第五話 第一歩

 遠くから、朝の始まりを告げる鐘が響いてくる。

 自分でも思っているより緊張もせず、平常心を保ちながら、昨日の夕餉の微妙な味について思いを馳せていた。

 ……自分で作った方がいい味に出来そうだよなあ。料理当番は交代制らしいから、それまでに色々献立も考えておこう……。


 *


「よーし、そろそろ始めるぞ、アーダルベルト。覚悟はいいか?」


「……ああ、俺はいつでも大丈夫だよ、ルナール。始めよう」


 騎士団城塞内部、その中ほどにある訓練場には、騎士達が集まっていた。

 無論、皆訓練に勤しんでいる訳だが、それは全ての者が一丸となって同じことをしているという訳では無く、隊ごとに、日替わり、時間替わりの綿密に組まれた割り当てに従って行われているらしい。限られた設備や道具を、最大限有効に活用するための工夫なのだろう。


 俺は新入りの、最も低級な"黒位"の騎士として、"灰位"の騎士であるエリオットさんが率いる隊に配された。

 外套の色がそのまま階級の名前となっているとはなんとも単純だが、実際、これぐらいの方が分かりやすい。


 訓練場、一対一の模擬戦を行う一角。

 対面しているのは、ルナール・ダムール。俺の奉剣の儀に立ち会ってくれた一人で、ひとつ縛りにされた流麗な金の髪をたなびかせた美丈夫だ。……こんな顔をしてたんだなあ。


 兜を着ける。

 呼気を静め、訓練用の木剣を改めて握り直し、同じくして準備を終えた彼と正面から向き合う。

 ……ディディエ以外の人に、木剣とは言え武器を向けるというのはなんだか妙な感じだ。どうせ鎧を着ているから当たっても死にはしないのだが、それでもちょっと落ち着かない。


「へえ、中々様になってるんじゃあないか。ディディエ様とは構えが少し違うみたいだけど」


「体格が違い過ぎるから、調整する必要があったんだ」


 互いに口を交わす。この時点で、既に戦いが始まっているのだという事は、否応なく理解できた。

 ルナールは、いかにも軽い雰囲気で振る舞っているが、油断無くこちらの隙を伺っている。エリオット隊長による始めの合図もまだなのに、恐らく俺が気を抜いていたならば既に打ち込んでいたのだろう。

 ……それが新入りとの、初となる模擬戦でやることか?


「……へえ」


 ルナールは不敵に笑う。その目線は俺の剣の先端を注視しており、僅かな動きにでも鋭敏に反応するだろう。

 ……だったら。


「――――!」


 敢えて反応しやすいようにその呼吸に合わせて踏み込み、打ち込む――ふりをした。

 一歩、ただ一歩だけ強く踏み込み、急速に止まる。ルナールは俺に対応しようとして剣を上げ、重心が僅かにぶれた。それを目で捉え、今度こそ強くルナールに当たり、剣で剣を抑え込みながら足をかけ、ルナールが剣を押し返そうとして籠めた力を利用して後ろに投げ飛ばす。鎧が地に擦れる嫌な音が、盛大に響いた。

 ……思ったより飛んだなあ。体格が違うから当たり前ではあるが、ルナールはディディエより軽いらしい。どうも、大分感覚がおかしくなっているようだ。


「グッ……やるなあ、お前。追撃に来たら逆に抑え込んでやろうと思ったのに」


 ルナールは身を転がし、起き上がりつつそう言った。


「追い込んだと思った時ほど、危ないんだ。狙うなら――」


 昔からの経験で嫌という程、分かっている。獣でもなんでも、手負いの時ほど遮二無二暴れるものだ。だからこうして反射的な行動を終え、一息つこうとするその時にこそ――


 未だ体勢整わぬルナールへ向け、一撃で仕留められるように思い切り、剣を振り抜く。

 飽くまで冷静に、距離を詰めすぎず、仮にルナールが反撃してこようとも対応できるように、剣の先端で叩き割ることを強く意識しながら。


「――そこまで!」


 制止がかかり、寸での所で剣を止めた。


「……ふぅ~助かったぁ! 久々に嫌な汗をかきました。隊長。こいつ思ったよりやりますよ!」


 ルナールは大げさに汗を拭うような動作を見せた。……兜の上からそうしても何の意味もなさそうだが。その感想を受けて、エリオット隊長が言葉を返す。


「ええ、確かにアーダルベルトは、想定よりもいい動きですね。……それと。

 ルナール、相手を見過ぎる癖に気を付けろと何度も言っているでしょう。

 後できっちり指導しますからね」


「……うへえ、勘弁してくださいよ」


 *


 それから、一人、二人と続けて相手をしていく。

 ディディエに散々鍛えられ続けた一年もの時間というのは、俺に相当な厚みを持たせるに足るものだったらしく、気づけば、エリオット隊を構成する黒位の隊員十名全てに打ち勝ってしまっていた。

