第一章
第一話 暗き森と白銀の騎士
訳の分からぬままに全てを喪って、森の中に生を求めた。まだ、弓や小刀は持っている。
矢も、木の枝を使って、自分で用意できた。幸いにも鴨が手に入っていたため、羽を使えたのは本当に奇跡的な運命だったと思う。
ただ独りで、森の中を生き続けた。獣を狩って、毛皮と木の皮で衣を作り、ボロ屋を木の枝や葉で繕ってねぐらとし、その隅に転がっていた火打石を使ってどうにか火を起こして冬の寒さを凌いだ。
生きては、いける。我ながら、ちょっとどうかと思うぐらい逞しい。
他所の村に、助けを求めるのは、距離等を考えると不可能だ。次に、他所から人が来るのはいつになるかも分からない。
タレルは、交易等はしていない。ここは豊かな森と川に近く、自給自足で全てを賄えていたからだ。それが、今は救いでもあり、仇でもある。
何処にも行けず、だが死ぬことも出来ず、ただ独りで生存を続けていた。
やがて冬を越した。雪が奇跡的なまでに少ない年であることを、神に感謝する。
春が過ぎた。木々の若芽だって、喰えるのだ。春は食料が増えるから、助かった。
夏が、秋が、過ぎた。俺は生き延びた。たった独りで、森の静けさと騒がしさに包まれながら。
そうして――二年。二年の月日が、過ぎ去っていた。
また、厳しい冬が来る。今年もまた、生き永らえる事は出来るのだろうか?
気づけば空からの粉雪が、音を立てて吹き抜ける強い風に乗ってちりちりと狂い舞っている。
未だ、タレルの跡地には誰も訪れぬ。行商の一人も、国の人間でさえも。俺はここで、独りで生きて、死んでゆくのだろうか。寂しい。人が、恋しい。父さん、どこへ行ったんだろう。
母さん、貴女のパンがまた食べたいです。今度、俺が狩って来た獲物を使って、美味しいご飯を作りましょう。村の伝統的な肉団子の作り方を教えてくれる約束は、覚えていますか? 貴方がくれた、ご先祖様から伝わる不思議な石の首飾りは、ちゃんと毎日磨いているんですよ。
皆、いま何をしているんだろう。俺を置いて、どこへ去ってしまったんだろう。――生きていると、いいなあ。
気が付けば、日が随分と傾いている。ああ、仕込みをしなくては。
「震える翼でコマドリが飛ぶ、巣から飛び立ち独り往く、母さん、母さん、見ておくれ、もうヤマネコにゃあ捕まらぬ――」
ぼそぼそと、呟いた。ずっと黙っていると声が出なくなりそうで、こうしていつか聞いた歌を反芻しながら、明日の罠を準備をするのだ。確か、友達の妹が、女の子たちだけで集まって、輪になって踊りながら歌っていたのだったか。途中までしか、分からないな。
……涙が、出てきた。考えてはいけないのだ。そんな感傷に浸るよりも、明日の食料の方が大切なのだから。
――不意に、音が響く。久しく聞いた記憶の無い、乾いた音が。四つぶんの音が、極めて秩序だった律動で繰り返されている。
これは、ああ、これは。紛れも無い、馬の駆け往く音だ! それが、人なのか、野生のものなのかは、分からない。でも、何でもいい。野性の馬なら、どうにかして手懐けてやる。そうすれば、どこかに行けるかもしれない。
人が来たのならば、助けてもらえるかもしれない。これは、もうきっと二度とは訪れない、好機なのだ――!
「……これは、どうした事だ。何故、なにも無いのだ? 村が在った痕跡さえ残っておらぬではないか……!」
かつてタレル村のあった場所……平らに均されたような土の上にももうすっかりと草が生い茂っている。
明かりも然程差しこまぬ暗い森のなか急に現れる、不自然な、ただの何もない草原を前に馬が足を止め、騎手が呆然と語る声が聞こえてきた。勇んでその前へと飛び出す。
「ああ、ひと、人……人が、来たのは、久しぶりだ。あなたは、誰だ?」
興奮故か、それとも久しく人に向けて口を利いていなかったからなのか、言葉が上手く出てこない。だが、やや途切れ途切れにはなるが、一応喋れている。
逸る気持ちを抑えつけ如何にか落ち着き、馬に跨るその人間の姿を見やって、驚いた。なんと、こんな所に騎士が居る。
背に大きな剣を背負い、よく磨き上げられた、やや白みを帯びた金属鎧とバケツのような大兜に身を包み、穢れ無き白銀の外套を纏うその姿は、まるで寝物語に聞かされたお伽噺の中に現れる騎士のようで、だがその想像の中の姿より、もっとずっと立派であった。
騎士は何も言わずじっと俺を眺めていたが、やおら兜を脱ぎ去り、顔を露わにする。
兜を外したその顔を見るに、騎士は老年のようであった。しかし、腰の曲がることも無く覇気に満ちており、老いは特に感じさせない。
真っ白い立派な髭を蓄えた老騎士は、こちらをじっと見据え、口を開く。
