第二話 鉄の都、ラクァル
ディディエと俺が、馬と往く。途中で日を跨ぎ、何度か休憩を挟みつつ移動し続け、空が少し白んできた頃、大きな城壁と門が見えてきた。
初めて見たが、あれが名高きラクァルの大城壁なのだなあ、うーん本当に大きい、どうやって作ったんだろう。タレルで一番立派だった建物の何倍あるかも分からない。
しかし、ディディエの馬は大変な名馬らしい。武装した騎士に人間一人を乗せて、獣と対峙して、二日ほどの旅を経て尚もへばることも無くここまで辿り着くとは。
ゴロダフの爺ッ様が鉄の買い付けにラクァルに往くときは、確か片道で四日程の旅程を取っていた筈だ。
「よう、ディディエである!」
ディディエがひと声かけると、如何にも生真面目そうな門番がそそくさと明かりを持ち出して、その顔を照らして確認する。
「これは、ディディエ様! おーい、門を開けろ!
――この様な時間までお出かけとは……あの、血が付いていますが?」
大きな音を立てて、鉄の門が開いていく。こんなに大きな鉄の扉が、自分の重さで壊れることもなく立っているなんて。
流石は鉄の都、ラクァルだ。きっと、何かよく分からないすごい技術が使われているんだろうなあ。
「ああ、心配するな、返り血だ。森で一悶着あってな」
「別に私だってディディエ様がお怪我されたなどとは思ってませんよ。その後ろの……子供は?
随分な身なりですが、まさか、奴隷商でもぶち殺して連れてきたのですか?」
何だか凄い事を言っている。ディディエ、そういう感じの印象を持たれてるのか。あの強さだしなあ。
……ところで、もしかして俺、攫われてきた異国の蛮族みたいに思われてないか?
うん……再び改めて自分を見返してみると確かに、毛皮と木皮、蔓と葉っぱで繕ったボロボロな服。伸びっぱなしの髪もぼさぼさだし、ブーツだって穴が空いたから、適当にあったもので修繕したんだった……仕方ないね!
「ええい、いつの時代の話だ、それは。今のラクァルには奴隷商なんぞそう居らんわ。
お主は知っておるか? 鉄都の北西、深い深い森が有るだろう? そこの奥にはひっそりと村が有るようでな。
こいつはな、そのタレル村の者だ。なんでも、村がすっかり無くなって、一人で森で生きていたらしい」
「なんと。あの黒森の奥に村が在るとは、知りませんでした。
しかし、そのような若子が、一人で? 一体、どうやって……いえ。ならばとにかく、お入りください。
その子を、早く休ませてやらねば」
「ああ、そうするさ。――では、夜分の務め、ご苦労である」
門番との語りも切り上げ、ディディエと俺は馬に乗ったまま門を通ってゆく。
ラクァルの城門は、その入り口が特殊な二重構造になっていて、表の門を越え少し進んだところにもう一つ、やや小さい門があった。
きっと、敵に攻め込まれたときに、一度に多くが入ってこられないようにするための工夫なんだろうなあ。いや真意は分からないけど。
やがて、その門も越えるとき。目に飛び込んできたのは――――
「で……でかい!」
「こら、まだ夜明けだぞ。叫ぶな叫ぶな」
おっと。
……無理も無いのだ。うん。本当に、余りにも。タレルの数十倍、数百倍。本当に、比較するのも馬鹿馬鹿しい。ここが人の住む家だとしたら、タレルは鳥の巣以下の大きさしかないだろう。なんてこった。
「でかすぎる……」
「おうとも。伊達に、大陸最大の都市と謳われている訳では無いのだ。
……これが、ラクァル。血神ザリエラの聖地、鉄の都、ラクァルだ」
そう言いながら、その街並みを見据え、ディディエは実に誇らしげな笑みを浮かべていた。
きっと若き時分から、誇りある騎士として、ずっとこの国を背負って剣を掲げていたのだろう。その横顔は、遥かな時を戦い続けた戦士の、遠くなった過去を想う顔だった。
ディディエの言葉の中に気になる響きがあることに気づき、問いかける。
「血神の、聖地……。ねえ、血神って、神話に出てくるあの六神の?」
血神ザリエラ。名前は、確か一度だけ聞いたことが有る。マルゴー婆さんが、村で祀っている神様について、こっそり教えてくれたのだ。
タレルでは、ただ"神様"として、名を語ることも無くみな信仰していたけれど、余所では神様は一杯居るのが普通なんだって。
「ああ、そうだ。流石に、お前のような幼子でも知っているか。
――かつて、今の世界の始まりの時、光が失われることが有り、闇の中で苦しみ死にゆく我々を憐れんで、光の神が降り立った。