 何だ、比べるのもなんだが……皆、ディディエの剣に比べれば、付け入る隙など幾らでもある。傲慢も甚だしいが、彼らには負ける気がしなかった。

 ああいや、それとも新入りに自信を付けさせるためにわざと勝たせる風習なんかがあるのだろうか。

 ……無さそうだけどなあ、そんなの。小声で、ルナールに訊ねる。


「ねえ、ルナール。もしかして皆、手加減してるのか?」


「ちょっ……バカお前、それ皆の前で言うなよ、嫌味と思われるぞ」


「あっうん、ごめん」


 そうか、本気なのか。俺も、やはり思っているよりは成長していると見える。

 ……普段から見ている壁が余りにも分厚すぎて、まだ今一よく分からないが。


 壁。そう、ディディエは、何より厚い壁だ。上には上がある、という言葉があるが、例えば俺が木をよじ登る黒貂だとしたら、ディディエは空をぐるぐると廻る星ほどの高みに居るように思える。

 既に齢は七十近く、第一線は既に退いて久しいと言うのに、まともに一本取ったことすらないんだぞ。


「ふむ……アーダルベルト、体力はどうですか?

 問題ないのならば、次は私です」


 体力にも、なんの不安も無い。

 何故なら、ディディエは休みの日になる度に、一日中稽古を付けてくれていたからだ! あれに比べれば、何も辛い事なんてない。有ろう筈も無い。


「はい、是非。まだまだやれますよ」


 俺がそう言うなりエリオット隊長は剣を取り、構える。どうやら、随分とやる気に満ちているらしい。


「――では、始めましょう。これまでと同様、単純に一本先に取った方の勝利です」


 隊長は穏やかな口調で、何てことないただの説明を口にする。だがその調子の裏には、確かな高揚と気魄が満ちており、勝負に臨む戦士とはそういうものなのだろう。

 ……俺も、何だか楽しくなってきた。ああ、命も掛けずに競い合う事の、なんて健全な事だろうか?


「はい。――参る」


 言うが早いか、一息に距離を詰め、突きを放つ。速攻で制する必要がある。

 相手の階級は灰、即ちそれは確かな経験を積み功を上げた証だ、重ねた場数が違う。長引けば、俺如きが如何に小手先で立ち回ろうと、応じられることは必定である。


 かあん、と木同士が激しくぶつかり、互いを弾く音が響く。

 防がれたが、勢いそのままに二度、三度と剣を振るう。隊長はそれを苦も無く最小の動きで受けきった。続く三、四で少し打つ速度を乱し攪乱を計ったが、それもまた防がれた。


 五度目を振ろうとして、隊長の腕が僅かに動いたのを目の端で捉え、急速に跳ね退いた。

 つい先の瞬間まで俺が立っていた位置を、剣が激しく薙いで行く。迷いなき、綺麗な剣筋だ。構え方による影響か、振り方の工夫なのか、剣の初動が極端に見え難く、もし至近で振るわれたならば、いつ剣が迫って来たかも分からずに斬り伏せられるのだろう。恐ろしいものだ。


「うおおマジか、あいつアレ避けやがった!」


「なんてこった、あるのか!? あるのか、おい!」


後ろで観戦しているルナールを含めた隊員たちが叫んでいる。うるさいなあ。


「――シッ!」


 俺が僅かに意識を逸らしたところに、短く息を吐きながら、隊長は流れるように踏み込んで、縦一文字に剣を振るう。

 その曇り無き清廉な一撃を斜めに力を逸らすようにしてなんとか受け切ったが、一太刀防いだだけで気を緩めていいはずも無く、未だ真っ直ぐと剣を構える隊長が、次にどのように来るのかを考えなければならなかった。


 隙なく、どこから打たれても耐えられるように構えていたが、敢えて右の首辺りが空くように、構えをずらしていく。

 ……どこから来るのか分かっていれば、対処は比較的簡単だ。意図して開けられた穴ほど怖いものは無いというのは、ディディエの教えだ。

 もっとも隊長が容易く引っかかるとも思えないが、それでも意図を読まれ、裏を掻かれた場合でも、五通りの動きまでなら想定出来る。


 ――――来た!

