第七話 騎士の背中

 ラクァルに来てからもう幾日も過ぎ、この、故郷と比べ余りにも大きな街並みにもようやく慣れ始めた。

 なんなら今や一人で街に出て買い物だってしてこられる様になったのだ、我がことながら、己が成長に感動を禁じえない。


 そうやって俺に余裕が出来たためか、少し前からダフネさんが簡単な勉強をさせてくれるようになった。

 社会常識や簡単な計算、やけに難しい完璧なラクァル風の筆記体などその範囲は広く、紳士としての淑女の扱い方なんてのも教わったけど、あんなもの、本当に役に立つのかなあ。

 ……しかし、この人は本当にいつ休んでいるのだろうか? 今では屋敷の掃除、炊事に洗濯、俺の教育まで、全てを滞りなくこなしている。尋常ではない優秀さだ。

 確かに最近こそ、俺も少しは手伝っているが、たぶん普通なら、数人でこの広さの屋敷を清掃するのは無理だ。前にも考えたことは有るけど、実際にやる側に回ってみてわかる、その不可能っぷり。何か、秘密の掃除法とかあるのかなあ。聞いてみるか……。


「よう、アーダルベルト。朝の鍛練の時間だぞ。お前も来い」


 相も変わらず朝早くに目覚め、街並みを何となく眺めていた俺に、こつこつと部屋の戸を叩き、やたら元気の良い無遠慮な声を届ける者が居る。

 うーん、あの人俺より若いんじゃないのか? そんなことを考えながら戸を開けると、如何にも動きやすそうな軽装をしたディディエが、腕を組みながら堂々と立っている。


「え? あのディディエが毎日やってるやつ、俺もやるの?」


「おうとも。お前もただ都会暮らしをするだけでは、森育ちの身体が疼いて仕方なかろう。折角だ、儂が直々に鍛えてやるぞ」


「まあ確かに、そろそろ木登りとかしたくなって来てはいたけどね。

 でも、俺がにディディエついていけるかなあ?」


「戯け、馬に跨りながら弓を引けるような奴が何を臆しておる。

 あんなもの、騎士でもあまりやらんのだぞ。そら、来い。何もしないのは勿体ないぞ」


 え、そうなのか? 騎士でもそんなにやらないんだ、あれ。

 ディディエは気が付けばもう俺に背を向けており、ずんずんと歩いていく。


「ああ、ちょっと待ってよ」


 *


 ノアイユ邸の裏手は開けた空き地の様になっており、囲うように木々が植えられている。

 何でも、木々の葉が訓練で出た音を吸ってくれてよいのだとか。本当かあ? いつも、結構部屋の中までばちんばちん聞こえてくるよ?

 ……いや、家の中に届くかはどうでもよくて、表に出ないようにしているのかな。それでも外までしっかり響いてそうな気はするけど。


「うむ。とりあえず、身体を解すところから始めなさい。いわゆる準備体操というものだな」


「あ、うん。筋とか伸ばすといいんだよね。父さんから教えてもらったから知ってるよ」


 俺たちは暫し黙って腕を高く上げたり、肩を回したり、足の筋をぐっと伸ばしたりした。

 ディディエは肘から先の関節を特に念入りに回しているようだ。剣を振るうなら重要なのだろうか?


「それで、何をするの?」


「うむ。とりあえず……懸垂からだな。

 あっちに棒があるのは分かるな? あそこにぶら下がって、腕の力でぐっと上に行くんだ」


 言うが早いかディディエは二本の柱の間に棒が渡されているものに近づいていく。そして、少し飛び跳ねてそこの棒にぶら下がると、顔が少し出るまで体を持ち上げた。逞しい。

 へえー。俺もやってみよう……ああ、これ無理だ。構造上の欠陥がある。


「ねえ、ディディエ。これ届かないんだけど」


 背伸びしても、跳ねても無理。

 今さら思うが、ディディエはでかいなあ。190ぐらいはあるんじゃないの?


