第六話 旅路
晴れている。
雲一つない青空からは陽光が何に遮られる事も無く降り注ぎ、俺の兜をじりじりと照り付けていた。ちょっと熱を持ち始めている気がする。フードでも被っておこうかな……。
俺は二名のラクァル兵……小柄で気の良いマーシュ、寡黙で強面のボドの両名と、騎士団の備品である馬車と共にイェニさんの店の前まで、やって来ていた。
彼らと顔を合わせるのは今日が初めてだが、上手くやっていけるだろうか?
どうせ全部、なるようになるのだ。あまり緊張していても仕方ないが、やはり妙に神経が昂っている気がする。静めねば。
……もう一度確認しておこう。
護衛対象は民間人一名、馬一頭、馬車一台。割かれた人員は兵士二名、騎士一名。
目的地は、鉄都より西方に在するラクァル領内、フォストリクやガルラームも近く、国際的な商業も盛んな交易都市ハイロキア。
旅程としては片道およそ四から六日ほどとなり、これは徒歩での移動時間となる。
馬車は飽くまで積荷の運搬用の物であり、人が乗ることは想定されていない。
例外的に、有事に際して人を詰め込み逃げることは有るかもしれないが。
想定される危険は、二つほど。
ひとつ、昨今ラクァルを悩ませている謎の獣。……複数の生物の特徴をぐちゃぐちゃに混ぜ込んだような奇怪なる、恐らくタレルの森に居たようなものたち。
ふたつ、賊の類。鉄都ラクァルとハイロキアを繋ぐ交易路はよく整備されており、本来なら行き交う人も多く凶賊など決して多くないのだが、件の獣たちによる被害の影響か人は随分と減り、様子のおかしい食い詰め者がちょくちょく見られるようになっているとのことだ。
そういった賊の類とて、もとは家庭を持った人間だったのかもしれないと思うと、遣る瀬無い気持ちになった。
……ああ、これからの仕事には必要ない気持ちだな。うん。
俺は、守る。何かを殺して、何かを生かす。
命を奪うのが獣であろうと、人であろうと、その本質は変わらないのだ。
今さら、相手が人だからと言って殺すことを恐れるなど、これまで奪ってきた命を軽んずる冒涜に過ぎない。
……神様、同胞をも手に掛けんとすることに赦しを求める、その傲慢についてさえ赦しを求めてもよいのでしょうか?
そんなことをぐるぐる考えていると、馬車の状態の最終確認を行っていたボドが点検を終え、こちらへとやって来た。
「アーダルベルト様、準備が終わりました」
「ああ、ご苦労。では、カーレン氏の用意が整い次第、出立するぞ」
……ううむ。まだちょっと慣れないな、こういう喋り方は。年齢としても彼らの方がずっと上だし、身分的には俺の方が上とは言え、少々滑稽に見えるのではないだろうか?
