第十一話 星の瞬き、神秘の刃
アーダルベルトとボドの決死行により開かれた道を進み、一台の馬車が駆けてゆく。
あの恐ろしき獣がこちらへと振り向かぬことを固く固く祈りつつ、マーシュは怖れに震え戦慄き、冷や汗で滑る手でなんとか馬に鞭打って、遂に鉄都ラクァル、その偉大なる城門へと辿り着かせることに成功したのだ。
マーシュは門に縋りつき、訴えるように手で音を出し、番の者へ呼びかける。
「おーい、開けてくれ! ええと、今日は確か……ジェラール、居るんだろ! マーシュだ! 緊急事態なんだ、獣が出た!」
「――マーシュ、戻って来たんか! どうした、お前なら合言葉を言えるはずだろう?」
「ああクソ、分かってる、分かってるよ。"どうせ踊るなら、野郎よりも貴婦人と"。これで良いだろ、早く門を開けてくれ!
民間人を護送してるんだ、頼む! それに、騎士と兵士が二人だけで獣に応戦してるんだ、援軍を寄越さないと!」
返事も無く、音を立てて門がゆっくりと開いていく。
マーシュはもう、この音であの獣が向かって来るのではないかと気が気では無かったが、振り向けば、獣はすっかり後ろを向いており、アーダルベルトとボドが十全に囮としての役目を果たしているのが見える。
獣が襲って来なそうなことにひとまず安堵するのも束の間に、今度は彼らが無事でいられるのかと、マーシュは強い不安に苛まれた。
やがて門が開ききると、マーシュは前方を塞ぐものが無い事を確認し、躊躇わず城内へと馬車を進ませた。
手際の良い事に、内門の方まで既に開けられており、滞りなくラクァル内部まで戻って行けるだろう。
迷わず道を進むマーシュは、その後ろから、遠目に巨獣を捉えた門番のジェラールが、慌てふためき上げた声が響くのを聞いた。
「――なんだ、ありゃあ! 大変だ、今すぐ騎士団へと報せにゃあ、大変だ、大変だ!
コリン、馬を出せ! 騎士団へ行って来い! "獣が出た、援軍求む"ってだけでいい! よし行け!」
言うが早いか番兵の一人、コリンが馬を駆り、馬車を抜き去り颯爽と駆けてゆく。
……とりあえずは、彼らに任せておけば問題はなさそうだ。マーシュはそう判断し、漸く胸を撫で下ろす。
馬の興奮を宥めながら道を往き、少し開けた所で馬車を止める。後ろでは、万一に備えいつでも門を閉じられるようにしている兵たちが見えた。
「――マーシュさん、もう、出て来ても大丈夫そうかな?」
馬車の荷台から、恐る恐る顔を覗かせたイェニが、マーシュへ訊ねる。
「カーレンさん。無事、ラクァルへと到着しました。今の所は、そう危険では無い筈です」
「……うん。ねえ、大丈夫かな、二人とも」
「……分かりません。今は、信じることしか出来ないのでしょうね、きっと。
俺が見た時は、怪我をしている様子も無く、あれを引き付けて戦っていました。悔しいですけど、俺ではああは出来ないでしょう。
俺は、アーダルベルト様やボドの様に強くない。戻って戦っても、きっと足手まといになる。今も、恐れで手が震えるぐらいなんです」
「うん……私も、そうなんだ。
あの子は騎士様なんだ、すっごく強いんだからきっと大丈夫だ……って思っても、それでも何かあったら嫌だなあ、って考えちゃうんだ。
ねえ……待ってるのって、こんなに怖いんだね。私も、戦えたら良かったのになあ……」
その細腕にはめられた、アーダルベルトから手渡された守り紐を手でぎゅっと抑えつつ、消えてゆく残照と、緩やかに拡がり始める夜闇の溶け合う空へと目を遣りながら漏らされたイェニの呟きは、只ならぬ気配を悟り、次々と門の方へ様子を見にゆく住民たちの騒めきに紛れ、儚く消えていった。
*
「どうした、獣よ! ごちゃごちゃとせせこましく暴れ回って、ちっぽけな人間二人さえ仕留められないとは、無様だな!」
ボドと別れ、一人で獣の前に躍り出た。
