第三話 いざ都会

 これまでの長きに亘る森暮らしの疲れからか、あれから翌日まで丸一日眠りこけ、そしてこれまでと同じく、日の出の前に目が覚めた。流石に二年も続いた生活の習慣は、容易く変わるものではないらしい。カーテンを開け、未だ薄暗い黎明のラクァルを眺める。


 人家には、まばらに明かりがつき始めていた。通りなどに往来がある訳ではないが、既に町の人々も目覚め始めているらしい。

 パンでも焼くのだろうか。わくわくしてくるね。焼き立てのパンなんて――そもそもパンなんて長らく食べてない。村が消え去ってから、木の根と葉っぱ、キノコと魚と肉と木の実ぐらいしか食べていないのだ。


 ……あれ、結構色々食べてるな。やっぱり森や川が豊かというのは、素晴らしいね。でも、小麦や豆の類は食べられなかったし、何より、塩が無いのには結構参っていたのだ。昔はうんざりするほど塩っ辛くてあんまり好きでなかった干し肉だって、あの時あったら涙を流して喜んだに違いない。


 うーん、そういえば、随分お腹が空いたなあ。考えてみれば、最後に食事をしたのは、森からラクァルに来るまでにディディエに分けて貰った、やけに脂っぽくもそもそする、味気ない謎の玉だけだったもんなあ。

 ろくに料理らしい料理も食べてこなかった、舌が肥えるどころか痩せきって飢え死んでそうな俺でさえ、別に美味しく感じなかった。あれは、一体何で出来ていたんだろうか……まさか、兵士の行軍用の携帯食料か? ディディエ、無表情で食べてたなあ。

 虚無って感じだったね。あれは、断じて食事じゃあない、栄養補給だった。


 ……結構早いけど、もう起きていっても大丈夫だろうか。悩んでいても仕方ないか。誰も居ないなら、適当に庭で体操でもしてればいいさ。音がしない様に、そっと部屋の扉を押し開けた。


「おはようございます、アーダルベルト君。朝が早いのは、健康的で何よりですわ」


 居る。居るんだが。いつから居た? 俺が寝ている間、ずっとそこで待ってたのか?


「……お、おはようございます、ダフネさん。何故ここに?」


 俺が戸惑いながらも挨拶を返すと、その完璧な淑女は柔らかに微笑んだ。

 ――美しい。でも素直に感じ入っていられない。正直この美しささえちょっと怖い。……その内慣れるんだろうか。


「ええ、案内があった方がよいかと思い来てみたのですが。不要でしたか?」


「いえ、ぜひ欲しいです。正直、トイレ以外の場所が分からないです」


 ディディエがご丁寧に身ぶり付きで、お前の部屋から右に行って、二番目の角の、こっち! みたいな風に何べんも刷り込んでいったため、お陰様でトイレの位置だけは完全に覚えている。


「ええ、どうぞこちらに、着いて来て下さい……ディディエ様、やはり最初にトイレだけはきちんと教えていくんですね……」


 ダフネさんは踵を反し、俺を導いてくれている。……何やら興味深い呟きを零しながら。


「ああ、そういえばダフネさんも、ディディエに拾われたって聞きましたよ。もしや、その時ダフネさんも?」


「あら、耳が早いですね。実は、そうなのですよ。……あれは、一体何なのでしょうね?

