第九話 少年路へと踏み出して
さて。レオとも別れ、俺たちは帰途についていた。
また先日の様に雪がはらはらとちらつき始めており、本格的に振りだす前に家へ戻ろうという腹である。
通りを進む。やはり人は殆ど居らず、少なくとも普段は表で立ち話をしているような人々も今日ばかりは家中に居るのだろう。
何時もと変わらず佇んでいるのは、警邏をしている兵士のミシェルおじさんぐらいだ。……おじさんは相変らずくたびれている。というか、段々やつれて来ているようにも見える。大丈夫か?
「おお、アーダルベルト君、ダフネさん。こんな日にお出かけとは、大変ですねえ」
兜に積もった雪を払いながら、おじさんが声を掛けてきた。
ダフネさんが朗らかに笑み、返事をする。
「あら、ミシェルさんこそ、こんな天気なのにご苦労様です。寒いですから、お身体に気を付けてくださいね」
「あはは、それが最近、中々良い物を手に入れたから、結構平気なんですよ。
ほら、見てくださいよこの石。なんだかよく分からないけど、綺麗でしょう? これ、温かいんですよ。
なんでも魔術の品らしいんです。あんなもの役に立つのか疑ってたけど、結構便利なものですなあ」
そう言って彼は首から下げた、橙色の石が嵌められたネックレスを見せてくれた。
確かに、その首飾りが掛けられていた部分の周りから、彼の言葉を示すように雪が融けていた。
……そういえば、ギジグが言ってたことが有ったなあ。
魔術の有用性を少しでも広めるために、こういう"便利な道具"を無償で配っていたりするんだ、って。
「それ、魔術師の方から貰ったんですか?」
「そうそう、そうなんだよ。いやあ、あの人たち中々いい人だねえ」
おお、地道な努力が実を結んでいる。凄いや。……社会に根付くというのも、大変なのだろうなあ。
そんなことを話し込んでいると、向こうから別の兵士の人が走ってくる。彼はミシェルおじさんに何ごとかを深刻な面持ちで説明している。
その言葉の端が、妙に鮮明に聞き取れた。……怪物が、現れたらしい。
「――それで、街道沿いを進んでいた行商人が、怪物に殺されたらしいんだ。喰うでも無く、荷も狙わず、ただ人だけを狙ったらしい」
「……それが例の、正体不明の獣の仕業だって言うのか?」
「ああ。目撃者だって、居る。その行商人の奥さんだ。彼は馬を馬車から放して、奥さんだけはどうにか逃がしたのさ。
可哀想に、独り遺されて……だからといって共に死ねれば幸せなどとは言うまいが……」
……怪物、正体不明の獣。その言葉で脳裏を過るのは、かつて森に住まっていた異形の巨獣の姿だった。
その恐ろしい風貌を想起して、思わず身震いする。既に奴はディディエが仕留めたというのに、俺は未だ恐れているのだ。
「……ほら、アーダルベルト君、もう行きましょう。風邪をひいてしまいますよ」
そんな俺の様子を見て、物騒な話に恐れを抱いたと思ってくれたのか、ダフネさんはそう優しく促してくれた。
だが、訊きたいことが出来てしまったのだ。
「うん。でもごめん、ちょっと訊きたいことがあるんです。
――ねえおじさん、正体不明の獣ってなに?」
「アーダルベルト君。これは子供にする話じゃあ――いや、君は確か……成程な。
どうしても、訊きたいのか? 夜一人で眠れなくなっても知らないぞ?」
「大丈夫ですよ。暗闇に一人で過ごすのは、慣れてますから。
……ねえおじさん、まあ違うとは思うんですけど、その正体不明の獣って、色んな動物の特徴を滅茶苦茶に混ぜ込んだような姿をしてるんですか?」
ミシェルおじさんは困ったように頭を掻いており、隣では同僚のお兄さんが俺の言葉に驚いているようだ。
……ああ、まさか本当にそうなのか? あの時ディディエが斃した異形の巨獣、それと由来を同じくするような怪物が、まだ居るというのか?