「……後で踏み台でも用意しておこう。とりあえず今日は儂が持ち上げてやる」


 おお。届いた届いた……うーん、早く背が伸びないかなあ。

 棒を両の手でぐっと握りしめぶら下がると、なんだか懐かしい気持ちになってくる。森の中で遊んだ記憶が甦ってくるようだ。

 ぐっと体を持ち上げると、なんだか無性に楽しかった。


「手慣れているな。中々綺麗な姿勢をしておるわ」


 そう言いながらディディエも隣にぶら下がり、俺たちは二人で揃って懸垂運動を始めた。


「でも、ちょっと意外かも。ずっと剣とか振ってるわけじゃないんだね?」


「実際、剣を使った訓練をしている時間が多いのは間違いないがな。

 こういう基本的な体力づくりも、やはり大切なのだ。特に走り込みは王道だな」


「そうなんだ。ところでこれ、何回ぐらいやるの?」


「そうさな。儂は軽めに四十回ぐらいはやるが、お前は無理なく出来るぐらいでいいぞ」


 ……四十回もやってるの、これ? ほぼ毎日? 全然軽くないだろ。

 と、とりあえず俺は五回ぐらいでいいかな。


「……ふう、ふう」


「余り無茶はするなよ、怪我でもしたら大ごとだ」


「うん、大丈夫、これぐらいなら……ふう」


 案外出来るぞ。伊達に大自然の中で生きてきた訳じゃないんだなあ。


「ふむ……年を考えれば、かなり出来る方だな。この分ならその内、我が騎士団に伝わるあれも出来るかもなあ」


「あれ? ……っていうかよく喋りながらそんなに出来るね」


「慣れだ、慣れ。騎士なら皆出来るぞ。

 あれというのは、征剣騎士団員がたまにやるものでな。甲冑を纏って剣を背負い、決められた時間で何回懸垂出来るかを競うのだ」


 化け物か?


「ええ……何でそんなことを」


「ノリだな。力が有れば、競いたくなるものだ。ちなみに儂は六十二回の記録持ちだぞ」


 言葉も出ない。何で武装した上で日々の鍛練以上の数になるんだよ。


「……ふう。ま、こんなものだろ。さて、では次にいくか」


「元気だなあ……次は、何をするの?」


「ふむ。足腰を鍛えるのも悪くないが、素振りに移るか。お前は、剣を振ったことは有るか?」


「流石に無いよ。小刀は持ってたけど……」


「まあそうだろうな。さて、どうしたものか。通常、剣を教えるなら、まずその重みからよく聞かせねばならぬが……

 お前も、一端の狩人だ。命の何たるかは、語るまでも無いのだろう?」


 命、か。確かに剣とは、殺すための道具だ。何かを殺し、その生を断つことの先に何を齎さんとするのか考える事の出来ぬ者には、振る資格など無いのだろう。

 たとえそれが訓練用の木剣であっても、素振りだけをするのだとしても、決して無視すること叶わぬ戦士の矜持が、この問いに表れているのだ。


「……うん。俺は、もうそれを知ってるよ。命の上に立つというのが、どういうことなのか。

 何かを殺して何かを生かすという傲慢を、それが罪と知った上で、それでもそれを望む心を」


「年端のいかぬ少年とは思えん言葉だな。

 それも、独りで過ごした二年の歳月故か? ……ううむ。やや生真面目すぎる故の不安はあるがまあ問題は無かろう。……そら、これだ。とりあえず握ってみろ」


 ディディエがごそごそと持ち出してきたそれは、見た感じ使われていなさそうな、やや小さめの木剣だった。ディディエの体躯を考えると明らかに小さいため、それは恐らく、子供用の物だろう。

