第四話 見知らぬところ、懐かしい匂い
そういう訳で、俺とダフネさんはラクァルの町へと出てきたのである。今日はよく陽も出ているし、実によい日和である。
お出かけするなら、もっとちゃんとした格好をしなくてはいけませんね? と言ってダフネさんが渡してくれた上着と帽子は、少しばかり窮屈ではあるが、仕立ても良く、まだ空気に冷たさの残る春先の肌寒さを綺麗に遮ってくれる。
ダフネさんは日よけに鍔広い帽子を被り、レースの上着を羽織っている。いよいよ貴婦人といった趣である。
俺たちは今、ラクァルで一番大きな通りである、広い道の左右に幾つもの店が立ち並んだ通称"跳ね馬通り"に来ていた。
名前の由来については諸説あるらしいが、旅人が連れていた馬が、ラクァルの余りの壮麗さに身の丈以上に飛び跳ねて驚いたのだ、という話が民衆には好まれているようだ。聞くところによればここは商業的に重要で、都市としてのラクァルの心臓のようなもの、らしい。
「ありがとう、おじさん。面白いお話だったよ」
「ああ、おじさんは何時でもこの辺に居るから、何か聞きたければまたおいで」
通りの警備をしていた、ちょっと暇そうな兵士のおじさんは、なんだかくたびれていた。曰く、最近あまり寝る時間が取れていないらしい。こんなに平和そうなのに。何か、事情があるのだろうか? 少し、気になった。
――しかし改めて、通りを一望してみれば、感じるのは。
「うーん、すごく人が多いね。やっぱり都会は違うんだなあ」
「うふふ、ここは特に行き交う人も多い大通りですからね。ラクァルに初めて来た人は、皆一様に驚くのですよ」
「それも納得だね。だって、奥の方なんてもう、ここからじゃ見えないぐらい長いし……
あっ、あそこ。もしかして薬屋さん?」
カーレン薬店という看板が目につき、ダフネさんに問いかける。
「ええ、そうです。あそこは、まだ若い女の子が一人で切り盛りしていらっしゃるんですよ。
ご両親を早くに亡くされて、それからずっと、受け継いだ薬の知識であそこを守っているんでから、立派なものですねえ……」
「そうなんだ……すごく、頑張ったんだろうね。親が居ないって、やっぱり大変だからなあ」
しみじみとそう感じ入らざるを得ない。
自らを庇護していたものが無くなって、急に独力で立たねばならなくなることには、俺も覚えが有る。
「ア、アーダルベルト君が言うと、重みがありますねえ」
おおいかん、返事に困らせてしまっている。ええととりあえず、ここは――
「折角だから見に行ってもいい? 薬が入用という訳じゃないし、迷惑かな?」
「あそこは身体によいお茶など幅広いものを扱っていますから、心配は要りませんよ。ぜひ、行ってみましょうか」
*
やや重い扉を押し開けて、店へと足を踏み入れると、なんだか馴染みのある、草の匂いがした。
商品が劣化しないようにか、厚手のカーテンで陽光を遮っている店内は少しだけ薄暗くなっており、それを補う様に、燐光を放つ奇妙なランプのようなものが壁に幾つもかけられている。火ではないようだが、あそこには何が入っているのだろうか?
「ああ、ダフネさん、久しぶり! 最近見てなかったけど、お元気そうで何より何より!」
入るなり、俺たちの姿を目に捉えた快活そうな少女が話しかけてきた。後ろに結わえている綺麗な赤髪が印象的だ。
「イェニ、お久しぶりですね。そういう貴女こそ、随分調子も良さそうで何よりです。
一時期みたいに、頑張り過ぎて倒れてたらどうしようかな、と思っていましたよ」
「もう、あの頃の話はやめてくださいよ。私だって、成長するんですから! ちゃんとぶっ倒れる前に休憩は取ってますー。
ところで、そっちの子は? ダフネさん、子供が居たの?」
うん? なんだか変な勘違いを為されているな? 俺とダフネさんはそんなに似てもいないだろうに。髪の色も違うし。
これは、きちんと否定しておかなくては。変な噂が流れたら、彼女の名誉に係りかねん。
「いえ、違います。俺は今ノアイユ家で世話になっている、アーダルベルトという者です」
……ダフネさん? 何故少し寂しそうな顔をする?