「君、どこからその話を――」
「ジャン、この子があれだ。ディディエ様が連れてきた子だよ」
「なんと。では、ディディエ様が伝えし、件のタレル村の?
……君、まずはよくぞ一人で生き抜いたと、賞賛の言葉を贈ろう。よく頑張った。
――それで、例の獣についてだが。ここ数か月、どこからかは分からないが、そういった異形の獣たちがちょくちょく姿を見せているんだ。
人の有る所にふと現れ、人を食う訳でもなく、襲い掛かってはただ命を奪い、また何処かへと掻き消える。足取りを掴むことさえ困難でな。
聞いた限り、君ならば既に知っているとは思うが奴らは通常の獣とは桁違いに厄介で恐ろしい生物だ。見かけたとしても絶対に近寄らず、すぐに近くの大人……特に兵士や騎士へと報せるんだ。
決して、自分でどうこうしようと思ってはいけないよ。いいね?」
「はい、分かっています。……でも、最近になって現れだしたんですか?
タレルでは、俺が生まれるより前から居たんだって、皆言っていました」
「ふむ。興味深い情報だ。君、年は……十一? 十年以上前からそんな化け物が……?」
「うーん、あの森は一遍調べた方がいいのかもなあ。――ああ、もし気になっても、アーダルベルト君は行っちゃ駄目だからね、危ないし。
……しかし最近はそんなこんなで何かと物騒でね。おじさん達も大忙しってわけさ。こう見えて、今月に入ってから十キロも痩せちゃったんだよ、おじさんも」
おじさんが腹をばしばしと叩きながら笑って言った。緊張した空気が見る間に弛緩する。
「あ、あはは……それで妙にくたびれていたんですね」
とりあえず俺も流れに乗って軽口を叩くと、後ろから聞こえてくる音が有った。
「――へくちっ!」
それまで真面目な顔をして、聴きながら何かを考えていたダフネさんが急にくしゃみをしたのだ。いかん、冷えすぎたのか?
「ああすみませんダフネさん、長々と立ち話をしちゃって、冷えちゃいましたか?」
「いえ、私はだいじょうぶですよ?」
でも鼻も頬も赤くなってきてるよ。……うん、もう早く帰ろう。
俺たちはおじさんたちに別れを告げ、早急にお屋敷へと戻るのだった。
*
あれから何事も無く帰宅し、夕餉を食べ終え、風呂にも入り一息ついて、自分の部屋でぼーっとあれこれ考えていた。
「怪物かあ……」
この数か月で急に現れるようになった、喰うでもなく人を襲う異形の獣。
街道で色々あるらしいとイェニさんは語っていた。関連しているのだろうか。
レオ達には前に遊んだ時に、父が最近賊の類が増えているとぼやいていた、などと聞かされたりもしている。確かにそう言った話を、兵士の人たちがしている所は俺も見たことがあった。
今、世界で何が起きているのだろうか? どれほどの人間が恐れに苛まれ、実際に凶事に巻き込まれ泣いているのだろうか?
殺された行商人、少しやつれたおじさん、俺なんかが心配していたところで何になる訳でもないが、それでも思う。
もし叶うのならば、皆が平穏に過ごせる世界が訪れればよいのに、と。
……誰かが居なくなるっていうのは、寂しいからね。
「……騎士かあ。俺もディディエぐらい力が有れば、色んな人を守れるのかな?」
詮無きことをあれこれと考えながら、横になる……今日は、なんだかあまり眠くなって来ない。
いつもはベッドに潜り込むと、気づけば日の出になっているのに。
「タレルには、何があったんだろう……消えた村、あの獣が居た森……皆、俺は……」
ああ。偶にあるのだ。村の事を思い返すようなことがあると、こんな気分が現れる事が。
ただの郷愁とも、居なくなってしまった同胞への悲しみとも違うような、ただただ鬱屈が心を覆ってしまうような、不思議な暗闇が。
それが現れると、どう抗うことも出来ず、じっと俯いて耐える事しか出来なくなるのだ。
……こんこんと、戸を叩く音がする。こんな時間に呼ばれるなんてあまり無いのに、珍しいなあ。
戸を開くと、いつもの服から寝間着に着替えたダフネさんが、盆を持って立っていた。
「アーダルベルト君、少しお話でも如何ですか?」
毎度毎度この人はなぜ、俺の様子を完璧に把握しているのだ?