その降臨に伴った六つの神々、その内の一柱、戦いと勝利の女神、血神ザリエラの加護の下にこの国は栄えたのだ」
おおー。マルゴー婆さんのお話って、本当だったんだなあ。
初めに降り立った光輪の神、即ち神々の主と、それに随った六つの神。今に語られるところの、"柱の六神"だ。
世界を照らす光輪の神。天空の支配者。大地に深く根差す者。暗き海を渡る者。法と報いの守護者。不滅の戦神。全ての名と運命を知る者。
……うーん、色々な称号のようなものが並んでいると、何だかワクワクしてくる。俺も何か欲しいなあ、そういうの。森育ちのアーダルベルト、とかどうかな。うん、駄目だ。あとでゆっくり考えてみよう……。
「へえー。ところで、今、どこに向かってるの?」
「儂の家に決まっておろうが。ほれ、此処からでも見えるであろう。あそこの屋敷だ」
そういって指を差した先には、訳が分からないくらいでかいお屋敷が聳えているのが見える。
……ちょっと大きすぎやしないか。あそこだけ遠近感狂ってない?
「さあ、行くぞ。まずはお前を一遍、綺麗にしなくては。……庭先で洗うが、よいな?
こればかりは、口答えさせぬぞ。汚れたまま、家の中に入れさせる訳にはいかん!」
歩きながら、ディディエが語る。
俺、今もしかして畑から取って来た野菜みたいな扱いを受けてる?
「ええー。お風呂とか、無いのか? 都会にはそういうものが有るって聞いたぞ」
人としての扱いを、言外に要求する。
マルゴー婆さん、今あなたの教えてくれた知識が凄く役に立っているかもしれない。昔は、そんなの聞いてもしょうがないよー、なんて笑ってたけど、人生分からないもんだね。ありがとう……。
「ほう? あのような辺鄙な村の出の癖に、良く知っているな。駄目だ。一遍表で洗ってからにしろ。
その着ている服も……服というのかな、それは。とにかくその毛皮だか葉っぱだかも、持ち込ませないからな」
マルゴー婆さん、駄目だったよ。俺は少しの間、ヒトからカブに降格するみたいです。葉っぱも取られるしね。鍋でグツグツ煮込まれない様に気を付けます。
「ええ? これ、結構気に入ってるんだけどなあ。代わりの服とか、あるの? 爺さんのじゃあ、大きさが合わないよ」
実際、着替えの有無は気になるところだ。全裸でうろつき回ることに何も感じない年ではないのだ、俺だって。
もう……えーと、十一歳ぐらいだったかな。うん。そろそろ、子供の終わりが見えてくるところだろう?
「気にするな。子供用の服ぐらい、あるわ。
……ああ、捨てなど、しておらん」
そうぽつぽつと語るディディエは、随分遠くを見ているようだった。
……歯切れの悪さに、予感を抱く。そもディディエがこれ程までに、物事を断言しなかったことは、初めてだ。
これは、何かある。それも恐らく、余り掘り下げるべきでは無いものだろう。
子供――子供とは、何かと弱い生き物だ。多分、そういうことなのだろう。タレル村で、もうそれは実感していた。
友達が減ることは嬉しくなど無かったし、大人たちが涙を流しているのも、見ていて嫌だった。……野辺送りの光景と物憂げな笛の音は、今でも時々、夢に見る。
「――そりゃあ、よかった。爺さんの服を勝手に縫い直さなくても済むんじゃあ、楽でいいよ」
「お前、針仕事も出来るのか? 多芸な奴だ」
「母さんがやってたやつの真似しかできないけどね――ところで、あの、ここで合ってるの?
あっちの方じゃなくて? こっちの方だとちょっと人が住むにはでかすぎない?」
俺たちは、先ほど指差されたお屋敷の前に立っていた。
でかすぎる。遠くから見ていても大きいと感じていたのに、近くに来てみれば、これはなんだ。巨人の家か? タレルの村民全部が住めるんじゃないか? これ。
……だから、余りに常識から外れた眼前の光景から逃げ、隣にあったもう少し小さい建物を指差し、訊ねざるを得なかったのだ。それは何かの間違いなのではないか、と。
「何を言ってるんだ、お前は。あっちの建物はただの物置だぞ」
「は?」
居住地ですら無いのかよ。
眩暈がしそうな思いを抑えつけながら、見事に手入れされた庭園を進んでいく――
「これは、ディディエ様。こんな時間にお帰りとは、珍しいですね。その上、お客様を連れて来られるなど、どれほどぶりでしょう」
うわ、びっくりした。何ならディディエも驚いてる。森の中で巨獣に襲われてもびくりともしていなかったのに。
声の方へ振り向いてみれば、もの凄い美人が居た。年の頃は、二十歳ぐらいだろうか?