 狙いは、真っ直ぐ穴へと向けられている! だが、これは――剣は陽動! 本命は、まさか徒手の左か!? 冗談だろ!?


 先ず、剣で剣を受ける。ここまでは問題ない。それは、相手にとっても同じこと。隊長の拳が空を切り、唸りながら俺の腹を打つ。合わせようと後ろに跳び勢いを僅かに殺したが、それでも鎧の上から、重い衝撃が体を突き抜けた。


「ぐ……隊長、思ったより荒っぽいんですね。意外だったなあ」


「よく言われますよ」


 ええい、剣筋はあんなに綺麗なのに、戦い方はそうでもないなこの人。あの局面で拳なんて中々出てこないぞ、普通。


 隊長は距離を取った俺に対して、尚油断なく構えている。

 どうやら、拳ひとつでは一本取ったことにはならないらしい。


「気を付けろよアーダルベルト! 隊長は足癖も悪いからなー!」


 野次が飛んでくる。うるさいなあと言いたいところだが、今度ばかりは有用そうだ。徒手の格闘を交えた戦いと言うのは、流石に経験が無い。蹴りか、気を付けなくては……。


「デニス、後で訓練場を二十週走るように」


 げえっ、という悲痛な叫びが聞こえてきたが、すぐに意識から追いやった。

 ……どうしたものか。近づけば、妙に測りにくい剣筋の斬撃に、優れた格闘技術による鉄拳と、件の蹴りが待っている。考えるまでも無く、至近での戦いは悪手であろう。ならば、答えは一つだけ。遠間から立ち回り、隙を見つけて沈めるしかない。……有ればいいけどな、隙。


 駆ける。とにかく動き続けることを意識し、右に左に打っては退いて、揺さぶりをかけていく。

 隊長は冷静に、無駄に動き回らず俺を視界に捉え続け、仕掛けられた全てを的確に捌き続けている。


 牽制、対処。動静入り混じる激しい応酬の中、漸く、隊長の堅実かつ豪快な守勢を貫くための一手を見出した。

 体勢を低くし、速く、速く、一条の矢となって走る。そして隊長に当たらんとする寸前に、正面では無くやや左側に跳び、着地と同時に楔の如く踏み込んだ足を軸とし、上体を回すように勢いをつけ、横殴りに剣を叩き付ける!


 それでも尚、隊長は俺の動きに容易く応じ剣を受け止め、大きな衝撃音が響いた。

そのまま隊長の剣を支点として裏へと回り込む。

 隊長は身ごと腕を返し、横一文字に剣を薙ぐが、それは想定した通りの動きだ。上体を後ろへ逸らしやり過ごし、逆袈裟に全力で切り上げる!


 金属音。手に、衝撃が伝わる。やや不安定な体勢であったエリオット隊長は、俺の渾身の一撃により打ち崩れ、その場に片膝を突いた。

 隙が無いならば、振らせて作ってしまえばいい。分かってはいてもそれが難しいのだが、今回は巧くいった。

 正直、最後に隊長から振ってくれるかは微妙な所だったが、まあ、勝てたのだからとりあえずは良しとしよう。


「うおおお……勝ちやがった」


「齢十三にして、エリオット隊長に……如何に隊長が本気では無かろうと、これは……」


 観戦していた者たちが、口々に驚き、或いは興奮したように騒めいていることでやっと、耳元で無遠慮に鳴り響いた衝撃音のせいで自分の耳が痛みを覚えており、音が遠く感じられる嫌な感覚が残っているということに気が付いた。


「……貴方の勝ちですね、アーダルベルト。流石、ディディエ様が連れて来ただけのことはあります、動きが良いどころではありませんね。

 ううむ、私も精進しなくては……ああ。とにかく今はこれほどの戦士が我が隊に配されたことを喜ぶべきですね」


 ゆっくりと立ち上がったエリオットさんがそう言うと、漸く気を緩め、大きく一息つくことが出来た。


「手合わせ、ありがとうございました。……あの、良ければ今度、格闘の技術を教えてくれませんか?