そして堂々と立ち構え、捲し立てながら、退る事無く、恐るべき鋭さを以て音を立てながら空を引き裂く獣の凶爪を、何とか弾く。
「幾ら立派な図体を持っていて、鋭い爪角が有ろうとも、それを振るうのが貴様のような愚図では、宝の持ち腐れも良い所だ!」
言葉の意味を解しているのかは定かではないが、挑発されていることは分かるのか、こちらを見据える獣の眼がどろりと憤怒に蕩け濁る。
俄かに只ならぬ腐臭と気持ちの悪い寒気が俺を取り囲むが、俺は気合でそれを無視し、尚も立ち続ける。
「――――どうした、自慢の邪視はこんなものか! このようなもので騎士に挑もうとは、嘗められたものだ!」
邪な呪いに屈さず、苦しむそぶりも見せず尚も捲し立てる俺を見て、獣は癇癪を起し、叫びながら遮二無二暴れ出す。力任せに大地を拳で叩き付け、暴れ馬の如く跳ね回っては大地に巨大な足を陥没させて痕をつくり、眼からは赤い泥水が零れ落ちる。
「……効果覿面だな。獣がこんなに挑発に乗ることってあるか?」
初めて顕れた時にその身に纏っていた静かな偉容はどこへやら、獣は今や泣きわめく稚児のように、道理も無く駄々を捏ね、ただ己の望むままの結果を求め、只管に暴れ回っている。
やがて、その矛先は当然に俺へと向けられた。
「どうした、俺は生きているぞ! お前が力を幾ら振るったとて、死ぬものか!」
俺の言葉に呼応するかのように、獣は叫び、執拗に俺へと敵意をぶつける。
爪を振るい、拳で殴らんとし、大足で踏み拉かんと跳ねまわり、そして――
「――来たか!」
捻じくれた角を以て、俺を貫かんと頭を振り回し、叩き付ける! これを待っていた、この瞬間を――!
大上段から叩き付けられる頭部を、大地をしっかりと踏み据えて、重さを十全に活かし、大きく回すようにして全力で剣を逆袈裟に切り上げ、打ち込む!
それは凄まじい音がした。完璧な機を以て打ち込まれた剣に、獣の角はそこに在り続けることを諦め、断たれ跳ね飛び、地に落ちる。
汚泥のような血が激しく散り、ぐらりと獣の巨体が揺らぐが、倒れ込むには至らない。獣は片手を頭に当てながら、ゆらりゆらりと身を起こす。
その様子を見るに、眩暈を起こしているのだろう。あの頭部にきちんと脳が入っていて助かった。
「――ボド!」
衝突の衝撃にふらついているのは俺とて同じ、これは当然に予測していたことだ。だから、ボドに頼んでおいたのだ。俺が態勢を整えるまでに、あいつを固定しておいてくれ、と。
「お任せを!」
ふらつく巨体を支えるために地面に突いた片手に向けて、控えていたボドが全力で飛び掛かり、体重を乗せて槍を打ち込み、地にしっかりと縫い止める。
どうにか体勢を整え、ふらつく頭を気合で抑え込み、完全に固定された足を踏み台として駆け上がり獣の背に飛び乗ると、頭を覆う毛を手で引っ掴み、首をぐるりとこちらへ向けさせる。
「頼むからこれで死んでくれよ……!」
戦いが終わることを祈りながら俺は、頭を押さえる獣の手ごと、虚ろにぐるぐると廻り続ける、焦点の定まらぬ瞳に向けて、剣を突き立てた。
苦痛に叫び声が上がり、腐臭の伴う濁った血が吹き出すが、尚も怯むことなく、脚で首にしがみ付きながら、諸手で剣を奥へ奥へと突き立て続けた。
暴れようにも、地に縫い止められた腕が楔となりまともに身じろぎも出来ず、邪視で俺達を呪おうにも、こいつの目には今や剣しか映るまい。苦悶の声が、次第に弱々しく掠れ始める。
……やがて、獣の巨体からがくりと力が抜ける。瞳の妖しい赤色は急速に喪われ、如何なる道理に基づいてか、顔がどろりと泥の如く溶けてゆく。
そこに到り、ようやく剣を引き抜いて、獣の上から飛び降りた。
「……死んだのでしょうか?」
同様に、腕から槍を抜き取って、ボドが俺へと問いかけてくる。
「分からない。普通の獣なら、完全に死んだと断言できるだろうが……」