立場上、下の者に接する時はもっとお堅い喋り方をしなさいと隊長に言われたからこうしているが、まだ暫く慣れそうにない。
「あー、アーダルベルト君、私のことそんな他人行儀な呼び方するんだ?」
……俺が言うのとほぼ同時に店の中から現れたイェニさんが、笑いながらそう言った。
小声で、兵士二人に出来る限り聞こえないようにしながら弁明をする。
「イェニさん勘弁してください、こうしてないと怒られるかもしれないんですよ……!」
「あはは、ごめんごめん。今日はよろしくね。そっちの二人も、よろしくお願いしますね」
イェニさんがそうやってマーシュ、ボドの両名へと笑いかけると、彼らはぴしっと綺麗に姿勢を改めて、腕を胸に当てながら返事をする。思えばミシェルおじさんも偶にそうやっていたなあ。
「はっ、お任せください」
「安心してくださっても構いませんよ、、なんてったって今日は騎士様が居てくださるんですから。
きっと私たちがすっかり寝ていたって、貴方の安全は完璧に保障されるに違い有りません!」
マーシュは調子よくそう笑い、手際よく馭者台へと上がる。
……彼が馭者を務めるとなると、有事に際して咄嗟に動けるのは、俺とボドだけか。少ないようにも思えるが、そも民間人の護衛に兵士が付いているだけでも、結構に大仰なのだ。
況してや騎士など、本来であれば出向くことは有り得ない。基本的に民間の業務に騎士は関わらないのだ。
今回俺が駆り出されているのはイェニさんが、薬師という民たちの命に直接かかわり得るものを生業としていた為であり、それに付け加えて、街道の様子を実際に見てくるという任も兼ねている為だ。どちらも、とても大切な仕事だろう。
……その大切な仕事を俺のような新人に任せても良いのかは疑問だが、信用には応えねばならない。頑張るぞ。
道を往く。やがて、ラクァルの大門が見えてくる。
……思えばラクァルから外に往くのは、あの日、ここへと来てからは初めてのことだ。この門の外には、如何なる世界が待っているのか。元々はラクァルより外、森の向こうのタレル村で生活していた身ではあれど、村から出たことは無かった。ここから先にあるのはきっと、全く未知なるものばかりの筈だ。
自身が見ている世界が変化していくことに僅かな緊張と大きな期待を感じながら、門番へと声を掛ける。
「征剣騎士、アーダルベルト・ノアイユである。門を開けてくれ」
「はっ、おーい、門を開けるぞ!」
俺の言葉を受けて、如何にも生真面目そうな門番が合図を送ると、大きな音を立てて、鉄の門が開いてゆく。
ああ……俺が初めて来た時も、こんな感じだったっけなあ。考えてみれば、あれももう二年ぐらい前の話だ。
「しかしアーダルベルト様も、このようにご立派になられて……ディディエ様に連れられやって来た時のことを考えると、感慨深いです」
「ああ。そういえばあの時も貴方が門番をしていたな、モーリス。懐かしいよ」
「ええ、本当に。……ああ、門が開ききったようです。それでは、どうかお気をつけて。
貴方たちの旅に、ザリエラ様のご加護が有りますように」
「有難う、行ってくる。無事に旅が終わる時、また貴方が出迎えてくれることを祈るよ」
――――さあ、行こう。我らの旅路が、どうか素晴らしいものになりますように。
*
旅人と共に、街道を馬車が往く。
車輪はからからと軽快な音を立ててよく回り、きちんと整備された道に喜びの声を上げているかのような気がした。
風が吹き抜け草木が揺れて、それに驚いた鳥たちが慌てて飛び去り、何やら空中で戯れている。
そんな様を見ていたイェニさんが、楽しげに笑いながら口を開く。
「うーん、今日はいい天気で良かったですねえ!」
「いやあ本当にいい日和というものです。麗らかな陽気に誘われて、眠くなってしまいそうだ」
マーシュが手でひさしを作って太陽を見上げながらそう呑気に言うと、ボドが脇から口を挟む。
「マーシュ、真面目に働け。また減給してしまうぞ」
何だその不穏な話は。マーシュはそんなに不真面目なのか?
「分かってるって、心配しなくても大丈夫さ。俺に任せておけば、万事問題なし。大丈夫、大丈夫。
ね、アーダルベルト様もそう思うでしょう?」
何だその根拠のない自信は。
ね、と言われても俺は君の普段の仕事ぶりを知らないから何も分からないが……。
「そう言うのなら、働きで証明してもらうよ。
俺は君を信じている。それだけで十分だろう?」
「ははは、征剣騎士からの信を得られるとは、大変に光栄です。じゃあ、張り切って行きましょう、バテない程度に!」
*
「そういえばカーレンさん、カーレンさんはアーダルベルト様とお知り合いなんですか?」
「あ、そうなんですよー。実はアーダルベルト君……アーダルベルト様? がラクァルに来た、本当に最初の方からの付き合いなんです」
真横で交わされる会話を聞いて、当時を思い返す。
そういえば、ラクァルに来てから初めて行った店はカーレン薬店だったっけ。あれも、もう随分と前の話になる。……あの時貰った栄養剤、ディディエは結局飲み切れなかったんだよなあ。
「おお、やはり。随分と親しげな風でしたから、そうなのではないかと思っていたところです。
それと、別に普段の調子でも構いません、どうせ我々の他には誰も居ませんし、大丈夫ですよきっと」
「おいマーシュ、仕事中なんだぞ――済みません、アーダルベルト様。こいつは、日ごろからこんな調子でして……」
ボドが申し訳なさそうに言う。
普段から締まらない相棒をよく助けているのだろう、苦労が偲ばれる。
「いや、構わないさ。身分は違うとはいえ、共に旅をする仲間なんだ。あまり畏まっていてもやり辛いだろう?
