第七話 語らいは茶と共に

 麗らかな陽光が薄い雲間より燦々と降り注ぐ、穏やかな日。

 久方ぶりに散歩でもしようと、街へ繰り出していた。

 空気はもうすっかり冷たくなって久しいが、今日は日差しも有り、温かい。目的も無く出歩くには、全く都合がよいと言う他無い。


「……お。こんな所に、茶店が在ったのか。全然気が付かなかったな」


 ふと脇を見れば、周囲の建物や植木に隠れるようにして、一件の茶店が在ることに気が付いた。こう、なんだか知る人ぞ知る、といった趣を漂わせている。


「気になる……これも、何かの縁というものかな」


 気の向くままに、歩を進めた。どうにも分かりにくいが、恐らく営業はしているようだ。扉を押し開けると、控えめにちりん、という音が響く。

 中には一人、老年の店主がカップを磨きながら佇んでいた。


「――いらっしゃいませ」


 俺の姿を捉えた店主が、落ち着いた声で一言だけそう言うと、また視線を手元に落とし、次のカップを磨き始める。

 席への案内さえもする気はなさそうだが、却ってこの距離感が心地よいと言えなくも無い。

 一応出迎えられた以上問題は無かろうと判断し、適当に空いた席に座る。やはりというか何というか、品書きの一つも出てくる気配はない。……参ったな、何を注文したものか。

 ……うーん、質問すればいいのは分かっているんだが、何となく聞きづらいんだよなあ。こう、寡黙な職人と相対している気持ちというか……。


「――いらっしゃいませ」


 進退窮まっていると、店主が入口の方を見て、また一言呟いた。新たに客が訪れたらしい。ああ、よし……とりあえず、その人の真似をしよう。


「いつものを一つ。それと、エクレアとオランジェット、アーモンドのヌガーを一つずつ」


 ――終わった。俺の計画は完全に破綻した。

 苦々しい気持ちでその客の方をちらりと見て――


「……シルヴェストル閣下ですか、もしかして?」


 帽子と外套で分かりにくいが、その姿は、既に見知ったもののようだった。


「き、み……は……」


 ああ、やはり。我らが騎士長、シルヴェストル・オデュローその人じゃあないか。

 何だ? 俺を見て大変驚いているというか、ちょっと様子が可笑しい気もするが。

 というか騎士長閣下、滅茶苦茶甘いものを食べるんだな。ちょっと意外だ。


「――君も、この店を知っていたとはな。よく来るのか?」


 彼は一度だけ、重く息を吐き出して、やがて意を決したように、此方へと話しかけてくる。なんだ? 騎士長ともなると、やはり疲れが溜まっているのだろうか?


「いえ。つい先ほど、何となく目について、初めて入ったのですが……良い雰囲気で、すっかり気に入りました」


「そうか、初めてか。

 ……ならば、まだ注文も出来ていないのではないか?

 彼は、とても不親切だからな。何度言っても、品書きの一つも出そうとしない」


 おや。どうやら、俺の状態をすっかりお見通しらしい。


「ええと……実は、そうでした」


「やはりか。

 ……ほら、聞こえているだろう、ペルマン。だから、いつもそれぐらいはやれと言っているのに――見たまえ、自分が槍玉に上げられているというのに、我らを一瞥さえしない」


 シルヴェストル氏の言葉に何の反応も見せず、ペルマンと呼ばれた店主は、淡々と注文を受けた通りに、茶を淹れ、菓子の用意をしている。

 ……本当に人間なのか? 実は、何がしかの機械なんじゃあ有るまいな。


「あ、あははは……」


「――お待たせしました」


「ああ、ご苦労……待て、ペルマン。この者にも何か、用意してやれ、茶と、茶請けと」


 シルヴェストル氏の言葉を受け、ペルマン氏が此方を見遣る。言葉も無く、言いたいことは明らかだ。お前はそれでいいのか、と彼は眼差しだけで雄弁に語っているらしかった。出来れば口で言って欲しい。


「済みません、そんな感じでお勧めの物をください」


「畏まりました」


 簡潔にそう返事をして再びすっかりと押し黙り、ペルマン氏はまた、茶と菓子の用意を始める。

 シルヴェストル氏に目を向けると、彼は肩を竦めるばかりだ。恐らく、常にこんな調子なのだろうなあ。


 *


「あ、美味しい――」


 用意された茶を、冷めぬ内に堪能する。

 一口啜ると、豊かな香りが鼻腔を満たした。

 時間が少し過ぎるごとに、多層的に幾つもの風味が現れては綻び去って、嚥下し喉を過ぎる頃には、その全てを受け止める茶の香りだけが残される。一夜の夢のような目くるめく煌めきと、夢から覚め、再び現実から抱擁される瞬間になんだかほっとするような、この茶は、そんな不思議な味わいだった。

