第十話 獣
そうしてまた、日が暮れて、夜が明ける。
昨日、街中を歩き続けて心地よい疲れを得たためか、日の出の頃までぐっすりと眠ることが出来た。
今日、イェニさんとヒューゴー商人の取引を完全に終え、ハイロキアを発つ。
再び街道を往き、ラクァルまで完璧に彼女と積荷を護らねばならない。
往路にあっては、謎の人物と幽鬼にこそ遭遇したものの、件の妖獣は現れなかったが、帰路にあっても、そうとは限らない。
不安はある。兵士たちでは対応が難しいと言われるほどの怪物を相手取り、皆を守り切れるだろうか?
……考えても詮無きことが思考の内を行き交う。
どうにか益体も無いその弱気を頭を振って追い出して、階下へと起き出すのであった。
「あらまあ、騎士様! お早いお目覚めで! ……これ昨日も言ったかしらねえ。
ともかく、お早うございます、朝食はすぐにお持ちしますか?」
朝の支度をしている女将さんが、自らの発言に少しだけ首を傾げながら俺を出迎えた。
……朝食か。昨夜もしっかりと食事はしたはずなのに、有り難いことにもうそこそこに腹が減っている。我ながら、実に健康なものだと誇らしささえ覚えるほどだ。
「女将さん、お早う。是非、頼むよ。――ああ、それと。今日は昼前にはハイロキアを発つから……そうだな。
今日の昼の分ぐらいは、何か包んで貰ってもいいだろうか?」
俺の要求に対し、女将さんは打てば響く鐘のように、一切迷う素振りも無く朗々と語る。
「ええ、ええ、勿論でございますとも。頬張る山猫亭名物、どんな旅人にも大好評!
香辛料たっぷりの戻した干し肉とバターをよーく浸み込ませた、特製のサンドイッチがありますからね。
作りたてより、時間を置いてパンと脂を馴染ませた方が美味しいから、旅のお供にはぴったりなんですよ」
……うん、帰りの旅も良いものになりそうだ。
*
「うん、積み込み終わったよ。もう、いつでも大丈夫」
ぐっと親指を上げながら、馬車の方からイェニさんが現れる。
ヒューゴー商人との取引も円満に終え、荷の積み込みも完了し、ハイロキアで為すべき全てが無事に終わった。
もう、あとは無事にラクァルまで帰るだけだ。長いようであっという間に過ぎていった行きの旅路を思い返す。
来た時と確かに同じはずの路は、果たして帰りのそれとなると、どのように我が目に写るものだろうか?
「あら、イェニ、騎士様も、マーシュさんもボドさんも。本当にもう行っちゃうんだね、うちも寂しくなるよ。
どうでしたか、ハイロキアは。楽しかったでしょう?」
馬車と共に、ハイロキアから発たんと進むうち、頬張る山猫亭の前を通りがかると、女将さんが店先を掃いて片付けている所に出くわした。女将さんは、満面の笑顔で俺たちに問いかける。
「女将さん。今回の滞在は、とても楽しい時を過ごせたよ。
機会があれば、また、何度だって来たいと思うほどに」
「ええ、ええ。実に良いものでした。あの酔漢たちと酌み交わした酒の味は、生涯忘れはしないでしょう」
「ボド、お前、ここに来てから酒の話しかしてないぞ?