「あ、そうなんだ? うーん、まだ小さいのにしっかりしてて偉いなあ。よろしくね、アーダルベルト君。
私はイェニ。ちょっと変わった名前でしょ? お父さんが北方の人で、そっちの言葉からとったんだって。
……ところでお二方、本日は一体何をお探しで? ディディエ様が腰でもやりました? ……いやーあの人に限ってそれはないか」
だんだんディディエがこういう扱いをされているのにも慣れてきたぞ。そもそも初対面の時があんなのだったから、それで違和感も無いし。
「俺、今日初めて街に出てきたんです。それで、うわーって眺めてたら、ここが気になったので来てみたんですよ」
「え、それで薬屋に? ……君、中々良い趣味してるねえ! こういうの、好きなの?」
実はそうなのだ。俺は、村一番の知恵者であったマルゴー婆さんに色々と教わっている。
マルゴー婆さんは昔はラクァルに居たこともあるらしく、村の中では知り得ないようなことも、山ほど知っていた。タレル村でも、森に散々生えている草の薬効についての認識はあったものの、それらの効率の良い精製の仕方や、より効能が高まる組み合わせ方は、皆マルゴー婆さんが伝え広めたらしい。
それに憬れてあれこれと訊ねる俺に、マルゴー婆さんは面倒くさそうにしながらも、なんだかんだで律儀に教えてくれたのだ。それは読み書きに始まり、都会での常識も、村には伝わらぬ面白げな機械も、薬草学の知識も、魔術とかいう誰も知らない変なものも、なんでもあった。
他の子どもたちは、勉強なんてしてる暇があるなら仕事を手伝いなさい、とどやされるから誰も付き合ってはくれなかったのだが、俺は父さんが「興味が有るなら、やってみろ」と認めてくれていたから、色々な事を知ることが出来た。
今にして思えば、父さんのあの判断があったから、森で傷つくことがあってもなんとか身が持ったのだろう。
「はい、ずっと森の近くで暮らしていたから、薬草の類には結構馴染みがあるし、好きなんですよ。
都会のお店だと、見たこともないような物もあるのかなって気になって」
「おお! いいねいいねぇ、若いのに珍しいなあ。
家にふらっと来るお客さんは、大体健康になりたい年配の人か、お使いで湿布や栄養剤を買っていく子供ぐらいだからねえ。
君みたいに薬そのものに興味がある人って、ほとんど居ないんだよ。
……そうだ! なら、折角うちを選んできてくれた君に、良い物を見せてあげよっか、ちょっと待っててね」
言うが早いか返事も待たず、イェニさんはいそいそと店の奥へ姿を消した。
手持無沙汰に店内を眺め、棚に村でも見たような薬液が並べられているのに気づき、なんだか懐かしくなった。
あれは……ラベルに油霜草と書いているな。油が滲んでいるかのような葉の表面の艶が、名の由来だという植物だ。そのままでは強い苦みが喉に纏わりつきとても食せるものではないが、酸のあるものと合わせると不思議と苦みは消え、甘味へと転ずるのだ。
子供の間でも結構人気なおやつとして親しまれていた。酸っぱい山葡萄の実をその葉でくるんで、口に放り込み噛み締めると、初めはやたら苦いし、妙にすーっとする匂いも有るしで辛いのだが、山葡萄の果汁が広がってゆく程に、仄かに甘味が湧き上がる。結構面白い感覚がするのだ。村で甘いものといったら貴重な蜂蜜とこれぐらいなものだったから、皆これを楽しんでいた。
俺が想い出に浸っていると、何やら如何にも古めかしい空気を纏う黒い木の箱をもち、イェニさんが戻って来た。
「お待たせー!」
「おお、なんだか立派な箱ですね。この中に、その"いいもの"が?」
「ふふふ、慌てない慌てない――」
イェニさんは机の上に箱を置き、恭しく蓋を外す。
何時の間にやら、ちょっと下がって後ろの方から俺を見守っていたダフネさんも近くにきていた。中身が気になるのだろう。
果たしてその中に鎮座しているものは、水分を失いからからに乾ききって尚、その真紅を損なわぬ、美しく気高い花であった。
「これ、花ですか? ……乾燥しているのに、この色味。まさか?」
「うーん、初めて見ますねえ、これ。本当に綺麗な色をしていますが」
「……ふふふ、聞いて驚け、これがかの有名な、地神アギガのお膝元、熱砂都市マク・キシカに咲くという、幻の"命の花"だ!」
「や、やっぱりこれがあの!? ほ、本物なの!?」
「うーん、私は知らないですね……」
「命の花はね、なんでも、死者すら蘇らせる……なーんて伝説があるほどの薬効があって、とっても高値で取引されてたんだって。
王侯貴族も御用達、ってね。そんなんだから、皆躍起になって乱獲しちゃって、元から多くないのに更に減っちゃったんだよ。
こうやって、乾してから使うんだけど、こうなっちゃったら近縁の種と区別もほぼ付かないから、偽物も山ほど出回ってるし……
酷いやつだと、ただの干し草を赤く染めただけだったりするからね。薬どころか、毒草だったりさえしたこともあるらしいし。
でも、これは本物なんだ。お父さんが、病気のお母さんのためにマク・キシカから取り寄せてたんだよ。……まあ、使う機会は無かったんだけどね。
うーん、何回見ても、綺麗な赤色。これで薬を作ると溶岩みたいに真っ赤に輝くって言われてるけど、納得だねえ」
俺たちは三人そろって、その貴い赤にすっかり見惚れていたが、
やがて誰ともなく我に返ると、イェニさんはまた恭しい手つきで箱に封をし、元の場所へと仕舞いに行った。
戻って来た彼女は、いいもの見たでしょ? とにっかり笑うのであった。
「ありがとう、イェニさん。俺、こんな物を見られる日が来るとは思ってなかったよ」
「でしょ、でしょー。私も最初に見た時はそんな気分だったよ」
そう言いながらイェニさんは、ごそごそと棚から何かを取り出している。
ややとろみのある何らかの液体が収められた瓶のようだが、あれは何なのだろうか?