 余韻をゆるりと鼻の奥で寛がせ、徐に息を吐きながらシルヴェストル氏の方をふと見ると、彼は既に、あれほど注文した菓子の類をすっかりと食べ終えたようであった。……好きなのだろうなあ。

 目が合った。彼はすっと目を逸らす。それに対し、不躾だったかな、と少し反省していると、やおら彼は立ち上がり、此方へと歩み寄って来る。


「……アーダルベルト」


「……はい?」


 一度俺の名を呼び、彼は沈黙した。

 そして、一度呼吸を整えたのち、漸く決意が固まったかのように、徐に口を開く。


「アーダルベルト・ノアイユ。重き名を継ぐ者よ。君とは一度、ゆっくりと話したいと思っていた――――」


 *


 乞われるままに色々な話をした。鉄都を訪れる以前の事……森で暮らした二年間。ディディエと、初めて出会った瞬間。ディディエやダフネさん達のもとで過ごした時間を、ディディエの養子として騎士たると誓い、彼にみっちり鍛え上げられた日々を。


「そう、か。そうか――」


 シルヴェストル氏は合間に口を挟んで質問をするでもなく、ただ静かに、それを聴き続けた。他に客も居ない店の中、自分用の茶でも入れているのか、ペルマン氏が湯を沸かす音と、俺の語りだけが響いている。


「あとは、まあ。騎士として、日々努めているばかりです」


「そうだな。そこから先は、既に知っている。

 ありがとう、聴かせてくれて。……」


「あの……不躾な質問で申し訳ないのですが、シルヴェストル閣下は何故、俺の話を聞きたがるのですか?」


 俺の問いかけに、彼は少し難しい顔を……いや、この人は何時でも難しそうな顔をしているのだが。まあ、特段こう、苦虫を噛み潰したような、重々しさが滲んでいるような、そんな顔をした。


「…………そうだな。君の境遇は、随分と珍しいものだ。

 興味を懐いたとて、不思議では無いと思わないか?」


「まあ、それはそうかもしれません。

 でも、俺はてっきりディディエと関係があるのかと思っていました。

 ディディエの態度からして、知り合いのようでしたから」


「……ディディエは、何か言っていたか?」


「え? ええと、いや、何か特別どうと言っていた訳では無いのですが、何というか……あいつのことは何でも分かる、と言いたげな風だったというか。

 とても近い距離に居た人だったんだろうな、というのはすぐ分かるような、そういう感じで呟いていたというか」


「ふ、そうか。

 変わらんな、あの人も――いや。変わったと、言えるだろうか。

 ……君が、来てから」


 シルヴェストル氏は少しだけほっとしたような顔をして、徐に昔語りを始める。彼にとっては、それは遠く過ぎ去った思い出であり、とても大切な記憶のことなのであろう。この、未だ壮年の男性はしかし、揺り椅子に腰かけ、火の前で暖を取り伝承を子供たちに聞かせる古老のように、遥かな年月を重ねたを感じさせるのであった。


「――私はな、アーダルベルト。彼の……ディディエの、最初の弟子だったのだ。無論、ディディエは騎士団内で他の者に稽古を付ける事は、私がそうなる以前よりあったことだが、彼が私的に弟子として取ったものは、私が初めてだった。

 もうずっと、昔の話だ。私が、君のような若者であった頃の話なのだから」


「そうだったのですか。

 師と弟子で、二代続けて騎士長を務めているとは。

 流石というべきなのでしょうか?」


「いや、私は……まあいい。

 私は、名高き英雄の弟子として恥じることの無いように、懸命に過ごしていた。今にして思えば、空回る若造など、周囲にとっては却って滑稽なものだったであろうな。

 ……ともかく。私がそうして何年か過ごしたころ、もう一人、ディディエは弟子を取ったのだ。それは誰あろう、私の弟だった。名を、シャルルという」


「シャルル……?