絶対寝付けてないって分かって来たでしょ。
……最近ではすっかり彼女に慣れて来て、出会った当初の、謎に満ちた、神秘的な少し恐ろしくも美しい人だという印象よりも、優しく、少しおっとりとしていて、割と気の抜けた一面を持った側面ばかりを見ていたのだが、やはりこうなんというか、偶に全てを見透かしたかのような底の無さを感じさせる瞬間があるんだよなあ。
俺が椅子に合わせる用の小さい机をベッドの傍へと引き寄せると、ダフネさんはその上に盆を置いた。
見れば二つのカップが乗っており、中には暖められた牛乳が注がれているようだ。
「うふふ、隣、失礼しますね」
「え、あ、はい」
俺がベッドへと腰掛けると、ダフネさんは隣に座って来た。
……いや、あの、椅子も用意しましたよね? 俺がベッド、貴女が椅子に座ればいいかなと思ってたんですけど。
「アーダルベルト君は……ラクァルに来てから、楽しいですか?」
「――はい。それはもう、毎日見たことも無いようなものばかりで……友達も出来たし、
ディディエとの鍛練だってやり応えがあって充実してますし、食事も美味しいし、ダフネさんとこうやってお話しできるのも、楽しいです」
「うんうん、とてもいいことです。
……うふふ、お喋りが楽しいと言ってくれるなんて、女性の扱い方がよく分かっていますね?」
「あはは、お世辞じゃありませんからね。どれもこれも、みな本心です。
俺は、ここに居られて、心から幸せなんだと思います」
そう言いながら、牛乳を手に取った。じんわりと、カップに湛えられた柔らかな熱が伝わってくる。……温かい。
一口啜れば、優しい乳の甘味に乗って、ふわりとハーブの香りが鼻を抜けていった。確か、この香りの草には安眠の作用があったなあ。
「ああ――おいしいですね、身体が芯から温まります」
一息つく――胸の裡の、僅かなわだかまりの正体に気づいたのはその時だった。
それは、過ぎ去った記憶たちがさざめいているかのようで、どうやら俺の中には未だにあの、森がすすり泣く声が反響しているらしい。
……忘れたいという訳では無いが、常に考えていても仕方が無い。いつの日か、何が起きたのかを解き明かしたいと思ってはいるが、故郷を失った悲しみで、今ある楽しい思いさえも潰してしまうのはきっと、幸せを感じる俺の心への裏切りだ。喜ぶべきものに触れたときには、きちんと喜びたい。それを感じる事が、罪である筈など無いのだから。
……それは、分かっているのだが。どうしてもそこに後ろ暗さのようなものがあるという事を、漸く悟ったのだ。
同胞たるタレルの皆は、俺を置いて消え去った。
……或いは、俺だけが皆を置いて去っていったと言えるのかもしれない。
村での長閑な、ラクァルに来てからは、それが原始的な形に近いものだと呼べると知った、あの暮らし。
そこから、今や俺は大貴族に拾われて、何でも無いかのように村の婚礼衣装よりもいい服を平服として、誰かが成人したときの祝いよりもいい料理を日常的に食し、絹で織られた布団を平気で使っている。
……村の皆が今の俺を見たら、何を想うのだろう? もし俺と彼らの立場が逆だったら、俺は何を感じるのだろうか?