黒くまっすぐ艶めいた、丁寧に手入れされた腰まである長い髪。肌は雪の様に白く、だが頬には僅かに朱が差し、引き込まれそうに深く暗い紫の瞳の女からは、得も言われぬ、香のような、嗅いだことの無い薫りがした。
……いったいいつから居たんだ、この人。梟より気配が無かったんだが? え、表に居たのか? こんな時間に?いま、戸の空いた音とかしなかったよね?
「おう、ダフネか。戻ったぞ……ところでお前、今どこから出てきたの?」
ディディエ、あんたも分からないのか……。
「そんな、ディディエ様。乙女にそのような事を聞くなんて、それも、このような可愛らしい子の前で……」
ダフネと呼ばれた美女は、恥じらい目を伏せ、頬に手を当てている。なんでだよ。
どこから来たのか聞いただけだっただろ、今。
「え? 今、儂はそんなに何か、際どいことを言ったか?
……なあ、アーダルベルト」
俺に聞かれても。っていうか俺の名前覚えてたのか。
ここまで一回も言ってなかったから、忘れてて呼べないのかと思ってた。
「あら、素敵なお名前ですね。ねえ、君……どこから来たのかしら? それは、弓ですか?」
「え、あ……うん。俺は、タレル村から来たんだ。狩人、レジスの子。アーダルベルト。初めまして、お姉さん。これは、俺の弓だよ」
「まあ、狩人の。それで、弓を持っているのですね。
それで、タレルから……ええと、知っていますよ……うん、聞いたことはあるのです、うん」
ダフネさんは目を瞑り、何かを考えるように顎に手をあて、うんうんと頷いて、そこでそのまま発言が終わった。これ絶対よく知らないやつだ。
彼女はそのまま暫し硬直し、やがてちらと片目だけ少し開いて、此方を窺ってくる。目が合った。俺が何を言うことを期待しているんだろう。
「ダフネ、知らんだろ。別にこいつは多分気にせんから、あまり気を遣わなくても良い。
遠慮なぞいらん。こいつ、儂の事を"爺さん"などと馴れ馴れしく呼ぶんだぞ」
「まあ……! それは中々、見どころが有りますね、アーダルベルトくん。
そうなのですよ、この方は、もう結構なお年なのに何時までも気が若く、危ない事をしてばかり。
大方今回だって、どこかで賊なり怪物なりを血祭りに上げてきたのでしょう? 私は心配で心配で……。
どうかこれからも、この方に自覚を持たせるための手伝いをしてやってくださいね」
ダフネさんが両手を合わせ、何やら目を輝かせて楽しげにそう語る。ディディエ、やっぱりそんな感じなんだなあ。如何にも老いてますます盛ん、という感じだもんな。
……というか血祭りって……いや確かに血祭りだったかもしれない。
「ダフネ、お前なあ……まあいい、儂はこいつを綺麗にしなけりゃならん。
水は儂が用意するから、お前は拭くための布と、適当な着替えを見繕ってくれ」
「ふふ……はい、只今お持ちします」
そう言って、極めて普通にばたんと扉を開け閉めして、ダフネさんは屋敷の内へと消えていった。
……やっぱりさっき出てきた時、絶対そこ通らなかったよね?
「ねえ、爺さん……ダフネさんって何者なの? 家政婦さん?」
俺が問うと、ディディエは桶に水を貯め始めながら、背中越しに答える。
「ああ。昔、行き倒れていた所を拾ってきてな、住み込みで働かせているんだ。
頭もよく、礼儀作法もしっかりとしている。そこらの貴族に引けを取らないどころか、大抵の者を上回ってさえいるだろう。
そのくせ、家の事なら何でも完璧にこなすし、よく分からんが神出鬼没に姿を現したりもする。
正直に言って何者なのかは分からん。儂の経験を以てしても、まるで正体が掴めんのだ……」
「ふーん……いや滅茶苦茶に怪しい気がするけど、大丈夫なんだ?