 オデュロー家にそのような方が居られたとは、寡聞にして存じ上げていなかったです」


「当然だ。何せ、今はもう居ないのだから。

 シャルルは幼時から体が強くなく、病に臥せりがちであった。

 だが、あいつには才が有った。剣の腕が。軍略の才が。あいつは、当世随一の麒麟児と謳われた、紛れも無い英雄の器であったのだ。

 ……私は、正直に言えば。少しだけ嫉妬する気持ちもあったが、それでも家族が、シャルルがその様に頭角を現し、世に名を示していくことが、誇らしかった。ディディエの薫陶を私より遅く受けながら、私より先に全てを吸収していく底無き才覚が羨ましくもあり、同時に、彼がそれを持っていたことが嬉しかった――」


 シルヴェストル氏は、ふと天を仰ぐ。

 既に死に別れた家族への憧憬が、その瞳に見て取れた。


「――――時として運命は、酷く悪趣味になるものだ。誰もが欲するものを全て与え、そしてたった一つだけ、それらの根幹となるものをひっそりと抜き取るのだから。

 シャルルは、騎士として持つべき全てを持ち合わせているかのように思わせたが、ただ一つだけ、欠けているものがあったのだ」


「……天命、だったのですか」


「そうだ。あいつは、永くは生きられなかった。病魔はとうとう、あいつから目を背けてはくれなかったのだ。

 私はあの時ほど、運命の神を呪ったことは無い。

 なぜ、私では無いのだ、と。代われるのなら、代わってやりたかった。あいつが生きていれば、私などより余程上手く、この国を、騎士達を纏められていただろう。ディディエの剣を受け継いで、閥と権力を巡る闘争を繰り広げる愚かな連中を抑えつけて、今よりきっと、良い時代を築いていただろう。

 ……シャルルには、輝く未来が有るべきだったのだ。暗い病床に臥せって尚も、私やディディエを、この国の事を案じながらゆっくりと息絶えていくのではない、もっと、もっと……望まれるべき、未来が……」


「…………」


 何も、言えない。言えるわけが、無かった。

 半端な慰めなど、何になろうか。何を言ったところで、きっとこの人は、それを受け容れられないだろう。それが分かるほどに、彼は自分のことを否定したがっている。

 何かを言ってあげたくとも、きっと誰かの言葉が必要なのであろうとも、それをするべきは、俺では無い。それは、俺の領分にはなりえないのだ。


「私は、己を責めた。あいつに代わって、病を受けてやれる訳もなく、ただのうのうと生き続けていることを。幾ら努力しようと、あいつが描けた筈の未来は私には創れないという、己の無力さを。

 ディディエは自暴自棄になる私に、ただ生きて、自分に出来る事をやっていくしか無いのだと、静かに諭した。あの言葉が有ればこそ、私は恥ずべき己が無力を棚上げし、生きて在り続けられたのだ。

 ……それからは、私もディディエも少しだけ無口になった。口を開けば、あいつを惜しむ嘆きが溢れそうで、ふと口を噤むことが、随分と増えた。

 そんな日々を送る中、悲しみは、恥じらいも無く再び我らの前に顔を見せたのだ……君も、既に知っているかもしれないが」


「ディディエの、妻子の話ですか?」


「…………そうだ。

 あれは、南の戦いの最中だったな。早馬が駆けて来て、その危篤を告げたのだ。 戦の最中に何を悠長な、と思うかもしれないが、当時のディディエは、私以上にシャルルの死が応えていたようでな。故に、誰かが気を回したのだろう。せめて、最期には立ち会えるように、と。

 私は指揮を引き継いで、ディディエを鉄都へと帰したよ。やがて敵方を打ち破り、鉄都へ戻って来た私が見たものは……まるで、別人のようにやつれたディディエだったのだ。

 私には、信じられなかった。

 ディディエは、英雄だった。紛れも無い、並ぶ者なき大英雄だった。

 敵軍と相対すれば誰よりも勇敢に、振るわれる剣を槍をへし折りながらどこまでも進み続ける。凶獣の爪牙にも怯むこと無く敢然と戦い、堂々と討ち果たす。

 何度か、敵将と一騎打ちをすることもあった。私たちは、将が一騎打ちなどとんでもない、と諫めたものだが聞かず、ディディエは行われたその全てで、ただ一撃で雌雄を決した。

 彼は、如何なる死地に於いても豪放に笑い、我らを勝利へと導いた。そんなディディエが、よもや……確かに、悲しみは続けざまに訪れた。彼の最愛の者たちが喪われる悲しみは、何よりも深く、莫大なものだっただろう。