「ねえ、ダフネさん。ダフネさんは昔の事も曖昧で、多分ラクァルの人では無いんでしょう?
自分の過去のこととか、気になったりはしないんですか?」
「そうですねえ。気にならないと言えば、嘘になります。
なにか大切な、やるべきことがあったような気もしますし……まあ結局曖昧な感じなんですけどね」
そう言ってダフネさんも牛乳を手に取り、一口啜ろうとして、思ったより熱かったのかそのまま何事も無かったかのように戻した。
「……ねえ、アーダルベルト君。私も、ディディエ様も、きっとラクァルの他の皆さんだって、貴方がずっと生き延びて、ここに来てくれて、嬉しいと思ってるんですよ。絶対にそうです。
皆さん、誰に聞いても、貴方の話をするときは楽しそうな顔をするんですよ。
イェニだって、ミシェルさんだってそう。服屋のマリーだって、石鹸職人のガートナーだって、貴方のお友達のレオ君だって、あなたと話していて、とても楽しそうにしていました。
貴方が幸せを感じていることで、他の人だってそれを嬉しく思ったりするものなのですよ」
「……そうなの?」
「勿論、そうですよ? ディディエ様だって、そうなんですから」
「ディディエが……」
「ふふ、貴方は知らないと思いますけど、昔はもっと不愛想だったんですよ、あの方は」
「え? 流石にそれは冗談でしょ?」
「いえいえ、本当の話です。あれももう、今から三十年も前のことでしたね――」
*
私は、暗い道をずっと歩いていました。
どこからそうしていたのか、いつからそうしていたのかも分からないままにずっと、遠いところからそうやってここまで来たのだとということだけを、ぼんやりと感じながら。
気づけば、私は固い土の上で、倒れ臥していたのです。それ以前のことは、本当に全部、暗闇の中に置いて来てしまったように思い出せなくて。
春の盛りの事でした。私は木のすぐ傍で、散った花弁に埋もれるようにして倒れていたようです。
ディディエ様はそんな私を見て、放ってはおけなかったようで、人目も気にせず館に運び、手当てをしてくださいました。
うふふ、あの方、子女の服を勝手に脱がすような真似など出来るか、なんて言って、倒れていたままの服装で私を寝かせていたんですよ。それはそれでちょっと酷いと思いませんか?
……貴方は勘が良いですから、とうに気づいているでしょうね。ずっと昔、ディディエ様には奥方様と、お子様が居られたのです。
でも、私が拾われた当時、ディディエ様は既に、お二人とも亡くされていたのです。流行り病との事でした。
騎士団の方の話によれば、それからディディエ様は、豪放磊落そのものといった人柄から随分と寡黙になり、考え事が増えたのだと言っておられました。無茶も随分とするようになって、自らのことを省みず戦いにばかり赴き、一切休むことなく、賊や獣を討ち、反乱を鎮めていたそうです。
流石にお年を召されてからは自重してくださるようになりましたが……それでもほんの十年前ぐらいまでは、まだ現役だったのですよ……ええ、今は確か七十歳ですから、そんな年までずっと戦い続けていたんです。
私を拾ったばかりのころは、既にそんな感じでした。屋敷に人手も居らず、お庭もみんな荒れ放題。日々の食事として、行軍用の携帯食料なんてものを食べていたんですよ!