「……取りあえず、我々もラクァルへと戻りましょう。骸を調べるのにも、人手が必要そうですし……」
「骸か……ううむ、学者に頼るべきか、神官や魔術師でも呼ぶべきなのか……」
気が付けば残照もすっかりと去りきって、辺り一面は夜闇と、それを照らす月明りばかりであった。
戦っている時は、そちらにばかり集中していて気付かなかったが、もうそんなにも時間が過ぎていたのか。
……うん、早く帰ろう。今日はもう、流石に疲れた。なんだか頭もぐらぐらするし……呪いの影響だろうか。
「ああ、とにかく戻ろう。……帰ったら、一杯奢ってやろうか」
「いやあ……流石に、今日はさっさと眠りたいと思って……居たんですけどね、アーダルベルト様がそう仰られるのでしたら、ぜひに御馳走になりますよ、ええ!」
……元気だなあ。いや、まあ良い事なんだが。
*
獣の骸に背を向けて、ラクァルへと向け、歩み出す。
疲れからか互いに言葉も無く、俺は星月の瞬く夜空を眺め、あれこれと考えていた。
あの妖獣とは、何なのか。
あんなものが、自然に居て堪るものか。
複数の種の特徴を併せ持ち凶暴だというだけならまだしも、呪いまで振り撒こうとは、不届きにも程がある。
切り離された尾が動くだけならトカゲとて同じ事だが、それが蛇の如く跳ね人を害さんとするなど、尋常には有り得ない。
ああ、結局あれこれ考えても分からないな。うん。その道の玄人に任せておけばいいだろう、うん。……後でギジグに話でも聞きに行くかあ。
ふと、暗くなる。比喩では無い。本当に、影が急に俺を覆ってしまったかのように、暗くなった。
月明りを、遮るものがある。雲が流れて、隠してしまったのだろうか? 俺は後ろを振り返り、そして――
「ボド。お前は先にラクァルへ戻れ」
「え? な、何を……何だ、あれは?」
妖しい予兆に背後を覗く俺たちの目に写るもの。
それは完全に意味不明な、理解するに遠く及ばない異常――
「さ、流石にアーダルベルト様も共に戻りましょう! 何が起きるか分かったものではありません!」
致命の剣を受け息絶えた恐怖の獣、その骸。
最早呼吸することも無く地に臥せていた筈のそれが、腰の辺りから鈎にでも吊られているかのように浮き上がっていく。
力なく尾が拡がり、ぶらりと四肢が垂れ下がる。……やがて、それが完全に地表から離れ、空のものとなったころ。
「俺はもう少し経過を見てから、後で戻る。無理はしないから心配するな、お前は先に戻るんだ。
そして、伝えてくれ。あの獣には、俺たちの想像を遥かに超える、この世ならざる秘密が潜んでいるのだと」
獣の骸が、丸く、丸く、蕩けて混ざりゆく。四肢は無くなり、異形の大腕も溶け消えた。遺された拡がる尾が、その球をゆっくりと包んでゆく。
そうして瞬き程の後に、汚泥の涙を零す瞳がひとつ、ぎらりと顕れた。
「は……はっ! 十分に、お気を付けください。どうか、ザリエラ様のご加護の有らんことを……!」
嘆きと呪いに満ちた、亡びと汚涜だけを湛える暗黒の球が、中空に有り、天をも穢す。
禍々しい闇の波動を脈動の如く放つそれはまるで天体にも似て、最早、紛れも無く人の手には余るものなのだろう。
「……あれを殺したのは、間違いだったのだろうか? いや、だが……」
胸が、締め付けられる。呼吸が、上手く出来ない。頭が万力で挟まれているかのように激しい疼痛に襲われる。先ほどまでの、異形の獣だった頃と比して、零れ放たれるその昏い力は遥かに強まっているように思える。
そもそも、あの獣を相手にする事さえも、多大なる過ちであったのだろうか。だが、だとすれば、人は一体何をするべきなのか。
我らに対して明らかなる害意を持ち、食う訳でもなく殺戮をすると伝えられ、あの様に悪意に満ちた笑い声さえ上げる者たちに、戦う事もせずただ逃げ惑い殺されるを待ち、住んでいる場所さえもみすみす明け渡すことしか、人には許されていないのだろうか?