他者の目があるのでも無ければ、多少は弛んでいても、そう問題は無いさ。俺はわざわざ誰かに報告したりはしないよ。
俺としても、イェニさんに"様"と付けられるのは、落ち着かないしな」
これは偽りなき本心である。
少々油断が過ぎる気もするが、まあ、イェニさんを多少特別扱いするぐらいなら、多分問題ないだろう。
他の誰が咎めようと俺は許すし、まあ多分ディディエも許してくれるはずだ、うん。
「ほら、だから言っただろ、ボド? アーダルベルト様はきっと心の広いお方だって」
「こらマーシュ、お前は……はぁ、アーダルベルト様、寛大なお心遣い、感謝します」
おどけながらも場の空気を和やかに、良い雰囲気へと持っていくマーシュと、礼を失することを恐れ、弛み過ぎないように適度に締めるボド。
なんともまあ息ぴったりなことだ。彼らが共にこの仕事を任されたのも頷ける。旅をするには、これぐらいメリハリがあった方が、退屈しないですむだろう。
「ああ、そう気にするな、咎めはしないさ。
……だが、俺以外の騎士はそうとは限らない。それは忘れないように」
俺がそれだけはきちんと伝えると、彼らは短く返事をした。今度は、二人揃って真面目に。
「おおー……本当に偉くなったんだねえ、アーダルベルト君」
脇から見ていたイェニさんが、感心したように言葉を漏らす。
「イェニさん、今折角いい感じに纏まったのに……」
「あはは、ごめんね。
――あ、そうだ。私のことは呼び捨てにしちゃおうよ。そんなに畏まってるのも変だし、多分その方がいいでしょ?」
「うん、確かに。じゃあ、これからはそうさせて貰います。ええと……イェニ」
「わ、なんだか不思議な感じ。
ふふ、来たばっかりの頃は、背も私の方が高かったのになあ、時の流れってすごいや、こんなに立派になっちゃうんだもんねえ」
「はは、二年も経っているんだから、少しは成長していないと困るでしょう?」
二年、二年か。
思えば、随分と遠くに来たような気もする。……昔を思うと、どうしても行き当たらずにはいられない。
……タレル村の一件は、未だに詳らかになっていないということに。
昨今出没している謎の獣には、あの森で主として君臨していた獣と、関連性が有るのだろうか? 今回の旅で本当に何か、ごく僅かでも構わないから、何か新たな発見があれば嬉しいが……まあ、あまり期待するものでもないな。俺のことより、まず仕事をきちんと完遂せねば。
隣を歩く、興味深げに雲の流れを眺めているイェニさんを見て、改めてそう思ったのであった。
*
一日が経ち、二日が過ぎた。人家の明かりも届かぬ町の外では星の明かりは格別に眩く映り、
そういえば森で過ごした日々に見ていた空はこんな風だったなあ、などと思いを馳せざるを得なかった。
明くる日、今日は曇ってはこそ居るものの雨が降りそうな気配も無く、俺たちは恙なく旅を進めている。
皆まだまだ余裕があり、馬車にも馬にも、一片の問題も見られない。俺や兵士の二人はともかく、イェニさんにこれほど体力があるとは、少々驚きだった。
進行の速度も十分に確保できており、この分なら後二、三日でハイロキアまで辿り着くだろう。
……しかし、本当に人通りが随分と少ない。話によれば常ならば、引っ切り無しとはいかずとも、二日も往けば必ず行商人の一人も見つかる、とのことだが、事実として俺たちは他の旅人ひとりにだって出会ってはいなかったのだ。荷車引いた商人も、放浪する根無し草も、鉄都を目指す巡礼者も、誰だって居やしない。