 噂の蹴りも、見てみたいですし」


「ほう? 君はアルセノー流の喧……格闘術を知りたいと? 珍しいですね。こんなもので良いのなら、幾らでも教えてあげましょう。

 戦場で空手になってしまっても戦える技術というのは、知っていて困るものではありませんしね」


 わあ、有り難いなあ。でも何か、不穏な言葉が聞こえなかったか?

 喧、とかなんとか。剣格闘術、とかそういう複合的な何かじゃないもんな? 間も空いてたし。

 ……でもあれは喧嘩の技術と見なしても良いものだろうか? 明らかに人を殺せる拳だっただろ、さっきのは。


「ありがとうございます! ……ところでいま喧嘩って言いそうになったんですか?」


 後方から、あいつ訊きやがった……! などと小さく呟く声が聞こえてくる。


「…………まさか。そんなことはありませんよ」


「あっはい」


 硬直、言い淀み。やや乾いた否定の言葉。

 それ以上追及しようとは思わなかった。しつこく聞いたら殴られるのかもしれん。


 *


 あれから、実戦形式での鍛練と指導をみっちり三時間ほどもこなしたのち、休憩と相成った。

 ちなみに今日はこれでやることは終わり……な筈も無く、昼餉を摂ってから街の警邏に出るらしい。いつもと違う立場から見る、いつもと同じ場所の景色とは、どれぐらい変わって見えるのだろう?


 水を浴びて汗を流した後、訓練に使っていた自分の鎧を丁寧に掃除しながらそんなことを考えていた。

 本当にまめにやらないと、すぐ酷い臭いになるというのは事前に調査済みだ、抜かりはない。

 ……騎士が臭いというのも、ちょっと幻滅するだろう?


「やあ、アーダルベルト。どうだい、騎士団は」


 不意に、恰幅の良い人の好さそうなおじさんが話しかけてきた。

 ……声には、覚えがある。確か、奉剣の儀に立ち会ってくれた十二人のひとりなのは間違いない。誰だったかなー……

 灰の外套。ええと、あの時居た灰位の騎士は四人、エリオットさんを抜けば三人だ。グウェナエルさんか、ポリ……ポリカル……さんか、シルヴァンさんの内の誰かだ。三択、三択なんだ。当てられるか……!?


「ああ、俺はポリカルプだよ。兜をしてたから、分からないよねえ、顔だと。俺も最初はそうだったよ」


 俺の様子を見て察したか、彼は自ら名を告げてくれた。

 ああそうだポリカルプさんだこの声は。


「あ、いや……はい。正直、まだ全然覚えきれてないです。エリオット隊だけでも十人居るし……」


「あははは、最初は大変だよなあー。うん、でもとりあえず、自分の居る隊の面子だけでも覚えておかないとね。

 身近な人たちと仲良くできるかどうかって、とても大切な事だからさ」


「そうですよね。俺も、騎士団に溶け込むための努力は怠らないつもりです」


「うんうん、良い心がけだよ、頑張って。

 ……しかし、模擬戦では大分活躍していたみたいじゃないか、噂になってるよ」


「え、そうなんですか? ちょっと怖いなあ、お前生意気だぞ、なんて脅かされたらどうしよう」


 俺が照れ隠し半分、心配半分でそう言うと、ポリカルプさんはちょっと困ったように笑う。


「け、けっこう物騒な事を考えるんだなあ、君は。あまりエリオットの悪い所を見習ってはいけないよ」


 エリオット隊長? 薄々気づいてはいたけど、やっぱりそういう感じの人なんですか?