 ディディエ様、場所が分からなくて困ったことでもあったのかしら……」


「あったのかもしれないけど、聞いても教えてはくれなさそうですね……こんな話はそろそろやめましょう。

 ダフネさんって、生まれはラクァルなんですか? 俺、自分の村から出たことが無いから、色んな所の話を聞いてみたいんですよ」


 俺がダフネさんへと問いかけると、彼女は悩まし気に頬に指を添えた。


「うーん、それは……ちょっと、難しいですねえ。実は私、昔のことに関する記憶が曖昧なんですよ。

 たぶん、他所から来たんだとは思うのですけれど……」


「え? そうなんですか。残念だけど、それじゃあ仕方ないですね」


「うふふ……でも、ラクァルの事なら、代わりに教えてあげられますよ。私も結構、長く住んでいますからね。

 美味しいパン屋さんに、美しいカトラリーを作る銀細工師さん、猫が集まる秘密の場所だって知ってるんですよ?」


「わあ……ラクァルでは、パン焼きは職人の仕事になってるんですね。タレルだと共同の釜戸が有って、月に一回だけ火を入れるから、

 その時に皆それぞれ生地を持って行って、一月かけて食べきる馬鹿みたいに硬くてでっかいパンを焼いてくるんですよ」


「まあ。そういうのも楽しそうですねえ」


「最後の方になってくると、もう石みたいになっちゃって。なんなら水で戻してから食べたりするんですよ。

 タレルの真ん中には立派な湧水があって、母親の食事の用意を手伝って、よく水を汲みに行ったものです。

 友達と鉢合わせたりしてね、桶の重さに互いに愚痴を言いながら、よく並んで帰って――あれ、何だか俺ばっかり喋ってますね。

 おかしいな、最初は話を聞こうとしていた筈なのに」


「うふふ、とても楽しいお話でしたよ――さ、こちらの部屋です。

 今、食事を用意しますから、暫くの間待っていてくださいね」


「あ、なら手伝いましょうか」


「いえいえ、気持ちだけで大丈夫ですよ。お腹も、うんと空いているのでしょう?

 先に持ってきますから、牛乳でも飲んでゆっくりしていてくださいな」


 返事をする間もなく、大きな音を立てて、俺の腹が鳴る。恥ずかしいからあと少しだけこらえて欲しかったなぁ……。

 ダフネさんは飽くまで品よく、細やかにくすくすと笑い、食事の支度をしに出ていった。具体的に腹の音がどうこうと言わないのは、彼女の情けなのだろう。


 *


 ダフネさんが作る食事は、とても、とても、美味しかった。

村では一偏たりとも出てこなかったような、柔らかで、乳がたっぷり入っているのであろう、白い小麦のパン。

 前日にローストしてあったという肉は、その骨を出汁に作られた優しい味わいのスープで野菜と共に煮込まれて、柔らかくほぐれている。

 消化が良くなるというハーブと共に茹でられた豆は、強い甘味の真っ赤な根菜と和えられその色に染まり、綺麗な紅梅色をしていた。


 そのどれもが余りに優しく、身体にすうっと、無理なく染み渡る感じがする。用意された料理が、するすると胃の腑に納まってゆく。

 気づけば、泣き出していたようだった。またか、と内心苦笑する。この間から、どうにも涙もろい。いやになるね、全く。


「……ふふ、ゆっくり、よく噛んで食べましょうね。お腹の負担になると、いけませんから」


ダフネさんは、穏やかに微笑みながら、そう諭してくれる。


「はい。すみません、美味しいくてつい。ごめんなさい、食事の作法とかは、全然わからなくて……」


「今は気にしなくても大丈夫ですよ。でも、そのうち一つ一つゆっくりと覚えていきましょうね」


「うん……そういえば、ディディエはもう起きてるんですか?」


「ディディエ様はとうに起きていましたよ。町中を走り込んで帰ってきた後、食事をして既に騎士団の方へと向かわれました。

 あの方は色々と立場がありますから、第一線は既に退いているとはいえ、忙しいんですよ」


「へえー……朝から大変だなあ。タレル村の件でも報告するのかな?」


「そういえば、そこから来たって言ってましたね、アーダルベルト君は。

 ディディエ様に少しだけ伺ったのだけれど、一体、何が起きたら君のような子供があんな恰好をして、森で暮らすことになったのかしら?」


 ん、そういえばダフネさんには詳しい事は話してなかったな。じゃあまずは、簡潔に要約して――


「いやあ、ちょっと……森に行って帰ってきたら、村が丸ごと消えてたんですよ」


 俺がそう語ってから、ダフネさんが反応するまでには、少しばかり時間がかかった。

 無理もない。だって当事者である俺にさえ、訳が分からないんだから。


「…………まるごと?」


 ダフネさんは、本当によく分からない、といった顔をしながら頬に手を添え首を傾げ、乾いた言葉でそう反芻している。

 そしてやがて、首を反対側に傾げた。もしかして永遠に繰り返し続けるのではないか?