よく整備された綺麗な道に、麗らかな良い天気。だが人影は見当たらず、それは世界から自分たち以外に誰も居なくなってしまったようで、少し、不気味でさえあった。
風が吹き抜け草木の揺れる音と、馬車の車輪がからから回る音、俺たちの足音以外は、何も聞こえない。
「……うーん、街道独り占めって感じだね。いつもはもっと、誰かしら見えたりはするものなんだけど」
「本当に、誰も居ませんね。確かに、俺たちラクァル兵の間でも噂になってはいましたが、これほどとは。
アーダルベルト様、騎士団の方ではこの事態について、どのように認識されているのでしょうか?」
イェニさんの呟きを受け、ボドが周囲に目をやりながら、問いかけてきた。
「ああ。俺も末端だからあまり上層部の方策について詳しくは語れないんだが、軽く見ているということは無い筈だ。
ラクァルとハイロキアを繋ぐ交易路がまともに機能しなくなれば、ラクァルの住民たちにどれほど影響が出るかは、考えずとも明らかだ。
それで俺は実地の調査も兼ねて今ここに居る訳だが、まあ、恐らく初めから、方針については決まっているのだろうな。
流通を妨げる者があるならば、それを放置することは有り得ない。それは、間違いないだろう」
「ふむ……となればこの旅で、この事態を招いている要因はきちんと探るべきでしょうね。
無論、カーレン氏とその荷の護衛が最優先ではありますが」
ボドが顎に手を当て考え込みながらそう言ったとき、馭者台で悠々と馬を繰っていたマーシュが、困惑と共に声を上げた。
「……ん? なんだ、あれ? おいボド。あっち、あの木陰――」
彼が指を差した木々の狭間。
その中心に潜むように、幾つかの影があった。
その虚ろな立ち姿の影たちは、ふらりふらりと右に左に当てもなく、まともに立っていられぬかのように揺らいでいる。
よくよく見れば、それは人のような形をしていた。そしてそれらは皆、血と錆に汚れたままの、毀れた剣や農具を握りしめているようだ。
「イェニ。あれが何かは分からないけど、真っ当なものとは、思えない。万が一に備えて、馬車に隠れていて欲しい」
「……うん。気を付けてね。――よいしょ、っと」
イェニさんが馬車の内へと身を隠す。
件の群れとの距離はまだまだ開いており、彼らがこちらに気づいている様子は無い。
「マーシュ、ボド。俺が様子を確認してくる。合図を決めておくから、
何か会ったらお前たちはイェニを連れて、すぐに逃げるんだ。後から必ず合流する」
「いえ、しかしそれは……騎士に斥候を任せるなど、我々は――」
「俺はこれでも、森で獣相手に息を潜めて暮らしていた経験があってな。
隠密には慣れているんだ。それともボドやマーシュの方が慣れているのならば、この役を任せても良いが……。
何が起きているのか分からない、最善を尽くす必要がある。分かるだろう?」
「……確かにそれならば、我々が向かうより無事に済む確率は高いでしょうね。
ですが、本当によいのですか?」
「問題ない。危機に際し、矢面に立つ事を厭って、何が騎士なものか。
――うん、そうだな。とりあえず、問題が無さそうなら両手を挙げる。俺も直ぐに引き返すから、その場で待っていて構わない。
危険が有るようなら片手を挙げる。俺がそうするか、戦闘が発生した場合は、俺を置いて先にこの場を離脱してくれ。後から追い付く。
仮に逃げた先で同様の集団を見かけたら、迷わず引き返し、全力でラクァルまで向かうんだ。これでいいか?」
「……分かりました。どうか、ザリエラ様のご加護が有りますように」
「案ずるな。我らが血神は、きっと見ていて下さるさ」
*