「まあ、それはともかく。この騎士団にはそういうことをする奴は多分、ほぼ居ないと思うよ。

 何せ昔からの気風として、実際に力を示した奴が凄いんだ、っていうのも有ることだし。

 ……うん、だからこっそり裏で締め上げる、なんて真似はされないだろうけど、次の手合わせの時間からはちょっと大変かもね。

 次から次へと、俺ともやろうぜ、なんて奴で一杯になるんじゃないかな。人気者になれるよ、嬉しくないかもしれないけど」


 うわあ。いやでも、確かにそうなのだろうな。今日の模擬戦中、既に他の隊の人たちからも視線が向けられていたみたいだし。


「わあ……光栄ですね、それは」


「あはは、顔が強張ってるよー」


 む、いかんいかん。


「うん、でも、実際いい機会ではありますね、うん。

 伊達にノアイユの家名を背負っている訳ではないのだと、皆に証明しなくては」


「うんうん、いい心意気だね、頑張って。

 ……それじゃ、俺はそろそろ行くよ。また会おう、アーダルベルト」


「はい、気にかけてくれてありがとうございました、ポリカルプさん」


 俺の別れの言葉に穏やかに微笑み、ポリカルプさんは陽気に鼻歌を歌いながら去ってゆく。

 この辺りではあまり聞いたことのない響きの旋律が、妙に耳に残る。なんという曲なんだろうか。後で聞いてみよう……。


 *


 ――幾日かが過ぎた。鍛練と勉学、聖殿での儀式や警邏を主体とした日々にそこそこ慣れ、憶えることの多さに喘ぐことも無くなった。


 そして今日もまた普段通りに、警邏のため町へと出て来たのだ。

今回俺が出向いて来たのは、貴族たちの住んでいる西側の区画である。


 ラクァルで街や住宅地の警備を主に担っているのは、王家に仕えるという名目を持つ、騎士ならぬ兵士たちだ。

 尤も王家に使えるというのは本当に名ばかりで、実質的には征剣騎士団の下位組織のようなものだが……。


 以前ディディエが漏らしていた王党派、騎士派という言葉にも関係のある事だが、この国の王家は、他国のそれとは違い、大きな力を持たない……いや、正直に言ってしまえば、彼らには何の権限も無いのだ。

 なんでそんな事になっているのかは、まあそれなりに血腥い歴史がある訳だが……わざわざ思い返す必要も無いか。


 しかし実際に見回ってみて思うが……別段何も起きてない。平和そのもの、いいことだ。

 幾人かの兵士たちとすれ違うと、彼らは皆俺に恭しく敬礼する。中には見知った顔の人なんかも居り、これまでは普通に、大人と子供として接してきた彼らと少し距離が出来たようで、寂しいものがある。

 ……急に兜を外したらびっくりするだろうなあ。やらないけど。というか、基本的にしてはいけないと言われているし。俺たちと民たちと、あまり近い距離に在るべきでは無い……らしいのだ。恐ろしさと頼もしさと、半々ぐらいの印象を与えるぐらいで丁度いいというのは、エリオットさんの弁だったか。


 そして、ある貴族の邸宅の前を通りかかったとき、不意にその扉が開き、中から一人の女性が現れた。


「――それでは、お大事に!」


 そう元気に声がけして、足早に去ろうとするその赤毛の女性は、よく見知った――


「イェニさん?」


 おっと。驚いてつい言葉を漏らしてしまった。私語は駄目ですよ、と言い含められているのに。

 ……殴られるかもしれん。ああ、聞こえてしまったみたいだ。


「ん? この声は、アーダルベルト君……?」


 そう呟き、イェニさんは辺りをきょろきょろと見まわした。

 そして、その声を発したのが傍らに居る巡回中の騎士だとは思わなかったのだろう、おっかしいなー、などと漏らし首を傾げている。


「あの、この辺にこう、男の子が居ませんでしたか? こう、金髪で、背はこれぐらいのー……」


 至って普通に訊かれてしまったんだが。民たちとの距離感とは?


「ごめんなさい、俺ですイェニさん。自分で呼び掛けておいてなんですけど、今は仕事中なので……」


「ええー!? え、え!? もしかしてアーダルベルト君!?

 ……ちょっと見ない間に背、伸びたねえー」


「ははは、そうなんですよ。でもディディエの方がまだ頭一つ分ぐらい大きいから、今一つ実感が湧かないんですよね」


 大げさに両の頬へと手を添えて、イェニさんが驚きの声を上げる。

 思えば、最近忙しくてこういう報告さえしていなかったのだ、無理もないだろう。俺が出来る限り簡潔に、今の己についての説明をすると、イェニさんは表情豊かに、驚いたり笑ったりしながら聞いてくれた。


「そっか、騎士かあ。凄いなあ、おめでとう!