……え? アーダルベルト君も食べたことがあるんですか? ……それは、大変でしたね。美味しいご飯を作ってあげますから、どうか貴方はそれを食べてくださいね。
ディディエ様は、私を拾ってしまったのはいいものの、扱いに困っている風でした。寡男が若い女性を拾ってきた、なんてことで良くない噂も囁かれていたみたいですしね。
……まあ実際そういう感じではなかったのですけども。ディディエ様が愛するのは、亡くなられた奥方様だけですから。羨ましいですね、私もそれぐらい誰かに思われてみたいものです……。
ええと、なんでしたっけ。そうそう、当時の私の扱いについてでしたね。
あの頃は、碌に口も訊いていなかったんですよ。年頃の娘と父親のような、互いにとって最適な距離が全く分からないという感じで。
険悪、という訳では無かったのですけれどね。ただ本当に、互いに何を語ればいいのかも一切分からず……。
そんな生活が続いていたある日、屋敷の汚さに堪えかねて、私が全部掃除してしまったんですよ。帰って来たディディエ様はもう仰天してしまって、十分ぐらいは入り口で口を開けて固まっていました。
……後から聞いたのですが、その時片付けた部屋の中に、奥方様とお子様の部屋があったのです。
奥方様たちが亡くなられてから、ずっと手つかずにしてあったようなのですが、
私は勢い任せに完璧に綺麗にしてしまったもので、ディディエ様は複雑そうでした。
ディディエ様はいい機会だったのだ、と言ってくださいますが、今でも申し訳ないことしたな、と感じてしまいますね。
そんなことがあってからは私がお屋敷の手入れを任され、幾分まともに会話もするようになっていったんですが、それでもディディエ様には消えぬ影が有りました。心から楽しそうに笑うようなことは、なんと、貴方が来るまでは一回とて無かったんですからね。びっくりしましたよ、本当に。
アーダルベルト君はどのようにしてディディエ様を笑わせたのですか?
……堂々と待たせて鴨を取りに行った? う、うーん。ちょっとよく分からないですねえ。私も鴨を持っていれば……?
爺さんと呼んだから? うーん、どうなのでしょう? それぐらい遠慮が無い方が良かったのでしょうか……。
まあ、そんな感じです。今のディディエ様を見ていると中々想像がつきにくいかもしれませんが、あの頃は本当に、一日中まともに口を利かない日もあったぐらいでしたからねえ……。
*
昔語りを一段落し、ダフネさんはカップを手に取った。
牛乳を軽く揺すって湯気の具合で温度を注意深く確かめたのち、一口だけ啜る。
「ねえ、アーダルベルト君。
貴方がディディエ様に救われたときにきっと、ディディエ様だって貴方に救われていたのですよ?
貴方は、私が三十年かかってもずっと出来なかったことを、こんな短い間にすっかり成し得てしまった。すごいことです」
「ディディエが……」
「――だから、アーダルベルト君。私は、君に堂々とこう言いますよ。
貴方が幸せであることが、決して悪い事になどなり得ません。決して、決してです。
だから、どうか……どうか、貴方の心が、喜びだと思うことを、幸せだと感じることを、ありのままに愛してあげてくださいね」
ダフネさんは俺の眼をまっすぐと見据え穏やかに、だが力強くそう断じたのだった。
「ダフネさん、俺は……」
そこまで言って、言葉に詰まってしまった。
ダフネさんは尚も穏やかに微笑み、俺がゆっくりと言葉を紡ぐまで、待ってくれている。
「俺は、今でも少し、分からないんだ。今の生活は楽しくて、幸せで、でも、昔の家族たちは今の俺を知ることも無ければ、俺も家族たちがどこに居るかも分からない。皆を放っておいて、俺だけが幸せな思いをしてもいいのかな、って感じるんだ。
……でも、ダフネさんが、そう言ってくれるのなら。ディディエやラクァルの皆が、そこから幸せになることが出来るのなら。
俺も、前を向いていてもいいのかなって、そう思える気がする……すると思う……多分……?」
「――ふふふ。慌てなくても大丈夫ですよ。私もディディエ様もきっと付いていてあげますから、少しずつ、進んでいきましょうね?