「我が名はディディエ。お主、ここに在るという村の者か?」
「そうだ。俺は、タレルの狩人、レジスの子」
「何があった?」
「分からない。一人で森に入って、戻ってきたら、全てが無くなっていた」
「何時のことだ?」
「二年前、だ」
そう答えると、老騎士ディディエは眼を見開き、息を呑んだ。
「……二年だと。お前は、まだそれほどに幼いのに、一人で二年も生きていたのか」
「父が、森の全てを教えてくれた。喰う事には、困らない。それに、廃屋が森の傍に、在る。そこで、風雨を凌いでいた」
ディディエは、重々しい顔で沈黙していたが、やがて一度俺の顔をじっと見ると、再び問いかけてくる。
「…………そうか。お主、名は」
「アーダルベルト。母が、つけてくれた。意味は分からないが、格好良い、だろう」
「そうか、良い名を貰ったな。それは、高貴な光という意味だ。……来い、この馬に乗って、儂の背に抱き着いておれ。
少なくともここよりは暮らしやすいところに、連れて行ってやる。そら、どうした。迷っている時間は無いぞ、早くせんか。
直ぐに経たねば、森を出る前に真っ暗になってしまうぞ」
ディディエの誘いに、頷く。だが、即座にその馬に乗せてもらうことはせず、厚かましくも騎士を待たせ、一度ねぐらへと戻り、もう二年も使い込み手に良く馴染んだ弓と自作の矢、吊るしておいた食べごろの鴨二羽を取って来たのである。
ディディエは怪訝な顔をしていたが、鴨を見せると笑い出した。
「わっはっはは、お主、この儂を待たせてまで取りに行ったのが、肉とは! よい、よい、豪儀なものだ」
「笑い事じゃ、ないぞ。俺が、殺したんだ。放り出していくのは、無責任だ」
「む……それは、確かにそうだな。狩人の矜持か。済まぬ」
「いい。一緒に喰おう。もう、よく熟れている」
「ふふ、それは楽しみだ……さあ来い、行くぞ」
改めて頷き、馬に向けて一度挨拶して、その高さに苦戦しながら跨ろうとした。足が届かない。見かねたディディエが俺の首根っこを掴んで持ち上げ、後ろへと座らせてくれた。背負っている剣が邪魔だ。
落ちないようにその腰へと手を回すと、風で冷えた鎧が、手に沁みた。俺の準備が出来た事を確認し、ディディエが馬を歩かせ始める。
思っていたよりも大きな振動が伝わってきた。馬とはかくも大きく、力強いのか。……そんなことを考えているとき、異変が起きたのだ。
誰よりも早くディディエは反射的に馬を駆けさせ、衝撃が体に伝わる。何ごとがあったのかと必死にしがみ付く内に、それは聞こえてきた。
遠くから、木々が叫ぶかのように音を立てている。無論、木に声は無い。あれは、あの音は――
「爺さん! やばい奴が来る!」
そう叫ぶと、何時の間にやら兜をかぶり直し臨戦態勢を取っていたディディエが答える。
「誰が爺さんだ、誰が! ディディエさんと呼べ! 何が来る!?」
「この森のヌシ、熊みたいにでかくて力が強い、狂ったように暴れる獣だ! 村の誰も、あいつが何なのか分からなかった!
四足で走るのが速くて、捻じれた角と、翼があるんだ! 飛ばないくせに!」
「ほほう! それは……ええいなんだそれは! そんなもの、儂も知らん!」
背後から、木が倒れる音が迫ってくる。ディディエは全速で馬を駆るが、後ろの獣の方が、幾分か速いらしい。
「どうする、爺さん! 逃げ切れないぞ!」
「こうなりゃあ仕方ない! 一発かまして勢いを挫くぞ! あと爺さんと呼ぶのはやめなさい!」
「分かったよ、お爺さん! 俺は、弓で援護する!」
「そりゃあいい、やってみろ! あと、さっきのは"お"を付けなさいという意味じゃありません!」
ディディエは俺の適当な言動に律儀に反論しながら、背にした大剣を引き抜いた。銀色をした見事な刃が、夕陽を受けて輝いている。
堂々たる老騎士は円を描くように馬を駆り、獣の方へと向きを合わせ、全力で突っ込んでいく!
息が止まりそうな程の風を切る圧とその速度、妖しき巨獣への恐怖、正直意識を保つのでやっとの思いだが、言ってしまった手前、やってやらねば男が廃る。意地を張って、ぐっと腹に力を籠める。両の足で馬の腹をしっかと抱え、両手をどうにか自由にする。俺だって二年間も森の中で、自然を相手に戦い続けたのだ、これぐらいの無茶も出来るさ。
――謎の巨獣が見えてきた!
「爺さんやるぞ! 合わせるから合図をくれ!」
「構わんもうやれ! 儂が合わせてやる!」
その言葉が耳に飛び込むのと同時に、番えた矢を射ち放つ。獣の、狼とも熊とも猪ともつかない恐ろしい顔の、よくよく見れば五つぐらい有る目玉の一つに突き刺さり、悶えさせた。これは運が良い!