 ……怖くて、それが俺の為に新たに用意された物なのか聞けなかった。

そうならば別にいいのだが、もし昔居たと思われる子供のものだとしたら、なんだ。辛くなってしまう。多分お互いに。

 とりあえず余計な事は考えないで、言われた通りに握ってみよう。


「おおー。こうかな? どう?」


「ははは、中々悪くないぞ。でももう少し脇を絞めるんだ……そうそう、いい感じだ。ちょっと振ってみなさい。」


「はーい」


 ディディエの鍛練姿を思い出し見様見真似で木剣を振ると、空を裂く木剣が風切り音を上げる。

 振り抜くと、少し遅れて顔にまで到達する風がささやかに頬を撫でる。得も言われぬ心地だった。


「ほう? 筋が良いな。見真似でそこまで出来るとは」


「あ、真似してるって分かるんだ?」


「当たり前だ、何年振っていると思ってる。大体お前、真似る相手も他に居らんだろう」


 それもそうか。

 ……もう一度、二度と振ってみる。


「肩に力が入り過ぎだな。もう少し腕全体をよく撓らせ、剣の先まで力が伝わるように意識するんだ。

 それと、持ち方自体は悪くないが、常に強く握る必要は無いぞ。振り下ろす瞬間だけにしてみろ」


 言われたことを意識しようとはするが、中々難しいものがある。

 ……ディディエはいつも、どう動いてたかな。腕を、撓らせ――ひゅ、と先ほどより幾分甲高い音が響く。勢いは強くなり、しかし腕への負担は軽くなっているようだ。

 振り方への意識一つで、ここまで変わるものなのか。一回の指導でこれとは、うーん、流石は歴戦の騎士だなあ。

 そんなことを考えていると、ディディエがぽつりと呟いた。


「お前本当に初めてか?」


 嘘をついてると思われてるの? 心外なんですけど。


「そうだけど……」


「そうか。いや済まん、思っているより大分呑み込みが早くてな、才が有ると言っても良かろう。まあ、儂の教え方が上手いというのも大きいが。わっはっは!」


 そう言ってディディエは笑う。豪快だ。

 ……しかし、才なあ。昔から運動能力にはそこそこ自信があったが、まさかこの人にそう言われようとは。疑うというのもなんだが、本当だろうか?

 確かに弓を引くのも、木に登るのも、蔦に捕まって木の上を跳んで遊び回るのも全部得意だったが……。


「ちなみに、これはどれぐらいやるの?」


「ふむ。儂は軽い時は千回ぐらいしかやらないが、お前なら三十回もやれば十分だろう」


 千回……軽くて千回かあ……それぐらい当然にこなさないと、ああはならないんだろうなー……。

 騎士という存在に茫然と畏怖を懐きながら、素振りをする。気が付けばディディエも自分の木剣を持ち出して、俺と並んで振り始めた。

 ……桁違いに大きな風切り音、振られる剣筋は最早目に映ることも無いほどに早く、そんな速度で振り下ろしながら型に僅かなぶれも無く。

 かっこいい。俺もやってる内にこんな風になれるかなあ。……なってみたいよなあ、騎士。そんな、なりたいと思ってなれるようなものじゃあ無いのであろうことは、分かってるけど。


 暫くの間、ただの一言も交わされることも無く、ただ剣が空を切る音だけが響き続ける。

 気づけば静かに、今己が身を置いている境遇について考え始めていた。

何とも不思議な事だが、剣を振っているとどんどんと内省的になっていくようであり、自らに訪れた不幸と、そして有り得ざる幸運について思いを馳せざるを得なかったのだ。


 故郷は既に世から消え、親も、友も、行方は知れず。

 何の庇護も無く、森の中で遮二無二あがき、生を欲した日々。

 二年もの時をそうして過ごし、よもや大貴族の騎士様に拾われるなどという、大転換。


 人生とは、まこと何が起きるか分からないものだ。……そして、これからどうなるのかも、それは同じこと。

 詰まるところ、俺の今後の扱いはどうなるのかという不安が、俺の中には渦巻いているのだ。

 ディディエは、正真正銘、本当に本当の大貴族だ。ノアイユ家はラクァルの長い歴史の中、幾度となく騎士長を輩出してきたのだという。遡れば英雄に連なる血統を持ち、それが裏打ちするかのように、ノアイユ家の当代は皆、智勇に優れる傑物ばかりであったと、街で警邏をしている兵士のミシェルおじさんから聞いていた。


 曰く、彼らの率いる征剣騎士団は、不義を許さず、善く配下を律し、どれほど惨い戦にあっても軍紀を失うことは無く、何より強かったのだと。

 ただ高潔を以て外敵の悉くを平らげ、その整然とした無法なき征圧こそが、ラクァルの広い繁栄と安寧の礎になったのだと。


 要は、ノアイユ家の者は誰も彼もが英雄として名高いという話だ。

 一体自分はそんな名家で何をしているんだろう? 本来こんな田舎者が身を置いていてもいいような場所ではないのだ、ここは。

 ディディエは、何故俺をここに置いておくのだろう。彼の立場を考えると、俺が居ても良い事など何も無いように思えるが。ただでさえ地位のある所というのは、複雑怪奇な大人の事情とやらが呪わしき渦を巻いているのだろうに。

 ……俺だって、田舎者ではあるが、一応馬鹿では無い。たぶん。ダフネさんに色々と教わっているうちに、今の状況が有り得ないものであるということぐらい、分かってしまう。


「――どうした。何か、あまり心地よくは無いものを考えているようだが」


 うおお! 急に話しかけないでくれよ!

 驚きながら、一旦素振りを切り上げる。ディディエに向き合い、言葉を交わすことにした。

 向こうからわざわざ踏み込んでくれたのだ。俺も、勇気を出すべきなのだろう。


「……何で分かるの?」


「騎士というのはな、振られた剣を見れば、そいつがどのように生きて来て、今何を考えているのかぐらいなんとなく分かるようになるものだ」


 なんだその特殊能力は。魔術か? 魔術か何かか?