もうちょっと、こう……ああー、まあいいか。女将さん、俺も楽しかったです、はい。
市場では、久しぶりに故郷の食べ物なんてものも買えたし、来られて良かったですよ!」
「うんうん、皆楽しそうで何より何より。じゃあ、女将さん、またね。
多分次に来るとしても大分先の話だけど、もし来るなら必ずここに泊まりに来るから、その時はよろしくね。
……さよなら!」
女将さんは俺たちの言葉を聞いて、箒片手に腕を組みながら、満足げに頷く。
そして、大輪の花の如くにっかと笑うと、また来てね! とだけ言い、大きく手を振り、別れを告げるのであった。
俺たちもまた、手を振り返し、先へ進む。なんだか名残惜しくなりそうだから、それきり振り向きはしなかった。
*
旅が、続く。
からからと小気味良い音を立てて車輪は回り、馬の調子も上々だ。
行きの旅路にに比すると、皆の口数は少なく、ハイロキアでの楽しみの余韻に浸っているのか、或いは、行きで出くわした謎の怪人物や、恐ろしい噂の絶えぬ妖獣のような、得体の知れぬ危険に緊張しているのかは、判然としない。
だが、そうなってしまうのも無理のない事だと、今の俺には思える。きっと、この二日ほどハイロキアの喧騒に浸っていたが故なのだろう。
この、往来無き街道の異常な静けさは、何か不吉な予感を心に過らせるに十分な不気味さを醸し出している。
……何だ、あまり緊張しすぎるのも好ましくはないよな。折角だし、何か話題でも作るか。
「――そういえば、久しぶりに故郷の食べ物が買えた、なんて言っていたが……マーシュは、ラクァルの出じゃないのか?」
「いやあ、それが色々ありまして。法的には、正真正銘のラクァル人ではあるんですけどね。
親父が西の方の戦に行ったとき、現地の女性――まあ俺の母なんですけど、一目惚れしたとかなんとかで、何だ、大恋愛の末に結婚しまして。そっちの方で生まれたんですよ。小さい頃……親父が母さんをラクァルへと迎えるまでは、ガルラームの方で過ごしてたんです」
「そうだったのか。幼時に国を跨いで引っ越すというのも、大変だっただろうな」
「そうそう、そうなんですよ! 文化は全然違うし、言葉だって何だか違うみたいだし、それまで仲の良かった友達も一人も居ないし。
最初の頃なんかは表に出るのが怖くって、ずっと家で一人で遊んでいたもんですよ」
へえ。これだけ人に物怖じせず、積極的に交流する方であるマーシュにも、そんな時期があったとは。
……いや、そういった時期や試練を経たからこそ、今の彼が在るという事なのだろうか?
「成る程な。……ちなみにボドはどうなんだ?」
「私は親から、先祖代々鉄都の住民だったと聞かされています」
俺の問いに対するボドの簡潔な答えに便乗し、イェニさんが手を上げながら口を開く。
「あ、私もそうだよ。アーダルベルト君の方は、確か――」
ん……俺の話か。イェニさんはともかく、マーシュやボドには大した話はしていないな、そういえば。
「ああ、タレルという村で生まれたんだ。ラクァルから北西……黒森の奥の方に在ったんだが、知っているか?」
「え!? あの森の奥、人が住んでるんですか!? 初めて聞きましたよ、俺」
「ハハハ、知らないよな、やっぱり。ディディエだって知らなかったんだ、無理も無いさ」
「ですが、あの。あまり聞かぬ方が良いのかもしれませんが、その。"在った"と表現するというのは、もしや……?」
「ああ。大体想像がつくだろうが、今はもう無くなってしまったんだ。
……尤も、その無くなり方については想像も付かないだろうが」
「ま、まさか、昨今現れる怪物たちに……?」
「ああ、違う違う。確かに良く分からない怪獣はずっと森に棲んでいたけど、そうじゃないんだ」
笑いながらそう言うと、マーシュ達は、え、居るには居たんですか……? などと困惑の顔を見せている。……そりゃそうだ。
「うん。なんだ、その。俺が森に入って狩りをして、戻ってきたらすっかり無くなっていたんだ。
綺麗さっぱり、地ならししたみたいに、真っ平らな地面だけが遺されて。あとは何にも」
「そ、そんなこと、有り得るのですか……?」
「有ったんだから、どうしようもないんだ。それっきり、俺はタレル村の情報を求めているんだが、からっきしでな。
……一応聞くけど、何か知らないか?」
「分かりません!」
「私も、そもそも村の名すらも初めて聞きました」
「うん、だよなあ。済まない」
――そんな話をしながら、街道を進む。
幸いにも、大した脅威も姿を見せることは無く、平穏に旅は進んでゆく。このまま、何事も無くラクァルに到着出来れば幸いだが、さて……。
*
「それでねえ、アーダルベルト君、そこからがもう、滅茶苦茶なんだよ。だって、九歳だよ?