あんなに一杯目玉をつけるから、当たる確率が高くなるのだ。やっぱり二つぐらいが丁度良いよ、うん。
「やるではないか! 見ておれよ!」
ディディエは、その白銀に煌く大刃に、疾駆する勢いと重さの全てを乗せて突きを放つ。
――――それは凄まじい音がした。肉が裂け、血が飛び散る水音。頭蓋が砕ける嫌な響き。断末魔の叫びさえ上げる間もなく、力なく空気が抜けていく、声にもなれなかった哀れな音。
この老騎士は、獣の頭蓋をただの一撃で貫き徹し、その重さに負けることも無く、馬が止まるまでこけもせず獣を引きずり回したのだ。なんという、膂力だろう。……お伽噺の騎士だって、ここまで力強かっただろうか。現実とは、いつだって想像を超えてくるものだなあ。というかあの剣も、頑丈過ぎないか。歪み一つ、刃毀れ一つ無いんだが。
「確と見たか? これが、征剣騎士の一撃よ」
――征剣騎士? 今、征剣騎士と言ったのか?
かつて鉄都ラクァルが陥落したとき、逃げ延びた王子により結成され、およそ七年の歳月を経て奪還したという伝説を持つ、あの?
あの、剣を以て外敵の全てを征し、今日に至るまでのラクァルの栄華の礎となった、あの!?
物知りのマルゴー婆さんが俺たちにそうやって聞かせてくれた、あの征剣騎士団の一員なのか、ディディエは!?
「征剣騎士!? 征剣騎士って、あの、鉄都ラクァルの?」
「おうとも。儂はもう現役ではないがな」
「……なんでそんな立派な騎士様が、こんなところに?」
「何、変な噂を耳にしたものでな。一年に一回だけ、辺鄙な所から鉄を買い付けに来る老人が、二年も来ないとかなんとか。
それで、まあ暇だったから儂が出向いたという訳よ。何も無ければ無いで、森で狩りでもすればいいと思ってな」
「うーん、確かに、暇だったんだなぁ。……でも、助かったよ。ありがとう、爺さん」
「ははは、若造が、一丁前に気にするな……ところでお前何で儂のこと頑なに爺さんって呼ぶの?」
何となく。
怒られるかなと思い素知らぬ顔で、あらぬ方向に目をやって誤魔化そうとすると、ディディエはじっとりとした眼差しで溜息を吐いた。
「はぁー、まあ好きにするがいい。別に、無礼だとか詰まらん事は言わん。でも儂はまだ若いからな、そこは勘違いするなよ」
「いや実際、そんなに老人だとは思ってないんだけど、何か、ノリで……」
「……儂以外の奴にやるのはやめなさいね……」
二言三言と言葉を交わす内に、初対面とは思えぬ程に、砕けた空気感が醸し出される。
我ながら、何故自分がこの老騎士に対しここまで気安く接しているのかは分からないが、何だ、妙に馬が合う気がしているのだ。
「しかしお前、その首飾りは、何だ? いや、何だというのもなんだが。
あまり……なんだ、お前の装いに似つかわしいとは思えんが」
自身の後ろに乗る俺へちらと目を遣ったディディエが、ふとそう言った。視線に釣られ、改めて自身を見る。
ぼろぼろの、毛皮と木皮で継ぎ接ぎにし、隠密性を高めるために葉を到るところに仕込んだ服。碌に鏡さえないため、あまりはっきりと認識してはいないが、何せ石鹸ひとつ有りはしないのだ、泥汚れや臭いなど相当なものであろうし、草蔓で一纏めにした伸び放題の髪などは、まさに蛮人といった風合いなのだろう。
だが俺はそこに、貴人も斯くやと言わんばかりに穢れ無く輝く、透き通る石飾りを首から下げているのだ。
まあ……不釣り合いにも程があるよな、それは。
「俺も正直そう思うよ。これは、もうずっと昔に、母さんがくれたものなんだ。
なんでも、むかーしむかしから伝わる、ご先祖様伝来の石だとかなんとかで」
「……そうか。大事にしろよ」
「もちろん。
……父さんからも、そう言われたよ」
首飾りを、握りしめる。不思議と勇気づけられる気がしていて、森の中でもよくやっていた。
父さん、母さん。今、どこに居るのかな……?
いや、そもそも――
「さあ、そろそろ森も抜けられる頃だぞ。
お前は、森から出たことはあるのか?」
あまり考えたくないことが脳裏を過っていた俺を思考の渦から引き戻すかのように、ディディエがそう語りかけてきた。
「いや。ずっと村の中……というか、この森の中で生きていたんだ。
外なんて、見たこともないよ。話して聞かされたことはあるけどね」
「ふ、そうかそうか……ならば、楽しみにしておくがよい。
ここから、お前の新たな旅が始まるのだ――」
ディディエが、そう言って指を差す。
示す先には木々も無く、ただどこまでも続いていくかのような草原が続いており、果てを見透かさんとすれば眩暈もするほどの広大な世界が、広がっているのであった。
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