 ……でもちょっと残念かも、君はてっきり、うちの店に入ってくれるものだとばっかり思ってたよ」


「あはは、もしそうしていたら、きっと毎日がものすごく楽しかったでしょうね。

 いや別に今が辛いという訳じゃあないですけど、うん。もし怪我かなにかして騎士としてやっていけなくなったら、イェニさんのお手伝いをするのもいいかもしれませんね」


 それも、凄く楽しそうだ。

 もし、俺がディディエに会うことなく鉄都までやって来れていたのなら、そういう未来も有ったのかもしれない。

 俺がそんな夢想をしていると、イェニさんはやさしく苦笑いしながら俺の発言を窘める。


「こらこら、騎士になったばっかりで、縁起でもないことを言わないの。

 でも、もしそうなったらいつでもおいでね」


 ……確かに、縁起でもないな。うん。

 運命は発言と認識に寄せられる、という言葉が名神信仰で語られているらしいし気を付けよう。


「……騎士か、なら、もしかしたら、その内仕事で会うかもしれないね」


 イェニさんが顎に人差し指を当て、首を傾げながら何やら考えながらそう言った。 疑問と共に聞き返す。


「仕事で、ですか?」


「うん。そもそもうちと騎士団は取引してるからね、薬の納品に行ったときに会うかもしれないし、それに、最近は街道の方が危ないでしょ? 隣の都市から素材を仕入れに行くんだけど、大丈夫かなーって話を、騎士団の人と会った時にしたらね、では、こちらの方で護衛を用意しましょう、なんて言ってくれてさ。

 それが兵士の人だけじゃなくて、騎士団からも誰か付けてくれるらしいんだよ。びっくりしちゃったね」


 ああ、イェニさんはそもそも騎士との距離が近いのか。それであんな、何を気にするでもなく話しかけてきたんだな。いや……この人ならそれは関係ないか? あまり対人的に臆するところが想像できないなあ。

 しかし、騎士が民間人の護衛をするとは、ちょっと驚きだ。そういった護衛だとかは、公的なものを対象とするのが基本だと教わっていたが……。


「なるほど、そんなことが。実際誰が充てられるかは分かりませんけど、もし俺だったら、任せてください。

 しっかり、積荷もイェニさんも、護衛の兵士の人だってみんな守り通してみせますよ」


「うん、その時はよろしくね!

 それじゃ、私はそろそろ行くよ、お仕事頑張ってね、アーダルベルト君。

 ……またね!」


 そう言ってイェニさんは、元気に手を振って去っていった。

 俺も警邏の任を再開したが、町は相変らず平和そのもの、この見回りが直接的な成果を上げることは多分ないのだろうなあ。

 まあ別に、何かを捕らえたり、怪しいものを見つける必要は無く、騎士達が町を見回っているという事実が大切なのである、うん。だから、これは散歩ではない。歴とした仕事なのだ。うん。


 ……それにしてもいい陽気だなあ。表で歩くのは気持ちがいい。

 のんびりと太陽を仰ぎ、そんなことを考えるのであった。


 *


「……それで、アーダルベルト。

 君について、仕事中に婦女子と楽し気に語らっていたという報告が上げられていますが、何か釈明することは有りますか?」


 騎士団に帰ってみれば、隊長が仁王立ちして待っていた。

 この余りにも淀みのない、迅速な情報の伝達には驚かざるを得ない。警邏中の兵士の人が報せたのだろうか?


「有りません。済みませんでした。命だけは勘弁してください」


 言い訳をしたら死ぬ。

 そんな気がして、気が付けば俺はただ正直に命乞いをしていた。


「……貴男が私をどう思っているかはよく分かりました。とりあえず腕立て百回」


「はい」


 言うが早いかその場で、腕立て伏せを開始する。


「やりながら聞きなさい。回数を忘れたら最初からですからね。

 それで。聞いたところ、貴方が話していたのはカーレン薬店の店主ということでしたね」


「はい」


 十三、十四、十五……。


「知り合いなのですか?」


「はい。ラクァルに来てすぐ、知り合って……」


 十九、二十、二十一……いや待て、合ってるか? 十八って数えたっけ?


「ふむ。それならば、貴方で良いでしょう。友人が対象ともなれば、護衛にも身が入るでしょうし」


 二十六、二十七、二十九、三十……。


「あ、もしかして、隣の都市、までの、護衛の話ですか。……今日、話を聞いたばかりなんですよ」


「おや、本人から聞いたのですか? ならば、話が早い。丁度こちらに話が回って来たところでしてね。

 十日後に予定されていますから、遠出の準備しておくように。仔細は、追って伝達します。分かりましたね?」


「はい」


 ――今何回やったっけ。……た、多分三十七、三十八、三十九……。


「速度が落ちていますよ。一定のペースを保ちなさい」


「はい」


 辛い。


 *


「終わりました!」


「九十七回しか出来ていませんよ、数え損じましたね。もう一度です」


 辛い……。

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