私が店を開けた時よりずっと小さい齢で、二年も森で独りで生きて来たなんてもう、良く分からないよ」
「なんと。ディディエ様に素養を見出されるのも納得の逞しさですね――」
二日、三日と過ぎ、尚も異常は特段現れず、旅路は全くの平静を保ち、イェニさんとマーシュは何やら俺の話で盛り上がっている。
……気恥ずかしいというか、少々思う所は無くも無いが、皆で押し黙っているよりはまあ、ましだろう。
――――全く安穏たる静かな街道はしかし、完全な静謐を湛えているからこそ、異常なのだ。
往来する者はやはり居らず、消えかけ微かに姿を残すだけの轍さえも、車輪の幅等を見るに、俺たちが行きの道で付けたものだろう。
「……誰も、通ってはいないようだな」
「その様ですね。――しかし、油断をする、という訳では無いのですが、断じて。
件の獣というのは、本当に居るのでしょうか? 今の所は、影も形も無いと形容するべき状況ですが……」
「そうだな……道を見ても、道外れの雑木林を見ても、痕跡の一つもない。
その様なものが跋扈しているのであれば、足跡や、木の皮に擦れた痕ぐらいは有りそうなものだが……」
遥かに続く道をよくよく眺める。
……やはり、何も無い。幾ら目を凝らしたところで、視界に飛び込んでくるのはただ、人っ子一人居ない道が続いている景色だけだった。
*
夕過ぎた薄明の街道を、馬車が往く。
ハイロキアを発って、五日程が過ぎた。行きでは何も無かったが、帰りには、有るのではないか? その様に考えることに、何の不自然も無いだろう。だが、俺達の……いや、そう考えているのは俺だけかもしれないが。……俺の思考とは裏腹に、結局何事も起きぬままに、ラクァルの城門が見えてくるようなところにまで、辿り着いていた。
もう、今暫くすれば、世界を仄照らす残照も完全に去り行き、夜の帳がすっかり世界を覆ってしまうだろう。そうなる前にラクァルへの帰還が叶いそうで、俺は少し安堵していた。
結局、謎の怪人物や妖獣の一つも姿を見せぬままで、静けさとは嵐の前兆ではなく、ただの静けさに過ぎなかったのだろう。
不安に思う心が、何も無い影に怪物を見出すということなのだろうか?
「いやあ、アーダルベルト様。この分なら、無事に旅を終えられそうですねえ」
その通りだ。全くその通りだが、今まで色々と読み耽っていた物語の中では、そういう事を言った途端に何か現れるのが常だ。あまり不穏当な発言はしないで欲しいものだが。
「そうだな。俺もそうなることを願っているよ」
「あはは、詩人の歌なんかだったら、そういう事を言った瞬間何か出たりするけど、
見た感じ何も居ないし、大丈夫そうだね。何かが潜めそうな森なんかも無いし……ない、し……」
俺とマーシュが交わした言葉に、イェニさんは笑いながら横からそう言って、急に押し黙ってしまった。
ああ、そうだ。イェニさんの言う通りだ。
見渡す限り、怪しい影のようなものは一切見えていなかったし、何か……賊の郎党や群れる野獣の類が身を潜めることの出来る程に大きい木陰や穴蔵は、都の近くにある訳も無い。
ここから先、ラクァルへと戻るまでに、何かが起きるはずが、無かったのだ。
だからそれが際立った異常であることは、疑いようも無く。
瞬きを待つことさえ無く、俺たちが視界に捉えている内……即ち、在ろうことかラクァルの方面から、予兆も無く姿を現した、それは。
何処より現れたともなく、まるで初めからずっとそこに佇んでいたかのように、堂々と立ち尽くす、それは。
……正しく、伝え聞く妖獣、ぐちゃぐちゃに生命を繋ぎ合わせたかのような、大いなる異形の怪物。
捻じくれた角が生えた、長い毛にすっかり覆われた顔の奥から、ぎょろりと真っ赤な目がひとつだけ覗いている。
巨体は四足で馬に似ているが、前足の付け根辺りから不釣り合いに大きい、禍々しい爪持つ人の腕がさらに二本ほど生えており、身体よりも大きな尾は、花嫁が纏うヴェールのように、大きく拡がり地を擦る。
圧倒的な、気配がした。
行きで出会った男や幽鬼など、比べるのも馬鹿らしい。
これまで森で出会ったどのような獣たちも、唯ひとつ、ディディエに討たれた不明なるかの巨獣を除いては、この気配を発してはいなかった。
即ち、あれこそは命を拉き、生を嘲る冒涜者。冷徹なる終焉を齎す酷薄の狩人。
その妖獣は、死を体現しているかのように、恐怖を形としたかのように、ただ其処で、世界を踏みにじっていた。
一目見て、理解する。
あの妖獣は、この世界にあってはならない存在なのだと。
背筋を、氷のように冷たい汗が伝ってゆく。何かを言おうにも、言葉が上手く出てこない。体が、否応なしに強張っている。
……そして"それ"が此方を見据え、イェニさんがびくりと身を震わせるのを視界の端に捉えた瞬間、身体が自然と動き、俺は声を発していた。
「馬車に!」
全てを庇う様に前に出て、いつの間にか引き抜いていた剣を構える。
妖獣が此方へと一歩一歩、悠然と歩み始めた。
……まだ、距離は有る。どうする……!?