「何それ……うん。まあ、そうなんだけどさ。ねえ、ディディエ。何で俺をノアイユ家に置いておくのさ」


「ほぉーう? お前よもやここでの生活に不満でもあるのか?」


「違うよ、分かってて聞いてるでしょ。実際に不思議なんだよ。俺みたいな何処から来たのかも分からないような子供なんて、こんな貴族の邸宅に居る方が不思議じゃないか」


「……実際、それはまあそうかもしれぬがな。別に、誰に迷惑を掛けている訳でも無し、気にせずともよい」


「迷惑……ディディエはどうなのさ。貴族社会は大変だって読んだよ。家名がどうとか、誉がどうとか。

 付け入る隙があると社交界でひそひそ言われるんだって」


「何を読んだの……しかし、お前まさか儂に気を遣っているのか?」


 あ、やべ、怒られるかな。お前なんぞに気を遣われる必要は無いわ、みたいに。

 そう思って少し身構えていると、ディディエは大口を開けて笑い出した。


「――わあっはっは! そんなにちっこいなりで何を心配しておるか! お前に掛けられた迷惑ぐらいで、儂が揺らぐと思えるか?」


 それは、まあそうだろうが。きっと俺なんぞが何をしたところで、ディディエも、ノアイユの家名も傷一つ付かないのだろう。

 ――ところでちょっと、聞き捨てならないんですけど!


「背は関係ないだろ!」


「――いや済まん、くっくっ……まあ、実際にお前が色々と気を揉む必要は無い。

 騎士派の有力な貴族たちは元より、王党派の連中とてどうせ何も言ってこぬわ。

 ……いや、こんなことを言っても分からんか。とにかく、お前一人抱えたぐらいじゃ、何も起こりゃあせぬさ」


 そうなのかな。

 ん――騎士派、王党派。王……そういえば昔から、ここ鉄都の話でよく聞くのは騎士団ばかりで、王の話って聞かなかったなあ。

 ……きな臭い匂いしかしない! え? この国、王族より騎士の方が強いのか!? じゃあ王って何だ!?


「お、王党派……騎士と、王族って対立してるの……?」


「……お前にはまだ早い」


 まだって何。え、その内俺もそっち側に行くの? ……嫌だあ……。


「――ともかくだ、それは置いておこう。ある程度正直な話をするとだな、実際、大人の事情というのは色々あるのだ。

 政治的なあれやこれやで、もしかしたらお前が儂への嫌がらせに使われないとも限らん。それも、命に係わるようなやり方でな。

 だから、下手に他所の家に預けたりするよりも、ここで暮らさせた方が丸く収まるだろうと思ってはいる。

 だがそれを抜きにしても、お前の事はそれなりに気に入っておるのだ、儂とてな。だから、もう詰まらんことは言うな」


「うおお……貴族社会の闇を感じる……」


 命て。そりゃいくら何でも無情が過ぎるよ、貴族の世界……。

 ところで、そのあんまりな事情に慄いている間に危うく聞き逃すところだったが、今何か結構なことを言われなかったか?


「ん、ねえ、俺の事を気に入ってるって――」


「わっはっは! お前そこを掘り返すか! 恥ずかしいだろうがばか者。

 ……そりゃあ、考えてもみろ。二年もああやって生きてきたその根性、儂が気に入らんと思うか?」


「正直納得しかないね。自分で言うのもなんだけど」


「だろう。お前なら分かると思っていたぞ。

 ……あと、さっきの社交界で色々言われる系の奴はな、もう三十年前に色々あったから……」


 ディディエはそう言って剣を地面に立てて両手を置き、複雑な眼差しで遠くを見ている。

 三十年前というと……ダフネさんの件か。うーん、確かに色々言われそうだあ……。


「ああー……」


「ふっ、当時の下賤な馬鹿共を思えば、お前に纏わる面倒など可愛いものよ」


 そう言いながらディディエは不敵に笑う。

 ……その時のディディエの家庭の事情は分からないが、奥さんや子供さんがまだ居たとしても、或いは既に居なかったのだとしても、ダフネさんの存在は噂好きな人間たちの低俗な憶測を呼びに呼んだだろう。皆好きだからね、そういうの……。


「さあ、そんな事より鍛練鍛練! 何事もまず、屈強な肉体有りきよ!」


「ディディエが言うと説得力があるね……」


 言うが早いか素振りを再開するディディエを見て、つくづくそう感じる俺であった。

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