積もりし灰に血を注ぎ

袰須

第一部

 序  いつか、思い返すもの

 あの時も、木々の葉が騒めいていた。無論それはただ、風が吹き抜けたことで揺れていただけなのだが、俺には森そのものがすすり泣いていたように感じたことを、今でも覚えている。


 *


 薄明の静謐を切り裂く、矢が放たれ風よりも速く空を行く音。潜んでいる俺たちに気づく事も無く草を食んでいる鹿の、無防備な首筋。

 紛れも無く命と対峙し、その生を支配せんとする、冷たく鋭い狩人の眼光。矢は過たず急所を捉え、血の吹き出ることも無く、鹿は倒れた。

 そこには、死が有った。母親から産まれ、赤子という儚きところからそこへと至るまで、無事に成長し長らえ続けた命の、確かな終わりが。

 怖くなかったと言えば、嘘になる。だが、それでも彼らを殺して、その血肉を……命を糧と得る事を嘆き咎めるようなことは、言えなかった。

 それは……生物が存在していく上で必然的に行われる競争を、自分がその只中に在ることに気づかないふりをして、己だけ心有るかのように罪と罰を語るような真似は、冒涜が過ぎると感じたのだ。


 父に、「凄いや、父さん」と震える声で告げると、先ほどまでの底冷えするような冷徹な雰囲気はどこへやら。この、タレル村で一番と謳われる狩人は、朗らかな顔で俺の頭を撫でたのだ。


「なあ、怖くなかったか?

 ……実は父さんはな、お前みたいにこうやって、お祖父ちゃんに初めて狩りに連れてこられたとき、当たり前のように獣を狩るお祖父ちゃんのことや、何かを殺すという上に居る自分のことが、怖いと思ったんだよ」


「……うん、実は、怖い。父さんが言ったみたいに。言わなくても、分かるんだ」


「ははは、やっぱりお前は、俺の息子だなあ。……どうする、辛いなら、狩りの手伝いなんてやめておくか?

 お前は草花も好きだし、薬師なんかを目指すのも、悪くなさそうだ。それとも、ゴロダフの爺ッ様の鍛冶仕事の手伝いでもするか?

 工房に行くたびに、目を輝かせて食いついてたからなあ、鎚を振るのも、楽しそうじゃないか。それとも――」


 父はあれこれと、俺の行く道について考えてくれる。それらは皆魅力的であるように聞こえるが、俺の答えはもうずっと、決まっている。口を開き、そこへと割り込んだ。


「いや。俺は父さんみたいに、やるよ。言ってたじゃないか、最近、村にも人が増えてきたんだ。

 お隣のコルギスさん達にも、子供が生まれたばっかりなんだし。一杯獲物が必要になるんでしょ?

 どんなに嫌だと思っても、俺たちは殺さなきゃ生きていけないんだ。誰かがやらなきゃいけない事なんだから、じゃあ、俺がやるよ。

 それに、俺がやらないから、代わりの誰かにそれをやらせるっていうのも、嫌なんだ」


「――うん、そうか。

 ……そうか、そうかぁ。よく言った、偉いぞ。ほんとうに、偉い。お前のような子が居てくれるなら、この村も安泰だ」


 父は、涙声でそう語り、俺の頭を再び撫で、そして射止めた鹿へと歩んでいく。

処理をしなければならない。血を抜き、臓腑を除き始めると、割けた皮の間からは湯気が立ち上り始めた。――――ああ、命とは。それが失われても尚、温かいのか。

 見る間に一つの尊い命が、物言わぬ肉となり、それが我らの糧となる。ああ、人の業とはまこと、耐え難い辛みと虚しさが伴って、だが生きるという事のなんと美しく、輝くことだろう。嘆きに満ちた死を積んで尚、生きたいと、生かしたいと願う意志は余りに強く瞬いて、だからこれが罪であろうとも、きっと誰かが赦してくれることを、信じたいと願うのだ。


 ああ、神様。どうか、我らをお赦しください。

 生きるという事は、その根幹に消えざる罪を抱きながら、それでも楽しく、産まれて良かったと感じるのです。


 朝日が緩やかに昇りだし、のそのそと動く父の背が照らされるのを見ながら、きっと父も、祖父も、そのまた昔も、このようにして命を続け、とうとうここまで来たのだろうと感じ、命の連環について思いを馳せざるを得なかった。

 ……おおい、見てないで手伝ってくれよ、と言われるまで、ぼうっと。


 *


 やがて、狩りにも随分と慣れてきた。命が無くなっていく感覚には、慣れたくは無いものだけど。

 父から弓の使い方、罠の仕掛け方、食べられるキノコの種類や木の実に関する知識など、森の中のあらゆるものを教わって、何なら自分で弓矢を作れるようにさえなっていた。父さんは、「うーん、これなら森で独りになっても生きていけそうだ」なんて笑い、俺は、自分の能力にちょっと自信を付けたのだった。だから、こんな冒険をしてしまったのだろう。


 一人で、森へと来ていたのだ。最近めっきり冷えて来て、鴨が丸く肥えてきた。

 こっそりそれを狩ってきて、皆をびっくりさせてみようと思ったという訳だ。


 森の東、木々が少しだけ開けてくるこの辺りには、湖がある。

 そこの岸辺、寒さで少しだけ葉が枯れ始まった水草の陰に、鴨が集団で居るのを知っていた。

 この辺りには熊や猪といった危険な生物は姿を見せず、故に一人でもまあ何とかなるだろうと高を括って今回の暴挙に及んだ訳だが、実際に目論見通り、大した危険も無くこうして三羽ばかりの鴨を射止め、意気揚々と故郷たるタレルの村へと帰途についているのだ。


 岸辺を抜けて、小道を進み、昔、背の丈を計ったときの傷がついた目印の木を左に曲がって、遥か昔に炭焼きが住んでいたという朽ちきった廃屋の隣を通り抜け、やがて村が見えて――――何もない。え? そんなことは、有り得ない。

 見えないわけが、ないだろう。タレルは、村だぞ。確かに森に包まれ都との往来も無く、今や旅人だって来ないような辺鄙な所に在るとはいえ、きちんと村としての姿は保っているのだ。そんな、何もその形跡が、人影一つ見えてこないなんて、有り得ない。有ってたまるものか。

 道を、道を間違えたんじゃあないか。方角が違ったんじゃないか? ……太陽の位置からして、間違いなく合っている。

 大体炭焼きのボロ屋だって、間違いなくあったんだ。これまで何十回も、もしかしたら何百回も通って来た道だ。父さんが手を引いて連れ立ってくれた道を、母さんたちと一緒に木の実を摘んで歩いた森で、そう容易く迷うものか!


 ない、ない、ない! 俺の村が、何処にもない!

 小屋の一軒もない! 篝火の一つも、村はずれの水車も、昨日友達と遊んだ秘密の広場も、何もない!

 全部が全部、まるで夢であったかのように、すっかりなくなって、痕跡さえ何も残っていない。今目の前に見えるのは、草すら生えぬ、真っ平な土だけだ。何も、何も……ないんだ。


 訳が、分からない。

 もしかして、最初から全部無かったのか? ここまでずっと在ったものは、俺が見た、幻覚だったのか?

 そう信じた方が、まだ整然と説明が付くと、そう思った。


 ……冷たい風が、吹き抜ける。人が消え、その生命が呼び起こす喧噪の無き静けさを、無秩序な葉擦れの音が破り去っていく。

 木々の騒めき止まぬ森が、まるで本当にすすり泣いているかのようだった。

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