第4話 不注意
その日は薫風が吹く、図書館の隣接する、公園の殺風景な東屋に藤の花が咲き乱れる、ちょうど体育祭が始まる皐月の半ばだった。
汗で背中が滲んだ夕間暮れ、白煙のように熱気が充満する更衣室で他のクラスメートとともに着替えているときだった。
なぜ、あのタイミングでそれを落としたのか、なぜ、普段ならお守りのように厳重に管理していたのにクラスでも気の強い男子から咎められたのか、今となっては分からない。
ロッカーから制服のシャツを取り出した際、ズボンのポケットからそれは床にあっけらかんと転がり込んだ。
すぐに拾おうと僕は本能的に床に手を伸ばした。
その光景を見ていたクラスメートは僕の不注意を断じて見逃さなかった。
「なあ、何でこんなところにカッターナイフがあるんだよ!」
取り分け、それは大きな声だった。
床に勢いよく転がったそれは、何度も僕の皮膚を切ったせいか、刃の表面に血がこびりついて茶色く濁り、持ち手のプラスチックにも血潮が付着していた。
「これは誰のものだよ! こんな危ないものは持ってきてはいけないよな」
狭い更衣室ではざわめきが収まらない。
どよめきとともに嘲笑も混じった異様な視線が僕の方角に見事に差し込まれる。
それが僕の所要物である事実は誰が見ても一目瞭然だった。
「なあ」
一際大きな荒げた罵声が心の中に棲む。
みんなの二つの眼が僕を注視している。
これから、どう処断されるのかは瀬戸際に立たされた僕には見通しがつかない。
「これはお前のものだな?」
首を縦に振ってはならない。
「俺たち知っているんだぞ。みんなわかっているんだ。日野君がナイフを持ち歩いてかなり危ないのもクラス全員から嵌められているのも、みんな知っているんだ。知らないのはお前だけ」
あの男と同じだ。
ニヤニヤと口が歪んで僕に靡いている、悪をなぎ倒す正義感の眼。
生粋の悪い子を処罰し、一切の闇を拒絶する。
僕が生まれながらの悪人であり、言い分も一切通用しないと断定され、僕は一切合切反論できない。
制裁者は途端に僕の汗がかすかに滲んだ二の腕を掴んでわざとらしく大声で叫んだ。
「ほーら。これはこいつが自分でつけた傷」
腕を隠そうと、掴まれた発作的に手を放そうとしたけれども、身体が思うように動かなくなかった。
ただ黙って罵詈を浴びるのを待ちわびる選択しか、僕にはできなかった。
「じゃあ、日野君は何で自分の腕に傷をつけるのかな。ナイフを常に所持して誰かを傷つけたいのかな。流行りの少年事件みたいに」
早く行動に移さなければいけない。
くくられる、嫌われ者の悪魔として僕はくくられる。
不運の遺伝子が覚醒される。
あの男から再び、僕の心の手紙を粉々に散られ、糾弾という紙吹雪を全世界に散らされる。すぐに抵抗しなくては、このままでは僕は悪罵が飛び交う、黒い死刑台へと引きずられながら上がらせる。
ほら、切りよく十三回息をするんだ。
「何だよ。うわっ。みんな逃げろ!」
床に落ちた透明ナイフは僕の生ぬるい手の中にあった。
いつの間にか、多くの血が滲んだ呪われた刃先が宙に突き刺さっている。
息が荒い。刃先はゆらゆらと小刻みし、滑稽なくらい、宙にふらふらと踊り続けていた。
ナイフでここにいる全員に対して、小さな子犬が自分よりはるかに勝る力の、大型犬に対して虚勢を張るように、威嚇しているのはあまり、実感が湧かなかった。
今、自分が人としてやってはいけない、大罪というカードを自分の意志とは関係なしに選んだ、と咄嗟に僕は実感した。
もう、元には戻れない。
視界の先にはあの男がくそと笑っているのが見えてくる。
ああ、これは幻覚なのか。
男が大声で意味もなく嘲笑している。
意味もなくだらだらと罵詈を続け、しまいにはあまり聞きたくないような卑猥な言葉のシュプレヒコールを強く叫んでいた。
違う、違うのに。
そんな汚らわしい過ちを僕はしていない。
僕が抵抗してもその幻覚の男はまだ罵詈を続ける。
あの男がナイフで持ってこの眼に突き刺し、柔らかな咽喉を一目散に切り裂け、血煙が周囲には臆せず、飛び散るだろう。
そうなったら、母さんまで犠牲になる。
架空の小劇場で母さんがあの男のせいで雄叫びを上げながら泣いている。
『真、母さんはね、悔しいの。男っていう男は私を弄んで飽きたら最後に捨てるの。何でかしら、真はそうじゃないよね? お母さんの味方だよね。お母さんの言うことに全て従うよね』
僕の脳裏には母さんの譫言が波紋のように繰り返される。
母さんはあんなに優しかったのに。
僕をあんなに愚直なまで懸命に愛してくれたのに。
その拍子の思いの波濤が押し寄せ、目の前にいる敵に僕は刃向かう。
「殺すな!」
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