「もし、あれが誰の手にも負えないような代物だったら……俺が、皆の死を運命づけたことになるのか……?」
嫌だ。それだけは、嫌だ。俺は、助けたかったんだ。
訳も分からぬ悍ましいもののせいで、苦しむ人々が居るのが、嫌だったんだ。
……戦わなければ、ならない。必ず、俺の手であれを殺さなければならない。
最早あれが、真っ当に殺せる、正常な命を持つ者なのかさえ、定かではないが。
――――それは、眩い輝きだった。
己の行動と決断に対し、最後まで責任を果たさんと覚悟を決めた俺ごと、背後から……即ち、ラクァルから放たれる、銀月を写した刃の如き色の光が、世界を白く、白く染め上げる。
呪わしき闇の波動は完全に打ち消され、俺に付きまとっていた死の枷は破壊され、苦痛は跡形も無く消え去った。
「な、何だ!?」
慌てて振り返る。余りの眩さに眼が痛くなるほどであったが、何とかそこに在るものを見据えんとして。
やがて、ゆるりと光の勢いが落ち着きを見せ、何が有るか、きちんと認識出来そうになってきた頃に。
「――――よくぞ、力を尽くした。少年よ、後はそこで見ているがいい」
何時の間にやら近くに、白い外套を纏った騎士が一人、現れていた。
途方も無い遥かな年月を越えて来たような、太古の威厳に貫かれた静謐を湛えるこの声は――
「アステレさん……」
征剣騎士、白位二剣。"流星騎士"との異名を取る、古くよりの神秘を纏うと謳われるベルジュ家当代、アステレ。
流麗な煌めく銀剣を抜き放ち、白光と共に現れたその騎士は、臆すること無く、昂りさえせず、ただ静かに暗黒の星へと立ち向かう。
騎士が剣を振るう。軌跡が剣を越えて飛び行く白き刃となり、中空に佇む闇を切り裂いた。
一刀の下に闇を両断せしめた白き光刃は、それを為した先で弾けて光の陣となり、瞬く間に分たれた昏き天体を包み込む。
騎士が剣を納める。すると、黒き星を包み込む光陣は何よりも強い光を発し、一瞬だけ、世界に太陽が昇ったのかとさえ錯覚するほどに眩い輝きが辺りを照らす。
その光が落ち着く頃には、陣に包まれていた呪いと闇の塊は、跡形も無くこの世から姿を消していた。
「……やはり、"あれ"か。遂に形となり、この世に自ら影を落とすとは――」
アステレ氏が顎に手を当て、何やら考え込んでいる。
「あ、あの――」
俺が恐る恐る声を掛けてみると、アステレ氏は此方へと向き直り、口を開く。
「アーダルベルトよ。良く、お前と兵士一名だけで、あれをああなるまで追い詰めた。
齢を考えれば、十分すぎる働きだ。誇るがいい。そして――」
紡がれるのは、賞賛と――
「無謀な勇気は、控えよ。私の視た所では、お前は私が来なければ、呪いのままに死ぬ運命にあった。
危険から素直に身を避ける事を、恐れてはならぬ。無様に永らえてこそ、その先に救えるものも有るのだ」
静かな静かな、諭す言葉。声音からは判じ難いが、その内容は紛れも無く、若人を導かんとする慈愛に満ちていた。
「……はい。留意し、必ずや訓とします。有難うございました」
「ああ。お前が死んでは、ディディエ様も悲しむ。
お前とて、本意ではあるまい……さあ、戻るぞ」
「はい……あの、アステレ様。先ほどの輝きは一体、何なのですか?