……ああ、とにかく今は、私の気持ちを貴方に伝えられてほっとしています。
アーダルベルト君はたまに影のある笑い方をしていましたから、じつは心配していたのですよ」
わあ。いかんいかん、心配をかけるなんて。
……それにしても、自分が幸せでいいのかどうか思い悩むことで他人を心配させるとは。俺はなんて贅沢者なんだ……。
「ふふ……じゃあ、真面目な話もこれぐらいにして、昔のディディエ様の面白いお話でもしましょうか」
「うわあぜひ聴きたいです。絶対面白い話ばっかりでしょう、それ」
夜が、更けていく。
それからダフネさんと楽しくお喋りを続けて――――
*
翌朝、自分が気が付いたら眠ってしまっていたことに気が付いた。
温かな布団の中で、昨夜のことを反芻する。ダフネさんが俺へと聞かせてくれたことは、きっと俺にとって、ずっと心に残り続けるだろう。
それは温かな火種となって、いつか、自分の幸せと共に、多くの人々をも幸せにしたいという願いの源流となるのかもしれない。
そんなことを考えながら、体を伸ばそうとして、違和感に気が付く。
俺の動きに呼応して、寝苦しそうにもぞもぞと身じろぎする影があることに。
それは紛れも無く、確かに昨日、夜遅くまで共に言葉を交わした人であった。
「――ん……んぅ――」
「は?」
何でここで寝てるんですか? いや確かになんだか妙に温かいなとは思ったけれど。
え? いやこれどうすればいいんですか?
い、幾ら何でも女の人と同じベッドで寝るような年じゃないですよ俺だって。
深く、深く深呼吸。よし落ち着いた。
ゆっくりと、彼女を起こしてしまわぬように、布団からごく静かに這い出でて部屋の外へと向かった。とりあえず、この事についてはこのまま無かったことにしよう。
「おう、アーダルベルト。今日は妙に起きるのが遅かったな」
通路の向こうから、丁度俺を起こしにでも来たのか、ディディエがこちらへ来るところだった。
畜生なんでこんなよく分からないタイミングでくるんだ。
「あ、うん、ディディエ、おはよう」
「なんだその顔は……まあよい。ところでお前、ダフネを知らんか?
あいつがこんな時間まで寝ていることなぞ、そうそう無いんだが……」
え? なんで俺を的確に追い詰める様な質問をするの?
い、いや、そもそも別に堂々としていればいいんじゃないか? 俺は一体何を慌てているんだ。別に変な事をしていた訳でもあるまいし。
変な……いややはり同衾は変な事では……?
「……どうした、本当に変な奴だな。体調でも悪いのか?」
「ああいや、別にそういう訳じゃあないんだけど――」
がちゃり。俺の背後から、扉の開く音が、聞こえてしまいました。
ああ、起きて来られたのですね。
「ふあ……おや、これはディディエ様、お早うございます」
「何がお早うだ、もう十時を疾うに越して……え? 何でお前ここから出てきたの?
ダ、ダフネお前、アーダルベルトに変な事をしてはおるまいな」
「そんな、ディディエ様。私はただアーダルベルト君と楽しくお話をして、そのまま同じベッドで一夜を共にしただけですから――」
何でそんな妙な言い方するんですか貴女。
「い、いかん。それはいかんぞダフネ……!」
ディディエも何を慌ててるんだよ! もっと額面通りに言葉を受け取ってくれよ!
「ちょっとディディエ、ダフネさんがそんなに変な事する訳無いだろ。
……いや気が付いたら同じところで寝てるのは変な事かもしれないけど。別にいかがわしいことは無かったよ」
「そ、そうか。いやそうかすまん、妙に取り乱した。
ダフネ、流石に同衾はやめておきなさい。教育によくないから……」
「……そうですか? ううん、残念ですねえ。アーダルベルト君、温かいのに……」
もしかして俺の事を湯たんぽか何かと誤解していらっしゃる?
