第3話 本物のカウセリング
放課後、僕はよく帰り道の途中にある、道路脇に楠並木が生い茂る、古びた市立図書館に通い詰めた。
部活に入部する余裕もなかったから、自習室で宿題を済ませると、よく閲覧室で蔵書を物色していた。
誰ともけたたましく話を合わせる必要もなかったし、何よりも一人でいられる時間が得られて、唯一、一日の中で本心から安らげたからだ。
古来の、忘れられた歴史上の人物の逸話やその土地の言い伝え、物事に隠された真実を発見するたびに僕は背伸びして、大人になっていくように感じた。
何よりも紙の匂いも好きだった。
入り口を抜けて誰もいない静謐な図書室で何時間も過ごすのが、何よりのカウセリングだった。
知らない支援者に事情を説明するよりも本に書いてある彼ら、彼女らと盛んに対話する方がずっと安心した。
みんなこうして孤独を掻き探っている。
どこかしら、苦悩を噛みしめている。
宙に浮いたような焦燥感に襲われるのは僕だけじゃない。
小説の一言一句を追ってこれは僕と同じだ。
こうやって感じた夕焼けに印字されたページがある、とそのときだけは世界と僕の悲哀が真正面に繋がっていると確認でき、自然と心の氷柱が溶けていけた。
閉館ぎりぎりまで時間を過ごしてから家に帰ると、疲れた顔をした義母さんが生まれたばかりの赤ん坊をあやしながらぼんやりとテレビを見ていた。
食事を摂るのも可能ならば、個室で取りたかったけれども、念のため、リビングで手短に摂り、足早に入浴してから父さんが学生の頃に使っていたという部屋で寝るまでの間、過ごしていた。
明日の準備をしてから復習をしたり、図書館から借りてきた本を啄んだりして長い夜を過ごす。
両目が冴え、床についてもそんなに簡単には眠りに就けなかった。
布団の中に入ってしまえば昔の惨状が否応なしに蘇り、その引き金でフラッシュバックする悪運を何としても避けたかったからだ。
『――真君、どうしたの。そんなに泣いたらお母さん悲しくなってしまうよ』
母さんが幼い自分に声をかけた言葉。
なぜ、胸が井戸から真っ逆さまに堕ちていくように苦しくなるんだろう。
本当に悲しいと感じるときは悲しい、と口にはしないのに。
吐息が徐々に激しくり、空気の振動さえも僕の唇から乱れる。
母さんは優しい人だった。
それは過去形であのときは決して、進行形ではなかった。
母さんは夜遅くまで働き詰めであっても、たまに取れた休みでは公園に連れていてもらった。
仕事では疲れ果てていたのに母さんは疲れた素振りも一切見せなかった。
入学式で他の子供には父親も参列していても母さんは決して、辛い表情を見せなかった。それなのにどうして母さんはあんなに豹変してしまったのだろう。
母さんが僕の学費のためにかなり怪しい仕事についたのがそもそもの転落の序章だった。
高収入だからと鵜呑みにして働いていたのが元凶だった。
あれさえなければ、僕の人生はあんなに絶望感を忘れるまで壊れずに済んだ。
僕は僕を傷つけずに済んだ。
もう一つ。
あの男の暴力さえなければ。
運の悪い出来事が重なり合い、母さんと僕は星の河を互いに見つめ合うしかない、彦星と織姫のように永久に離れてしまった。
どうして、僕が悪い子だったからだろうか。
あの男の命令のように僕には不運の遺伝子が組み込まれているのか。
他者と僕は違うんだ。
僕は普通じゃない。
安穏を許さない他者とはどうしようもない鉄壁が立ち塞がっている。
肌が肌と擦る異様なべたつき、激しく興奮している吐息、二つの狡猾な化け物の眼が睨んでいる、手招きする悪意に満ち足りた横顔、足と足の間を淫らに探る冷たい指先……。
あれは何。
あの記憶を不要になったアプリをアンインストールするように跡形もなく消去しよう。
僕の人生の画面上からアンインストールさえ実行できれば、僕もまた他の人と同じようにまともに生きられるから。
人生ゲームから不幸を除外するように決意して忌わしい過去を封印したのに、なぜ、よりによって学校であんな過ちを僕は犯したのだろう。
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