「アーダルベルト様、如何なさいますか!?」
ボドが槍を構え、俺に並んでいた。
恐れに若干顔を強張らせながらも、怯むことなくあの化け物と対峙する気概を顕わにしている。
中々良い根性だ。俺も、臆してはいられない!
「マーシュ! 俺たちがあれを引きつける! お前は機を見てイェニと共にラクァルまで急ぎ戻り、騎士団に伝えろ!」
「はっ! お任せください!」
妖獣が一歩大地を踏みにじるごとに、苦痛に戦慄くかのように、大地は微かに打ち震えた。
ずしん、と威圧的な音が響く度、不思議な事に、湧き起こるべき怖れは姿を隠し始め、入れ替わるように血が沸き立ってゆくのを感じる。
「ボド! 危険だと思ったら直ぐに離れるんだ! 絶対に無茶をするな……生き残れ!」
「はい! アーダルベルト様も、どうかご無事に済みますように。我らが血神、ザリエラ様の加護の有らんことを!」
ボドの言葉に頷いて、俺もまた、あの時の誓いのように再び剣を天へと掲げ、決意で天地を貫くかの如く、吼える!
「偉大なる我らが戦神、ザリエラよ! どうか、ご覧あれ!
征剣騎士アーダルベルト、剣を以て道を拓き、必ずや人々の命の輝きを護り抜かん!
――征くぞ!」
*
疾駆する。とにかく、初めに為すべきことは、マーシュ達を無事に逃すことだ。
まずは、奴の目を引かなくては始まらない。だから俺は真っ直ぐと奴に向けて吶喊することを選んだ。
ああいう、恐らく肉食の……狩りをする獣の類は、動くものを優先して捉える筈だ。こうして引きつけ、どうにか向きを変えさせて、街道から目を外させる。
それにしても、何なんだ、こいつは! かつてディディエが討ち斃したあの巨獣に負けず劣らずの巨体が、前触れも無く、瞬き一つ挟む事も無く、気が付いたらそこに立っていました、だと!? 全く、いかさまにも程がある!
「――いいか、正面から当たることは避けるんだ。あの巨体、重量も相当だろう。
向かって来たら、決して受けようなどとは思うな。撥ね飛ばされるのは明らかだ!」
接敵を前にして、ボドに所見を共有すると、ボドは言葉も無く頷いた。
獣は目前、ここから先は紛れも無い死地となるだろうというのに、俺は口角が上がっていくのを感じていた。
……ああ、死の恐怖を前にして精神が高揚するというのは、如何なる道理に基づく作用なのだろうか?
吼える。一体どちらが獣なのだか、分からないような雄叫びと共に、剣を振るう。悍ましき獣の、毛むくじゃらの腕を刃が深く切り裂いて、どす黒い血が零れ落ちる。
事ここに到り、この恐慌の獣は初めて、俺を見た。
蕩ける溶岩とも煮えたぎる血ともつかない眼に射貫かれると共に、棄て置かれた骸の如き腐臭が俺を包み込む。
頭が締め付けられ、ぐらりと、視界が揺らぐ。吐き気にも似たむかつきが俺を支配せんと襲い掛かるが、舌打ちと共に、気魄を以てそれを何とか払い除ける。
「邪視の類か! 何から何まで禍々しいと言う他ないな!」
古く、時として眼差しには呪いが宿るものだと、人は言う。
まさに、これこそがそうなのだろう。一目射貫くだけで他者を害さんとする、死の魔眼。単なる民間伝承の類でしかないだろうとずっと考えていたが、どうやら考えを改める必要が有りそうだ。
……ハイロキアの市で邪視除けのお守りでも買っておけばよかったな。
恐慌の獣が、怒りか、嘆きか、或いは喜悦か。
判然とつかない感情と共に、その上体をぶんぶんと振り回しながら、雄叫び、声を張り上げる。
呪わしき腕が大地をがむしゃらに叩き付けるたびに大きく大きく地が揺れて、鼓膜が大音声に悲鳴を上げる。思わず膝を突きそうになるが、寸での所でなんとか堪え、ボドへと呼びかける。
「こちらを見たぞ! このまま街道から引き剥がす!」
「はい!」
獣は一頻り叫び終えると、遮二無二、異形の腕を伸ばしながら俺へと突っ込んでくる!