というか爺さん、人を拾い過ぎでは?」
「正直儂も怪しいとは思ったが、別に悪意のある目はしておらんし、もうかれこれ三十年ぐらい過ごしておるからなあ。心配はいらんだろ、多分。
あと、人に関してはほっとけ。お前達が落ちてるんだから、仕方なかろうよ。
そら、いいからさっさと脱げ。着たままでは綺麗に出来んだろう」
「はーい」
三十年かあ。結構、長い付き合いなんだなあ。
……あれ。ダフネさん、どう見積もっても二十かそこらっぽく見えたんだけど。
「いや待って三十年? ダフネさんが子供の時に拾ったの?」
「……いや。あの時から、今と変わらん見た目をしてたな……」
「…………」
沈黙。顔を上げれば、同時に面を上げたディディエと目が合う。そして俺たちは黙って全く同時に目線を手元に落とした。恐らく、二人とも同じことを考えている。
……絶対人間じゃないでしょ。絶対。だが、真実を確かめる勇気は、この歴戦の騎士にさえ、恐らくないのだ。そもそもこんな何の確証も突拍子も無い疑念を人にぶつけるなど失礼にも程が有るし、何よりも。
マジでそうだった場合、どんな反応をすればいいのか。いや多分ディディエの事だし、何だかんだ普通に受け入れるような気がするが。
……そう、これは、別に知らないなら知らないでいいことなのだ。顔を上げれば再び目が合う。俺たちは、一度だけ頷いた。そして互いにそれ以上言葉を発することも無く、夜が明けきって人々が起き出さぬうちに水浴びを始めるのだった。
*
てきぱきと、やたら泡立ちの良い石鹸を使ってすっかり身を清潔にし、ダフネさんが持ってきてくれた、やたらに柔らかな布で水気を拭き取っていた。
ディディエは、ダフネさんから布や着替えを受け取ると、「これ、男の水浴びなど覗くんじゃない」と払ってくれて、有り難かった。女の人に見られるのは、何だか恥ずかしいから、助かったよ。
「ふむう……思ったよりは汚れておらんかったな。てっきり儂は二年分の汚れが溜まっているものだとばかり思っていたが」
「いやあ、流石に、たまには洗ってたからね。雨が降ったときとかにさ」
今思い返しても、服をすっかり脱いで、雨を全身に浴びて身体を擦り洗うというのは、結構不思議な感覚だった。
川の水を使うというのは、少し怖くて出来なかったんだよなあ。寄生虫の話とか聞いたこと有るし。
「なるほどな。自然がお前を清めていたという訳か、合点がいったぞ……それ、着替えだ」
「ん、ありがとう。……ちょっと小さいなあ」
腕が動かしにくい。裾が短い。つらい。
「他には無いんだ、後で用意させるから、とりあえず我慢してそれを着ていろ」
「後で……ずっと気になってたんだけど。俺、住むところはあるの?」
「なんだ、儂の処じゃあ不満があるのか?」
え? 俺ここで住むの? 自分で言うのもなんだけど、特に所縁も無いよそから来た汚い子供を育てるつもりなのか? 正気か?
「なんだ、その顔は。お前のようなやたら逞しい野性児を、よそ様に預けられるか。どのような迷惑が掛かるか、想像もつかん」
野生児ってなんだよ。別に森で狼に育てられていたとか、そういう訳じゃないんだぞ。まあ逞しいのは否定しないが。
「俺の事なんだと思ってるんだよ。素直で強い、いい子だろ?」
俺がおどけてみせると、ディディエはじっとりとした眼差しになり、呆れながらも口を開く。
「儂、そこまで堂々と自分を持ち上げる童は初めて見たぞ」
そうなのか。ラクァルの子はみな、謙遜したがりらしい。
「……まあよい、とにかく今日はもう休め。会った時から、ずっと動き通しだ。お前も疲れているだろう。
来い。部屋の用意は既にさせておいたからな」
思えば、ダフネさんを払った時に、確かに何か言いつけていた気がする。頭から思い切り水を被っていたから、よく聞こえなかったが、そのときに命じていたのだろう。
「はあい。……ねえ、もしかしてそれもダフネさんが? この屋敷、こんなにでかいのに、他に働いてる人は居ないの?」
「ああ。今はそうだ」
ふうん。昔は一杯居たのだろうか?