「それは?」
「これはダフネさんに前に相談されてたやつでね、良い機会だから今渡しちゃおうと思ってさ。
じゃあ、これをどうぞ。ご注文通りの、よぉ~く効く栄養剤ですよ。ちょっと、味と効能を両立させることは出来なかったんだけど……」
「あら、ありがとうございます。これでディディエ様もますます元気になられますわ。
あの方はずっと働き通しですから、労って差し上げなくては。味はこの際無視しましょう」
「……大丈夫かな? 結構ね、あの。慣れてる私でもそんなに美味しくないんだ」
イェニさんは、言葉を選びながらそう言った。慣れていても美味しくないとは即ち、慣れていなければ相当に不味いのではなかろうか。
「……そんなに凄いのですか? なんだかちょっと興味が湧いてきましたね」
「じゃあ折角だし、味見はいかが? 今ちょっと、三人分持ってくるから、待っててね」
え、あれ? 俺も飲むんですかそれ?
俺が何か言う前にイェニさんは店の奥へと消えていった。
……やがて、件の栄養剤が注がれた三杯のコップを盆にのせて、笑みと共にイェニさんが現れた。
「はい、お待ちかねの……カーレンのお店謹製、栄養剤十三号"すっごく不味いけどよく効く奴"でーす」
……不味いって言ってるじゃん! なんという、身も蓋もない名前だろうか。
イェニさんのその素敵な満面の笑みは、しかし我々二人に緊張を与えてくる。
言い出しっぺのダフネさんは、既に腰が引けている。ダフネさんが何かを言う前に先手を打って、飲ませて貰うことにした。
好奇心に巻き添えにされこの状況に置かれているのに、俺だけが飲むようなことになっては、道理が通らないだろう?出してもらった物を無碍にするというのも、よくないしね。では。
――その退路、断たせていただきます。
「わあ、どんな感じなんだろう。じゃあ、ダフネさん、お先にいただきます」
手渡されたコップを、円を描くようにくるりと軽く回す。
とろみを帯びる、やや褪せた濃緑の液体は、静かに揺すられ波紋を生じ、それと同時に香りが立ち上がる。
……うーん、ああ。まあまあの草の匂いですね。これぐらいなら、まあ普通かな。
一口含む。苦い。まあ予想通りではある。僅かに舌への刺激があるなあ、これは慣れていないと辛いかもしれないね。飲み込んでみれば、苦みはゆっくりと引いていき、後味は妙に爽やかなものだ。草の匂いが鼻に残り続けることはともかく。
うーん、いう程不味くは無い。森で食っていた身体にいい草に比べれば、十分食料としての適性があるといえるだろう。
「あ、思ったよりは普通ですね? あはは、イェニさん、大分脅かしましたね。
ダフネさんも飲んでみましょうよ」
これは決して陥穽へと誘い込む罠ではない。実際に偽りなき本心である。
平気な顔をしながら、コップを呷り、飲み乾した。
「あら、そうなの? じゃあ私も……」
ダフネさんはおずおずと手を伸ばし、躊躇いがちにそれを口に含む。眉を顰めた。
……口を手元で抑えている。ああ、辛そうだな。なんとか嚥下は出来たようだが今度は鼻に抜ける匂いが辛いのか、鼻の下に曲げた指を当てて、何だか神妙な面持ちをしている。そして、空になった俺のコップと俺の顔を交互に見て、口を開いた。
「なぜ」
なぜ騙したんですか。なぜ平気なのですか。そのような気持ちが綯い交ぜになった一言であった。
見れば少し涙目になっている。そこまで、辛かったのか……。
「ご、ごめんなさい……ダフネさんがそこまで苦手だとは。
ほ、ほら、俺は森暮らしが長かったから草がちょっと平気だったんでしょう、うん。
まさか、ここまで感覚にずれがあるとは、思ってなかったんです」
「あっはっは、やっぱりダフネさんはいい反応をするなあ!」
やっぱり? もしや、何度もこのようなことを繰り返しているのか?
イェニさんは笑いながら、当然のように自分の栄養剤を苦も無く飲んでそう言った。ダフネさんは信じられないようなものを見る目で、平気にしている俺たち二人を交互に見て、もう一口だけ薬を啜った後、やっぱり諦めてすっとお盆に返したのだった。
「ごめんなさい、わたしにはむりです」
「ダフネさん、鼻をつまむより、息を鼻から吸って口から吐いた方がマシになりますよ」
経験に基づく実地的アドバイス。イェニさんもうんうんと頷いている。
「そうします……」
ダフネさんは萎れた花のように力なく佇んでいる。
何だか悪い事をしてしまった気分だが、そもそも最初に興味を示したのは彼女である。お、俺は悪くないはずだ。
……町で何か美味しいものでも買おう。うん。
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