第5話 災厄
半狂乱に近い声が更衣室に響いた。
その殺気に満ちた異様な僕の声に多くのクラスメートが半ば、おかしく口元を抑えて失笑していた。
口から零れた息が乱れる。
ああ、心の奥底から無慈悲に張り裂けそうだ。
ナイフは大袈裟に揺れ、しまいには床にまた転がりそうに不安定に振動を繰り返していた。
落ちてしまったら、これで僕が罪人という証拠が確実に手際よく証明されるだろう。
「殺すな……」
「殺すのは一体どちらかな。この状況を考えればそう、……君の方だよ」
良心への痛みは水風船が微細な針で一発刺さるように弾ける。
僕の墓標が崩れ落ちていく。
僕を象る硝子細工が一瞬で粉々になり、溶解する。
心の琴線が弾け散り、赤い糸が切れ、床の渦に呑みこかれたような青ざめる心地がする。
熱く煮え立つ線の通った閃光を見たような気もした。
強張った肩も小刻みに揺れ出す。
たまらなく吐き気がする。
このまま床に嘔吐してその群がる臭気のせいで僕は窒息するかもしれない。
視界が空中の渦に巻き込まれ、遠くで怪物を見たような幻惑を僕は見る。
善と悪が逆転し、不可解な奇術は綺麗に抹殺され、全てが無いもの扱いとなる。
「母さん……」
なぜ、その言葉を軽々しく言えるのか?
この場では言ってはならない禁忌の言葉だ。
告げる行為によって母さんの存在まで穢れてしまうのに。
口から箍が壊れたように溢れ出そうで言わずにはいられなかった。
思いの波が押し寄せ、僕は即座に嫌悪の濁流に呑まれてしまうだろう。
咽喉の奥底から息を吸うのも困難で腸から大きく隆起しなければ息を吸うという基本動作さえも出来ない。
詰まる切実な思いは粉々に散る揚羽蝶の鱗片のように空中に投げだされ、そのまま孤愁の闇の中に僕は消え去る。
「先生を呼んで来い。早くしないと俺たちの学校が殺害現場になるぞ。みんな逃げろ!」
首領の男子が何やらみんなに伝えようと画策している。
僕は根っこからの悪人なんだ。
生まれてきてはいけない人間。
僕のような悪人は生まれてきてはいけなかったし、今すぐでもこの場で死ぬべきなんだ。
「死ねばいいんだろう。この場で……」
呟きに近いか弱い声はみんなには聞こえない。
独り言は見事にスルーされた。
「どこを切ればいい?」
悲しいとか、嬉しいとか、基本となる感情がわからず人影から、離れて木立闇に僕は佇んでしまっている。
「母さん……。僕が悪い子どもだから。あんな風になってしまったのは僕のせいなの」
息を吸うのがどことなく苦しい。
涙が瞼を割る。
泣いたら駄目だよ。
何でいつも負けては悔しくて泣くんだろう?
多くの人から指図される恐怖。
人とは違うから。
人の目が気になってびくびくしている僕のいびつな弱点。
誰も見守ってくれる人なんかいないのに幸運を僕は待ちわびる子犬だ。
貶すか、無視をするか、放置されるか、いずれのどちらかにせよ、僕は災厄の暴風雨に放り込まれてしまう。
窮地に陥りながら僕はナイフの切っ先を首筋に合わせた。
わずかな息切れが甲高く聞こえる。
これで死ねるんだよ?
いい機会じゃないか。これで僕という忌むべき人間はこの世から綺麗さっぱり抹殺されるんだ。
真理を司る女神から粛清されるんだよ。
みんなのためにも死を選ぶ行為で償える。
独房にいる死刑囚が執行日の最期に言伝を残したくなるのは今の僕と同じなんだろうか。
こんな汚れた世界に僕はまだ未練があるのか。
「日野君がやばいんじゃないの?」
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