「よし、いいぞ……! こっちに来い、こっちに!」
その突進を跳ね飛び躱し、すれ違いざまに拡がる尾の一端を切り落とした。
すると、獣は不可解にも笑い声を上げ、俺を指差す。途端に見えざる環に頭が締め付けらるかのように痛みが走り、ぐらりと、再び視界が揺らぐ。
「ええい、邪視に指差しに、全身が呪いで出来ているのか、こいつは!」
「ア、アーダルベルト様、足元! お気を付けください、尻尾が――」
言葉を受け、視線を下に遣る。
……うねうねと、斬り落とした尾の一端が蠢いて、俺へとにじり寄って来ていた。眩暈による見間違いでは、無いらしい。
「うわっ……」
思わず剣で切り払うが、不気味に蠢く尾は意に介さず、やおら蛇の如く身を起こすと、全身を縮めた後に、思い切り飛び掛かって来る。
口も無く、牙も無く。ただ、矢じりの如き先端を突き立てんとして、二本、三本と次々に襲い来るそれを俺は剣を盾として受け止めると、弾かれた尾は地に落ちてまた這いずりだす。放っておけば、延々と方々から襲ってくるだろう。
「……尾を切り落としたのは失敗だったな」
獣が、嘲るように笑っていた理由が嫌でも分かる。
あいつは、俺が力を振るって優位に立った気なりつつ、その実自らを追い詰めている様を、嗤っていたのだろう。
……その様に悪意に満ちた知性を持つ獣が、果たしてこの世に居ようなどとは……いや。或いは、この世のものでは無い、という事なのか?
余りに不可解な事が多すぎて、そう考えた方が辻褄が合う気さえするが――ああいや、こんなことを考えている暇はない!
獣は切り落とされた幾本もの尾を従え、呪わしい大爪を力任せに振り回しながら、俺達へと真っ直ぐに向かって来る。
その全てを躱し、弾き、その度に反撃して剣の痕をその巨体に刻み付けるが、この妖獣は一切意に介さず、耳障りに笑いながら爪を振るって奔放に暴れ狂い、大地は容易く裂き抉られ、凄惨な爪痕が残される。
不意に獣が乱雑に頭を振り回し、周囲を薙ぐ。ボドは咄嗟に槍を盾として受け止めようとして、その余りの膂力に打ち負け後方へと撥ね飛ばされ、まばらに草生す地面を擦りながら激しく滑り、石塊と鎧が擦れる耳障りな音と共に火花が弾けた。
「ボド!」
「だ、大丈夫、です。大事ありません!」
兜ごしに頭を押さえながらよろよろとボドが起き上がる。
打ち所が悪ければ起きることも出来ないのではないか、という想定していた最悪の事態に到らぬ現状にひとまず安堵し、ボドと獣の間に割り込むように立ち、剣を構える。必然、獣と睨み合い、邪視によるあの悍ましき腐臭が再び漂う。
段々と胃が気持ち悪くなってきた、何だか腹が立ってくる。
……遠目に、マーシュが全力で馬車を駆っている姿が見えた。一先ずは、馬車をラクァルまで送り届けるという任は達成できそうだ。しかし――――
「さて、ここからどうしたものかな」
「アーダルベルト様は、我々だけで勝てると思いますか?」
どうにかこうにか、嵐の如き圧倒的な暴威を受け流しながら口を開くと、もう体勢を整えたボドが槍を振るい、俺の横手から飛びつかんとして蠢く尾を的確に叩き潰しながら問うてくる。
「分からない。攻撃が通用している気がしないというのが、正直なところだ。
せめて、急所が分かればいいんだが……」
「ううむ、分かりませんね。やはり、通常の獣ならば、頭部や心臓、なのでしょうが……ハッ!」
ボドが身を屈めて、妖獣が頭を振り回して角で薙ごうとするのを避け、尾をもう一匹叩き潰しながら答えた。
「うーん、そうだな。頭を狙おうにも腕が邪魔だし、そもそもの位置が高すぎてまともに得物が届かないからな……。
ああくそ、弓矢を持ってくればよかった。戦いの手段なんて多ければ多いほどいいのに、何で置いて来たんだろう……」
迫りくる妖獣の爪を幾度も避け、弾き、なんとかやり過ごしながら俺はそう言った。これ程までに切羽詰まった状況で無ければ、己の不備を嘆き、頭を抱えて天を仰いでいただろう。
……頭か……うん、そうだな。試してみる価値はあるだろう。
「……ボド、一つ頼まれてくれないか――」
思い浮かんだことを提案すると、ボドは少々難しい顔をしながら、頷いた。
「――ならば、その様に。くれぐれも、お気を付けください」
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