*
さて。色々な事があったがとりあえずそれは置いておき、今日も平穏無事に過ごして、気づけばもう夕刻だ。
こんな時間だが、今ディディエと共に裏の稽古場に来ている。寝過ごした分、今から鍛練をつけてくれるのだそうだ。続けなければ意味が無いから、と初めてやった日からずっと、週に二回のお休み以外は毎日やっているのだ。結構立派なものだろう。
「――うむ。まあ準備運動はそれぐらいでよかろう。少しこっちに来い……よし、これを持て」
「うん、持ったけど」
いつもの木剣だ。もうすっかり、俺の手に馴染む。
……でも、俺も背が伸びたのかな、もう少し長くても平気そうな気がするぞ。
「よし、打ってみろ」
「うん? 何を?」
「儂を」
ええ……。
気づけばディディエも木剣を手にしており、空いた手でちょいちょいと早く打ち込むように指示してくる。
そう言われてもさあ……。
「ほれどうした、早くせんか。遠慮などせんでもいいぞ、どうせ当たりゃあせんからな」
「いやそりゃあそうでしょ……ええい儘よ!」
意図はよく分からないが、とりあえず折角だから全力でいってみよう。
呼気を鎮め、よく集中し、一息に剣を振り抜く!
かあんと、木同士がぶつかる乾いた小気味の良い音が響く。
当たり前だが、ディディエは余裕の表情で軽く受け止めていた。
というか受け止めるどころか、こちらの剣が当たる瞬間丁度に力を籠めて軽く打ち返したようで、危うく剣をふっ飛ばしてしまう所だったが、慌てて後ろに飛び退き事なきを得た。
「ほう……ふむ。やはり中々、筋が良い」
「そりゃどうも。それでこれ、何なの?」
「うむ。アーダルベルト、お前、騎士になれ」
うん?
「何言ってるんだよ、ディディエ。騎士って、ちゃんとした家柄じゃないとなれないようなものなんでしょ?
タレル村なんて誰も知らないようなところから来た俺じゃ、幾らディディエがそう言ったからって、問題大ありでしょ」
「いいや、何も問題は無いぞ。お前を正式にノアイユの家に迎えるからな。誰も文句は付けられんぞ。
……まあ儂がボケたとか抜かす奴は居るかもしれんが。お前は、嫌か?」
そんな、何を――――断じて嫌ではない。嫌では、ないが。
「え、いやその、嫌では、ないけど……」
「どうしたどうした、歯切れが悪いではないか、打ち込みはあんなに思い切りよく真っ直ぐだったのに。
……なあ、お前は、どうしたい? なってみたくはないか、儂のような騎士に」
憧れが無いと言えば、嘘になる。
だが、自信は無いのだ。全く俺の知る事の無かった、独自の礼儀と作法に満ちた貴族の世界に飛び込むのも……ディディエの期待に応えるのも。
戸惑う俺を真っ直ぐと見据えたまま、ディディエは、言葉を続ける。
「ラクァルには、今こそよい騎士が必要なのだ。
お前も訊いているかもしれんが、昨今は正体の良く分からない怪物や賊が、姿を見せ始めている。
一人でも多くの、強い力と心を持つ善い者が欲しい。お前ならば、立派な騎士になれる。儂は信じていいと思った。
――アーダルベルトよ。この国と人々の為に、誇り有る道を歩んではみないか」
ああ――ああ。この人にこうまで言われて、断れる人間がどれぐらい居るだろうか?
信じてくれると、言うのなら。俺はそれに応えたいと、偽りなく思う。
「……うん。分かったよ、ディディエ。あんたがそこまで言うんだ。
なら俺は、それを信じるだけだよ。俺は、必ず立派な騎士になる。約束だ」
俺の言葉を聞き、力強くディディエは笑む。そして、俺の言葉に対して一つだけ、訂正を加えたのだ。
「約束、か。少し違うぞ、アーダルベルト。騎士がするのは、誓いだ。己が意志に誇りと決意を抱き、天に剣を捧げ、誓うのだ。こうやるのだ、見ておれよ。
――我が名はディディエ。天に坐す我らが神、ザリエラよ、どうかこの祈りを聞き、我らを見守り給え!