草に身を隠しながら、音を極力立てぬように、梟の如く静かに、その集団へと歩を進める。気づかれても馬車へと注意が行かぬように、俺を見た先にそれが映らぬよう、位置取りに気を付けながら。
一歩一歩と近づくほどに、その集団の異常性が際立っていることを感じざるを得ない。彼らは確かに姿形こそ大よそ人のようだと思えるが、果たして本当に人だと断じてもよいものなのか分からぬ程に、奇異な風貌をしていた。
彼らは、立ち枯れた草の如く、うっそりと揺れている。
手にした血と錆に汚れた農具や武具は乾ききっており、それを握る手もまた、半ば干からびているように見えた。
近づいて気づいたが、彼らは掠れた呻き声のようなものを発していた。ひゅう、ひゅうという音が、荒涼とした風音のように響いている。
顔を見れば、眼は窪み頬はこけ、骨の形もはっきりと分かるほどだった。やはり、乾いているという表現が相応しいように思えるが……。
数は六。手にした物はそれぞれ違うが、どれも碌な質ではなく、戦闘をすることがあっても、大した脅威にはなり得ないと思われる。尤も、それも彼らに何か超常の力でも備わっておらぬ場合の話に過ぎず、油断をするべきではないが。
随分と近づいたが、こちらに気づく様子は無い。感覚は鈍いようだ。
そして気が付いた、揺れる彼らの他にも、誰かが居るということに。
それは、蹲っていた。だから、草に隠れてしまい、遠くからでは見えなかったのだ。
それは頭を押さえ、恐怖にでもか打ち震え、ぶつぶつと何ごとか呟き続けている。
「ああ、いやだ、乾く、乾くんだ、なにも、なにも俺を潤わせてくれないんだ。
だめだ、助けてくれ、クレア、クレア……乾いたよ。助けて、助けて――」
がらがらに掠れた声は判別し難いが、恐らくは男、年はそれほど行っていない様に思える。
「…………」
判断しかねている。彼が一体何であるのか、彼を取り囲む者たちが何であるのか。それにどう当たるべきなのかを。
「……おい」
「――――!」
意を決し話しかけた瞬間に、虚ろに揺れていた六体の人型が一斉に此方を向き、敵意と共に視線で射貫いてくる。
蹲って震えていた男は、ぴたりと震えるのを止めて、やがて一言、呟いた。
「……お前も、枯れてゆけ――――!」
そう男が吼えると同時に、六体の人型……幽鬼とでも呼称しようか、うん――幽鬼が俺を取り囲んだ。
先ほどまでの虚ろさは嘘のように失せ、今俺に対峙する彼らが抱いている戦意は、揺ぎ無いものだ。
何が何やら分からないが、とにかく言葉は通じまい。
あの時神へと捧げた、灰銀交じりの騎士剣を素早く抜き放つ。差しこむほどの陽光無くとも、刃は美しく輝いていた。
数は、前方に四体、後方に二体。
前方左の殻竿を持っている幽鬼が、大ぶりな動きで襲い掛かってくる。
苦も無くそれを躱し、切先で裂くように相手の胸元に刃を引っ掛けると、血が飛び散り幽鬼はその勢いに斃れた。まだ完全に死んではいないようだが、動けもしないらしい。止めはきちんと刺しておこう。
俺が地に臥せる者に剣を突き立てている、その隙を突かんとしたのか後方の一体が折れた剣を振りかぶって迫るが、先んじて振り向きざまに斬り上げ腕ごとそれを撥ね飛ばし切り捨て、勢いのままに後方に居た別のもう一体を剣で貫き、地に縫い止めた。 剣を勢いよく引き抜くと、乾いたその身のどこにこれほど溜まっていたのかという程に、血が勢いよく吹き出す。
残りは幽鬼が三体、蹲る男がひとり。
勢いを殺すことなく、左方に孤立した幽鬼に飛び掛かり、首筋に刃を突き立て、ぐるりと回すようにして命を絶つ。