騎士は通常、魔術を用いる事は無いと聞いているのですが」
「――良いか、少年よ。あれは魔術では無い、神秘だ。間違えてはならぬ」
間髪を入れず、力強く、人差し指を立てた手を教鞭の如く用い、一言ずつ強調しながらアステレ氏はそう言った。
一言一言、言うたびに少しづつ距離を詰めながら、とても、とても、はっきりと。
今までのどの発言よりも、声音から感情が伝わってくる。こう、己の誇りに係わる誤りを訂正するというか、そんな感じで。圧がもの凄い。
「え、え、あ、はい。肝に銘じておきます」
無論、大人しくそれを受け容れる他はない。
別に元より、アステレ氏の拘りと誇りに対して思う所がある訳でも無し、それは別に構わないのだ。
それは、それとして。
「あの……ならば、神秘とは? 古い伝承に残るような、神々の力の如きものなのですか?」
「概ね、そのようなものではある。
余り単純化しては本質を見落としてしまうが故、この場で詳らかに語ることは出来ぬが、我がベルジュ家は古き神の薫陶を受け、星々の運行に神秘を見出した一族なのだ」
古神の薫陶、星々の神秘。
魔術然り、イェニさんが扱うような奇妙に光る薬草や、謎多きダフネさんなんかもそうだが、村に居た頃には、例え聞かされたとて信用しなかったであろう驚くべきものを見るにつけ、感慨に浸らずにはいられない。
「世界とは、本当に広く、思いもしないようなものばかりですね。
そのように不可思議で奥深きものが存在しているとは、数年前までは想像さえしませんでした」
アステレ氏は俺の言葉に対し言葉を返すでもなく静かに頷くと、天上に瞬く無数の星々を眺め、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「今よりも、もっと古い時代。それこそ、光暦よりも遡るような時代では、誰もがそれを視て、思うままに振るうことさえあった。
多くの人々は既に忘れてしまったようだが、忘却と秘匿のヴェールの向こう側にそれは未だ健在であり――」
淀みなく滔々と語るアステレ氏が不意に言葉を区切り、一度だけ、指を弾く。
小気味の良い音と共に光が生じて儚げに瞬き、それは少しの後に、仄かな実体を得て薄く伸び、やがて一枚の符となった。
アステレ氏は中空に静かに佇むそれを手に取ると、徐に此方へと差し出し、こう言った。
「――神秘の子ら、巡る星々は古き時代から遠く離れた私たちを、未だに見守っている。
取っておけ。これからの時代は、それが必要となるかもしれぬ。護りは、幾らあっても良いものだ」
「護り……」
「然り。お前も見たであろうが、先のあれらは、得体の知れぬ穢れに満ちている。
あれが何であるのかは分からぬが、それを持っていれば、幾分は助けとなってくれるだろう」
先ほどまで命を懸けて殺し合っていた獣の禍々しい風貌を思い返し、思わず軽く身震いする。
「……有難うございます」
何とか気を取り直し、アステレ氏が差し出す符へと手を伸ばし、礼を述べながらそれを受け取る。
全く奇妙な事に、手にした途端に符は弾け、光の粒となって俺の首飾りへと吸い込まれるように消えていった。
想像していなかった展開に困惑しながらアステレ氏へと目を向ける。
「――ふむ? お前、その首飾り……」
兜越しに片手でおとがいを軽く抑えながら、アステレ氏は何やら考え込む。
「これ、ですか? これは幼い頃に母がくれたもので、何でも、ご先祖様伝来の品だと聞いています」
「……確かに、随分と古いものであるようだな。