私は己が道の結晶に、必ずやこの者を、多くの人々を救い、剣を以て運命をさえ切り拓く、随一の騎士と育てると誓う!」
ディディエは手にした剣を胸の前で構え、無駄のない洗練された動きで天へと力強く掲げ、堂々と宣誓した。
……剣が、運命を切り拓く。それは征剣騎士に代々伝わる、誓いと誇りの言葉なのだと教わったことを、思い出す。
「おおー……すごい、格好良いや、剣は訓練用の木剣だけど。
……じゃあ、俺もやるよ」
うーん、緊張するなあ。
「我が名はアーダルベルト。天に坐す我らが神よ……なんだっけ、ああ、うん。ザリエラよ。どうか、我らを見守り給え!
私は、己を救った者の意志に応え、憧れと共に、世の為人の為と力を尽くす、誰もが認める立派な騎士になると誓う!」
見様見真似で、剣を天へと掲げる。ディディエはその様を見届けると、何かを待つように、肘を伸ばしきらずやや低めに剣を掲げる。
ははあ、これは……こうだな?
それに合わせるように、剣を掲げ、前へ出す。
……背が違い過ぎるから高さを合わせるのも一苦労だが、どうにかこうにか、剣は交差した。
正直意味はよく分かっていないが、多分何か騎士流の作法なのだろう。
やがてディディエは恭しく剣を下ろし、俺もそれに倣った。
「ふ、言わずとも分かるとは。よい、よい、やはり素養は十分よな」
「ええ? これで何か分かるっていうの?」
「おう、分かるとも。騎士とは、そういうものだ」
いやどういうことだよ……まあ、細かい事はいいか。
*
二人の誓いを影から見ていたダフネは、静かに泣いた。
彼女が述懐したように、ディディエはかつて、ダフネを拾うより更に古くに、妻子を亡くしている。
流行り病であった。反乱を収めに出兵し、帰ってきた頃には、手遅れであったのだ。
報せを聞いて全力で馬を駆り、どうにか戻って来た時には妻は既に亡く、子は息こそしていたが、直ぐにディディエの腕の中で眠りについた。
それ以来、ディディエはただ戦いにのみ明け暮れていた。守るべき家族を、守るべき時に其処に居合わせられなかった傷に、追い立てられて。
それから彼はずっと、人を遠ざけてきた。自分に他者と関わる権利があるのかどうか、分からなくなってしまったのだ。
最愛の妻子でさえ、その最期の苦しみに付き添えなかった己が、何を分かった風な顔をして、他者の苦しみに添えようか?
彼は、直接誰かを助ける事に耐え切れなくなり、より迂遠に、人を苦しめるものを取り除くという戦いを続けた。
それ以外の道では、心が持たなかった。どの様に善い事をしても、妻子はただ見殺しにしたも同然だ。己を救い難い悪だと感じてしまうのだ。
だから、善事を為すことよりも、悪を断つということのために剣を振るった。欺瞞だとしても、それでも、誰かの笑う所を守りたかった。
ダフネは、そんなディディエの心を知っていた。だから、彼が森からアーダルベルトを連れ帰って来て、実は本当に驚いていたのだ。
そのアーダルベルトは健やかに育ち、今やディディエの剣を継承する道を往かんとさえしている。縁とは、なんと妙なるものだろうか?
ディディエは、まるで我が子を見るが如く穏やかに微笑み、しげしげと剣を眺めているアーダルベルトを見ている。
きっと、今日が最高の日なのだろう。願わくば、この瞬間が、限りなく、更なる喜びに越えられていきますように。
ダフネは、今も自ら達を見守っているであろう光輪の神に、そう祈るのであった。
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