崩れ落ちる幽鬼を蹴り飛ばし、右方に居た幽鬼の内ひとりを巻き込んで地面に転がして、孤立し立ち尽くす幽鬼の心臓を穿って殺し、骸の下で蠢く幽鬼の首を刎ねて仕留めた。注意深く六体の幽鬼がきちんと死んでいるのかを確認したのち、蹲る男へと歩を進める。
「……お前は、ここで何をしている?」
「乾く、乾く、乾く――お前は、なぜ、生きている?」
「もう一度問う。お前は、ここで何をしている?」
「死ね。死ね。死ね――」
朦朦と呟き続ける男が、徐に立ち上がる。手には、古びた本が握られていた。
男の眼は虚ろに窪み、何処を見ているのかさえはっきりとしない有様で、果たしてこの男は本当に、この世界の上に立っているのだろうか? などという益体も無い考えが脳裏を過った。
「こいつらは、何だ?」
「俺のともだち、俺のかぞく、お前は敵だ、お前は敵だ、ヒ、ヒヒヒ――殺してやるぞ、殺してやる!
――――見ろ!! 炎、炎が見えるだろう、お前にも! ヒヒ、ヒ――――」
男が叫ぶのと同時に、奇妙に暗い紫色をした炎が現れ、凄まじい速度で、唸りを上げて俺に飛来する。
急な事に避けきれず、咄嗟に腕で急所を庇おうとしたが、予想したような熱も衝撃も、俺が感じることは無かった。
紫紺の炎弾は俺に到るその直前で、血の色をした薄い壁のようなものに阻まれていたからだ。
赤い壁に着弾したそれは轟音と共に炸裂し、飛び散った先の草むらを無残に焼き蕩かし、やがて弱々しく消えていった。
「……え? え?」
「お、お前、おまえ! 何をした――」
前触れも無く、空間に歪みが生じる。水面に投じられた石が起こす波紋のような、その揺らぎはどんどんと強くなり、やがてそこには、ちいさな穴が空いた。紫紺色をしたその穴は、激しく回転しながら、徐々に拡がってゆく。
そして、男はゆっくりとそこへと吸い込まれ始めた。思わず距離を取る。それに近づこうとも思えなかった。
「あ、あああ! 嫌だ、嫌だ! やめてくれ、頼む! こんなことしたくなかったのに! こんなはずじゃなかったんだ、こんなはずじゃ……!
俺が悪かった、俺が悪かったんだ! 俺はただ、君に会いたかっただけだったのに……。
――――ああ。そうか、これでいいんだ――――ごめんなさい」
狂乱のままに叫ぶ男は、後悔と慙愧に満ちた泣き声を上げて、やがて何かを悟った様に穏やかになり、どこへと向けたものなのか、ただ一言だけ謝ると、穴の向こう側へと呑まれていなくなった。
それと同時に、紫紺の大穴は姿を消した。まるで初めから、そんなものなど存在しなかったように。
「……ええい、結局何がどうなってるんだ!」
気が付けば、一冊の古びた本だけ残して、全てが消え去っていた。
転がる幽鬼の屍も、蹲る男も、飛び散り、俺の剣や鎧に着いた血汚れも、全てが嘘だったかのように。
落ちている本は、何らかの書籍では無く、個人的な日記の類のようだった。
先の男が記したものなのだろうか、内容は取り止めの無いことばかりだが、男が家族を失った後のある時期を境に、狂ったように一つの言葉が書き殴られていた。
「……混沌の、エグゾース?」
響きからすると、何かしらの神のようにも思えるが、どうにも聞いたことが無い。まあ、俺の見識など高が知れているだろうが、少なくとも今まで読んだどの神学の書にも、載っていなかったと思う。
……あ、いや、確か……光輪の神ナハーラームが降臨するより、さらに古く遡った時代。世界の原初、全てを作った創造主……即ち"真なる神"の時代に、混沌の者が居たという話は、聞いたことがある。
だが、その混沌の者の名は、今では伝わっていない筈だ……。