この時代に於いては既に明らかならざる神秘と、これ程までの親和性を持つ物が現存しているとは、驚きだ。
アーダルベルト。確か、お前の故郷は、タレルと言ったか」
「はい。ここより北西、向こうに見える……黒森の奥の奥に、在りました」
「ああ。私も聞き及んでいる。
――ひとつだけ、話がある。明日……いや、明後日でよい。正午を過ぎる頃に我が屋敷を訪ねるが良い。
今日明日は、自宅に戻ってゆるりと休め。話は私が通しておく。旅と、戦いと。疲れも相応に有ろう」
話、とは。一体何を語らんとしているのかは、正直気になって仕方が無いが。
俺は今、それ以上に、もの凄い疲労と眠気に襲われつつある。緊張の糸が途切れたが故だろうか? ただ立っていることさえ、少し辛い。
「お気遣い、有難うございます。
率直に言えば、そろそろ限界が近いということを悟っていました」
「ふ、あれほどの呪いを受けながら戦い抜いたのだ、尋常ならざる消耗も必定よ。
――さあ、行くぞ。……独りで歩けるか?」
「はい。なんとか持ちそうです」
疲れにすっかり押し黙り、静かに歩くうちに、この旅路の中で垣間見た、不思議なものたちが思考の裡をあれこれと過っていく。
異常な男と幽鬼たち、サイエラさんの不可思議な占い、先ほどの妖獣に、白光と共にそれを討ち払った、流星の如き騎士。
ああ、本当に……この世には、俺の知らないものだらけだ。
……そうだ。ハイロキアへの道中で出くわした、乾いた男といえば。彼の放った紫の焔や、彼が所持していた日記に記されていた、混沌のエグゾースという馴染みのない響きの言葉。
折角だ、屋敷を訪ねた折に、色々訊いてみても良いかもしれない。アステレ氏ならば、俺の知らない不思議な事も、きっと数多く知っているだろう。
そんなことを考えながら、身体の重さを出来るだけ思考の隅へと追いやって、
どうにかこうにか、ノアイユ邸へと戻っていくのであった。
*
「お久しぶりです若様、無事にお戻りになられて、何よりです。
まあまあ、そんなに血と埃で汚れて……直ぐに綺麗にいたしましょう、湯の支度はしてありますから――」
「ああ、ダフネ。久しぶりに敢えて嬉しいよ」
屋敷に着くなり、ノックも待たずに扉が開き、ダフネさんが俺を迎え入れてくれた。
湯まで整えてあるとは。何もかもを事前に計ったかのように済ませておくおくその異常な手際の良さも相変らずだ、なんだかほっとする。
「長旅でお疲れになったでしょう、ゆるりとお寛ぎくださいね。
どうぞ、何でもお申し付けください。言ってくだされば、お背中だってお流ししますよ」
う、うん、気持ちは嬉しいけど、流石に恥ずかしいからいいよ。
「ああいや、それは大丈夫。
……うん、少し、ゆっくりさせてもらうよ」
ああ、はやく、眠りたい。だが、汚れた身で布団に潜り込む不快感を味わいたくはない。
……湯浴み中に眠ってしまわないよう、十分に気を付けよう。
征剣騎士アーダルベルト。妖しき獣と死闘を演じ、先達の力も借り退けた末、自宅に戻り湯に浸かったまま眠りに落ち、そのまま事故死。などと報じられては堪ったものではない。
改めて、ノアイユの家名を守らんと確と気を張り……一瞬の後に己の滑稽さと言うか、今の有様に可笑しみを覚えて思わず吹き出し、良くもまあこんなことに意気込めるものだと呆れ、笑いながら浴室へと歩いていくのであった――
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