに少し俯きながら昂介に言った。


「今までいろいろうるさく言ってごめんね。」

 凛子は少し微笑み目を潤ませた。


「そんなこと……。」

 昂介は凛子の思いを勝手に思い違いしていた自分を恥じていた。

 

「兄ちゃん、私お弁当買ってくるね!」

 凛子がそう言って病室を出ようとした

 その時――


 トゥルルルル、トゥルルルル


 昂介の携帯が鳴り響く。


 “聡太お母さん”


 画面に表示された文字を見た瞬間、昂介はハッと目を見開き、息を呑みながら電話に出た。

 実に嫌な予感がした。いや、悪い予感しかない。


「もしもし、矢島さん。今、聡太が……聡太が……」


 聡太の母はその先の言葉を伝えられなかった。

 昂介も覚悟ある中の僅かな希望を打ち消したくなかった。


 昂介は携帯を手に持ったままで聡太の病室へ走った。


「俺はまだ、聡太にちゃんと“ありがとう“って言えてないよ。」


 昂介にとって聡太はいつの間にか自分の一部のように感じていた。

 病室に向かうその一歩一歩で自分の身体が引きちぎられていくような痛さを感じた。


「聡太君……」


 病室に入ると、医者や看護師が必死に蘇生をしている。


「まだ僕は君にお礼が言えてないんだ!このまま死んじゃだめだ!」

 このまま二度と話せないままになると、自分だけが聡太の願いを奪ってしまったという罪悪感を一生背負わないといけない。

 昂介はそんな罪悪感に耐えられる自信などなかった。


 昂介の気持ちに応えるかのように、一瞬聡太は息を吹き返した。


「聡太、聡太……」

 聡太の母は言葉を詰まらせながら呼びかける。


「聡太君、ありがとう!僕に生きる希望を与えてくれてありがとう!」

 そう言う昂介の声が聴こえて安心したかのように、聡太は少し微笑んだような笑みを浮かべ、静かに目を閉じた。


 ピィーーーーーー


 昂介は人の最後に初めて立ち会った。

 こんなにあっけなく一生が終わることの虚しさは何事にも例えることが出来ない。

 人の死とは一体どういうことなんだか、今まで存在したものが一瞬で消えてしまうことをどのように捉えたら良いのか全く分からなくなった。

 

 しばらく泣き崩れていた聡太の母は、まだ止まりそうもない涙を必死に止めようとしながら、昂介に

一枚の封筒とノートを手渡した。


 それは見慣れたあの例の封筒だった。


――やりたいこと その10

親孝行がしたい


 その手紙を見た途端、俺はその場に泣き崩れた。

 昂介は今まで聡太の代わりに自分が願いを叶えてきた。でも、最後の願い事は聡太の代わりに俺が叶えてあげるわけにはいかなかった。


「それは俺が代わりに願いを叶えても意味がないよ……。聡太が生きるこそが親孝行じゃないのか?それなのに……。」


 昂介は聡太の無念の気持ちが胸の奥深く突き刺さり、悲しみで目が開けられなくなった。


 今まで聡太の代わりにいろんな願いを叶えてきた。きっと本当は聡太が全て叶えたかった願い事だったはずだ。


 (そもそも何で聡太は俺に自分の願い事を伝えてきたんだろう?)


 昂介は聡太の母から渡された一冊のノートをめくり始めた。


4/10 桜が散り始めた。来年は病気が治っているだろうか?また桜を見ることが出来るのだろうか?

 来年は母と一緒に桜を見に行き写真を撮りたい。もう泣いて欲しくない。


4/16 食堂でアイスを食べた。死ぬほど美味しかった。横で男の人が話しているの会話を聞いた。

 仕事も楽しくないし、なんの楽しみが何もないようだ。俺は普通に生活することさえ叶わない。

 早く大人になって仕事をしたい。早く母を楽させてあげたい。

 あの人は僕と代わったらいいのに。そしたら自分がどれだけ幸せなのか分かるだろう。



4/20 病院の食事はどれも美味しくない。あー!!早くピザが食べたい。

 この間会った男の人に手紙を書いた。これからは僕の代わりに、僕の願いを叶えてもらおうと思う。

 何故って、人生が楽しくない人が生き続け、生きたい人が死ぬなんて不公平だろ。


4/28 今日、ピザの箱を持ったあの人を見かけた。ついていくと病室でピザを食べていた。

 前と違ってなんだか楽しそうだ。俺もなんだかうれしくなった。


5/5 クリーンルームに移った。

 母さんが柏餅を持って来てくれたが看護師が食べたらダメだと言った。

 今日くらい大目にみてくれたあいいのに。

 早くここを出て、美味しいものを食べに行きたい!


6/18 なんでだよ! この部屋をとっくに出ているはずだったのに、まだ出られない。

 朝から晩までテレビばかり見ている。電車でいろんな場所に行きたい。いろんな景色が見たい。外に出たい。


7/20 まだ出られない。いったいいつまでここに閉じ込めるのか?

 笑うことも、歩くこともできない。本当はみんなと修学旅行に行きたかった。遊園地に行ってみんなとジェットコースターに乗りたかった。


9/15 最近、体調がかなり悪い。この日記もいつまで書けるだろう。毎日ベッドに横たわり、天井を見上げている。歩く体を奪っていく病気がにくい。空を飛べたら好きな場所に行けるのに。


10/30 やっと、あの部屋を出た。だけど、僕の頭はもう髪の毛一本もない。母が帽子を勧めるけど、隠すのは病気に負けた気がする。

もし、髪が生えてきたら、オシャレな美容室に行って髪を切ってもらうぞ!


12/10 久しぶりに今日は体調がいい。でも、いつもと何も変わらない。だんだん身体が弱っていってる。きっと僕はもう長くない。

 もしも僕が病気で無ければ今頃何をしていたのかな?

 もうすぐクリスマスだ。一度くらいは女の子とデートしたかったな。


3/15 しんどい。でも、桜を見るまで生きたい。あの人どうしているかな?今幸せなのか?


3/16 もうだめかも。でも僕は幸せだったよ。


3/17 あ り が と う お 母 さん


 最後の文字は左右に散らばり、読み取るのも難しかった。


 俺はいろいろ思い出してきた。


 父さんが倒れた日、昼に凛子と食堂に行った。

 あの時は仕事もつまらなく、毎日何の楽しみもなかった。

 

 久しぶりに会った凛子にいろいろ聞かれ、日頃の愚痴をぶちまけたような記憶がある。

 住所……


 あ、そうだ!


 あの時、壊れた冷蔵庫の修理依頼するために、病院の食堂から電話していた。

 あの時か!


 俺はその時横に座っていた男の子を思い出していた。

 今までどれだけ多くのことを我慢し続けてきたのだろう?


 身体は華奢で、聡太は小学生位に見えていた。小さいのに1人で食堂に来ていて感心した気がする。

 点滴が吊ってある支柱台を横に置き、細く痩せ細った腕を机の上に乗せ、何かの本を熱心に読んでいた。


 あれは何の本だったのだろう?


 

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