「とにかく、これは回収しておこう。何か分ればいいんだけどな」
古びた日記を仕舞い込み、マーシュ達との合流を急ぐのであった。
*
街道に戻り少し進んだところで、馬車が見えてきた。
周囲を警戒しながら、慎重に進んでいたのだろう、思ったよりは近い所に居た。
「やあ、無事だったか」
俺がそうして声を掛けると、やっと緊張から放たれたボドが、ほっとした面持ちで言葉を返してきた。
「アーダルベルト様! それはこちらが言うべき言葉でしょう、お怪我はございませんか? あの轟音は何だったのですか?」
「ああ。問題ない、傷一つ受けなかった。
それで……うん。あの虚ろな幽鬼の他に男が一人居たんだが、そいつが炸裂する紫紺の炎を放ってきたんだ、それの爆発音だろうな。ここまで響いていたのか」
「なんと……よもや、魔術師の類だったのでしょうか?」
「どうだろうな。少なくとも、俺の知り合いの魔術師が操るものとは、大分毛色が違っていたが……」
単に系統や流派の違いなのかもしれないが、人のような何かを自在に使役し己が武器とし、紫紺の炎弾を爆発させるような魔術は、まだ聞いたことも無かった。
「ううむ……しかし、そのような爆発など、どのように切り抜けたのですか? 私には想像もつきません」
「あ、それ俺も気になります」
「私も私も」
ボドの疑問に追随するように、馭者台のマーシュが口を挟み、更にイェニさんまでその奥からひょっこり現れた。
「マーシュ、イェニまで……ええと、うん。よく分からないんだ」
「え、分からないなんてこと無いでしょう? こう、飛んでくる炎の玉をすぱっと切り裂いた、とかそういうのじゃないんですか?」
マーシュがさも当然にそう訊ねてくる。そのような事が出来ると信じて疑っていないようだ。夢を壊す様で少々悪いが小説でもあるまいし、そのようなことをした訳では無い。
「何を言ってるんだ、マーシュ。炎が切れるか、炎が……いや、ディディエならやれるかな……やれるかもな……。
いや、とにかくそれが飛んできて俺に当たる前に、こう、深紅の色をした薄く透ける壁のようなものが現れて、防いでくれたんだよ」
「深紅の壁……もしかして、ザリエラ様のご加護なのでしょうか?」
「そう……なのか……? 紅い壁だからといって血神に結び付けるのは早計過ぎないか?」
「いやー多分ご加護ですよきっと! だってアーダルベルト様は血神を戴く征剣騎士なのですよ!?
そもそも自分でザリエラ様はきっと見ていて下さるさ、なんて言っていたじゃありませんか!
うーん、カッコいいなあ。俺もそんな風に、加護と共に誰かを護ってみたいなあー!」
マーシュが吟遊詩人の謳うような騎士物語が好きな事は十分に伝わったから、少し落ち着いて欲しい。
「ま、まあ真相はどうあれ、よくお祈りはしておくよ、うん。感謝の心は大切だからな、うん」
「あはは、駄目だよマーシュさん、アーダルベルト君をあんまり困らせちゃあ。
……でも、本当に無事でよかったね。こんなところで大火傷なんてしたら、大した治療も出来ないし……」
た、確かに。そもそもあんなよく分からないものが直撃していたら、鎧が熔けていたりしたかもしれない。そうなったら、蕩けた金属が肌に焼き付いて、火傷では済まなかったかも分からない。重い火傷は、想像よりも簡単に人の命を奪うものだ。
ラクァルに戻ったら神像の前できちんと祈りを捧げておこうと、改めて強く思ったのであった。
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