……ディディエが扉を開けると、そこには、まあ見たことも無いような景色が広がっている。
想像は付いていたが、まず、馬鹿みたいに広い。調度品だって、初めて見るようなものばかりだ――しょ、燭台が金で出来ている……。あの、雲みたいな膨らみ方をした椅子のようなものは何だ……? もしかして、本当に椅子なのか……? うわあ、村の娘の婚礼衣装より立派な布が、敷物になってるぅ……。
「ほれ、余りじろじろと見まわすんじゃありません。付いて来い」
そう言って、ディディエは広間の奥に備えられた階段を上っていく。
階段は真っ直ぐ壁に向いており、その一番上段からこれまた立派な踊り場がついていて、更にそこから左右に向かって階段が伸びている。踊り場の壁には、紋章の記された旗が掛けられている。それが騎士団のものなのか、ディディエの家のものなのかは分からなかった。
「ねえ、爺さん。そういえば、まだ聞いて無かったよね。爺さんってさ、何者なの?」
「ん……言われてみれば、もしかして儂、名しか名乗らなんだか。いかんいかん、騎士たるものが家名を名乗らぬとは。
――我が名はディディエ。ラクァルを奪還せし六英雄が一人、"聖剣"クローヴィスが裔。
征剣騎士団、先代騎士長。ディディエ・ノアイユである」
……開いた口が、塞がらない。いや、ただ者では無いことは、考えるまでも無く明らかではあったが。
俺でも知ってるような、貴族の中の貴族じゃあないか! 一体全体、何でそんな大人物があんな所に一人で来てたんだ、本当に!
「おうおう、驚いておるな」
「驚くに決まってるだろ……」
ディディエはもの凄く楽しそうに、にやりと笑みを浮かべる。もしかして、俺を驚かせようとしてあえて黙ってたのか?
「いや、普通に忘れておった。如何に儂とて、タレルの状況に動揺しておったのだ」
何で思考に返事をしてくるんだこの人。
「ちょっと、俺の心を読むのはやめてくれないか」
「ばか者、そんなこと出来る訳無かろう。お前の顔を見りゃ何を言いたいかぐらい分かるわ」
そんなことを言い合いながら、ディディエによる屋敷内の簡素な紹介を受けつつ、歩を進めていく。やがて、通路に並んだ数ある部屋の一つへ通された。
「……俺、家の中で迷いそうだよ、爺さん」
「ワッハッハ、昔は儂もそうだった、無理もない。でもトイレの場所だけはきっちり覚えておくように。
――さて。ここが、これからお前が暮らしていく場所になる。なにか、不満は有るか?」
「何も無いよ。ある訳ないだろ、そんな大それたこと言ってたら、村の皆にぶっとばされるよ」
ディディエは笑いながら、良かろう、とだけ呟いて、やおら真面目に俺に向き合い真剣な面持ちで語りだす。
「――――では、改めて。タレルの子、アーダルベルトよ。今日からここが、お前の新たな故郷となる。
これまでとの大きな違いに戸惑うことも、郷愁に涙を流すことも、きっと数多く有ろう。
だが、これからは、儂が責任を持って面倒を見てやる。……お前はもう、一人では無い。
自らが未だ幼き、一人の童であることを思い出し、存分に他者に泣きつくがいい。ラクァルは、懐が広い。きっと、皆がお前を助けてくれる。
……おいおい、泣き出すにはまだ早いだろう」
自覚も無いままに、泪が零れていた。言われてはじめて気づくなど、鈍いにも程があるというものだ。
――ああ。誰かが居るという事は、こんなにも暖かいのか。
「……ありがとう、ディディエ。ありがとう」
「おうとも。存分に感謝し、ただ健やかに育つがいい。他は何も要らん。それが、お前の返せる最も大きなものだと、心得よ」
「うん、うん……」
「ふ……さあ、今日はもう寝るといい」
そういってディディエが指で示したベッドに、恐る恐る腰掛ける。沈んでいく。なんだこれは。底が抜けそうで怖くなり俄かに立ち上がる。そんな俺を見ていたディディエは、大笑いしながら去っていく。
雲のようなベッドにおっかなびっくり潜り込んで、目を閉じた。……確かに寝心地はいいが、布団が軽すぎて落ち着かない。
「――――ああ、不思議なもんだ。一人で寝るのに、もう寂しくないなんて」
まどろみが、意識へと緩やかに溶け込んでくる。意識を手放すことへの不安は、もう要らない。
何の気兼ねも無く、ただ静かに、安らぎへと身を委ねた――――
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