 それを見ていても面白そうだとは思うのだが、このままにしていても仕方が無い。


「ええ、そりゃあもう、綺麗さっぱり、コップの一つも残さずに、人も、家も、何もかもぜーんぶ、無くなってたんです。

 家を建てる前に地ならしした後みたいに、真っ平な地面だけが残ってて」


「まあ。何が起きたらそうなるのかしら……」


「見当もつきませんね、正直……とにかく、それからずっと独りで過ごしていたんです。

 どこかに助けを求められれば良かったんですけど、近場に村なんて一つもないし、ラクァルまでは道も分からないし、仮に道が分かったところで、旅に必要な食糧の用意が出来ないから、どのみち絶望する他なかったでしょう。

 何せ、塩も香辛料も無いんです。試しに干し肉を作ろうともしてみたんですけど、傷んでしまって駄目でした。……腹を空かせた獣も寄って来るし。

 いつかは人も来るだろうと思ってずっと森の中で生き延びていたんです。ディディエ以外本当に誰も来ず、二年も過ぎてしまいましたが……」


「うーん、あの辺りに村が在るなんて、知っている人の方が少ないんでしょうね。

 実際、ディディエ様も鍛冶師の方から、そういえば毎年変な所から来てた爺さんが来ないんだ、なんて話を聞かなければ、向かうことも無かったでしょうからね。ラクァルでは、あの森は人を拒むだなんて言われてますし……」


 ゴ、ゴロダフの爺ッ様のことか!? ありがとう、助かったよ本当に!

 ……いや待て、確かに最初に会った時、ディディエがそんなことを言ってた気がするな。色々あり過ぎて忘れてた。

 しかしあの森、何て言われ方をしてるんだ。俺の命を繋いだ、恵み豊かなところなんだぞ。まあ、確かにちょっと豊か過ぎて出られないぐらい深かったんだけども。


「……え、そういう扱いなんですか? うーん、確かに滅茶苦茶深いし、危ない獣も多いし、一回迷えば村人でも帰って来られない、なんて散々脅かされて育ってきてますが、良いところなんですけどねえ」


「そ、そうなの……」


 なんかちょっと引かれてないか?

 ……まあいいや。そんなことより、聞いておかねばならぬことがある。


「今日は一回町を見てきたいと思ってるんです。何か、気を付けた方がいい事とかありますか?」


「そうですねえ……ラクァルは、他に比べても随分と治安が良いようですから、自分から裏路地に行ったりしなければ、大きな問題は無いでしょう。

 ……ところで、案内も無しに一人で行く気なんですか? 別に、遠慮なく頼ってくれても構わないのですよ?」


「え、でも大丈夫ですか? こんなに広いお屋敷を、ほぼ一人で管理されてるんでしょう?

 掃除の一つだって、大変な時間がかかるのでは?」


「ふふ、心配してくれてるの? ありがとう、でも大丈夫。私は、綺麗にすることが得意なんですから」


 うーん、いくら掃除が得意と言っても、この規模の屋敷をすら単独で賄えるものなのだろうか? ダフネさんは一体何者なんだ、本当に。

 案内……折角、こう言ってくれている訳だし……いやでも……そうして、あれこれ逡巡しているうちに、ディディエの言葉が脳裏を過った。

 子供なのだから、他者の力を借りる事を思い出せと。その言葉に背を押され、勇気を出して、こう訊ねる。


「ダフネさん、町の案内をお願いしてもいいでしょうか?」


「ええ、もちろん。喜んで、承りますわ」


 ダフネさんは胸の前で軽く両手を合わせ、にっこりと慈愛に満ちた笑みを浮かべ、そう言ってくれたのであった。

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