 だが、まさか、彼が。どのような攻撃を受けようと、決して倒れることの無かったディディエが、血の一滴も零すことなく打ちのめされているという事が、私には受け容れられなかった。……ああ、受け容れられなかったのだ」


 シルヴェストル氏は、重々しく息を吐く。鉛のような空気が、場を満たしている。


「私は、彼に詰め寄った。いやしくも騎士長が、人々を束ねねばならない貴方が、なぜその様に、ただ悲しみに項垂れているのだ、と。シャルルが死んだときは私に生きるように諭した貴方が、自分の悲しみは耐えられぬのか、と。彼は、ただ一言、ああ……とだけ返した。

 ……あの時に、我らの誇りたるディディエは、英雄の裔たるノアイユの家名は墜ちたのだ。私は……まだ若かった私は、それでも支えてやれば良かったものを、師のそのような姿を目にし、拒絶してしまったのだ」


「そのような、事が……」


「当然に、私とディディエは疎遠になった。

 顔を合わせても互いに口を利くことも無く、やがて私が周囲からの推薦で騎士長の座を継いでからも、それは変わらなかった。互いに憎み合っている訳では無いと理解しながらも、もう、どのように交流すればよいのかは分からなかったのだ。

 ディディエは、人が変わった様に静かになり、騎士長の座から降りてからは、ずっと無茶苦茶な戦いばかりをして過ごしていた。味方も連れず、ただ独りで敵の砦に乗り込んで、制圧してきたことさえあった。

 ……今にして思えば、死に場所を探していたのかもしれん」


「そこでディディエが斃れていたら、俺も今頃森の中で死んでいたのでしょうね」


 思ったことをつい口に出すと、シルヴェストル氏は軽く笑い、張り詰めていた空気は幾分、弛緩した。


「どうかな。

 君もディディエの弟子、その齢ながら既に過酷な戦いを乗り越えているぐらいだ。

 案外、生き延びていたのではないか?」


「……え? ディディエはともかく、俺もそっち側の扱いなんですか?」


「ふ……まあそんな所か、私とディディエの話は。

 あれから私は、ディディエがかつて居た席に着き、その重責と困苦を、上に立つ者の孤独を嫌というほど味わい、かつて、師がどのような気持ちで過ごしていたのかを悟り、かつての短慮をずっと後悔しながら生きていた。

 ……君は、私のようにはなるな。人に憧れて、その強い面だけを本質であると思い込み、それ以外の面を否定するような愚かしさを持たぬように気を付けるんだ。

 人とは、心とは、ただ一つの色のみで表せるほど、単純ではない。全てがその者を構成する要素であり、他者からは如何に矛盾した面に見えようと、その者にとっては全てが真実、己なのだ。

 ……こんな話に長々と付き合ってくれたこと、感謝する。今のディディエの様子を聴けたことも、良かったと思う」


「いえ。俺も、ディディエやシルヴェストル閣下の話が聞けて、嬉しかったです。

 ……あの、差し出がましいとは思うのですが。ディディエと、話をしてみても良いのではないでしょうか。俺の事だって、幾らでも話の種にしてくれて構いませんから……」


「ああ――ああ……そう、だな。そろそろ、良いのかもしれないな――」


 ……内心、これを言ってしまって本当にいいのかとおっかなびっくりだったが、どうにか、怒られることは無く済んで正直ほっとしている。

 一息ついて茶へと手を伸ばせば、もう、すっかりと熱は失われていた。一息に飲み干せば、花開くような目くるめく爛漫の香りはどこかへ消えてしまっていたが、全てを受け止め包み込むかのような大地を思わせる香りは健在だった。


「ペルマンさん、御馳走様でした。お代は――」


「ああ、それは私が出しておこう。

 何、金など長話に付き合わせた年長者が出すものだ」


「そう仰られるのでしたら、喜んで御馳走になります。今日は、有難うございました」


「ああ。私の方こそ、有難う。

 ……君がここに来てくれて、心から良かったと思うよ」


 一礼して店を出る。シルヴェストル氏は穏やかに笑み、それを見送ってくれた。

 その一方で、最後の瞬間までペルマン氏は俺を一瞥もせず、自分の茶を啜っていた。ここまで無関心を貫かれると、只ならぬ凄味を感じざるを得ない。


「……やっぱりあの人、機械か何かなのでは……?」

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