第6話 聖女が教えてくれたもの。

 翌朝、私はかつてないほど絶望的な心持ちで目覚めを迎えた。差し込む光の眩しさにぎょっとしながら時計を見ると、案の定、朝というより昼と称するべき時間帯になっていた。

「ご、ごめんなさいナギサさん、寝坊してしまって! ……ナギサさん?」

 こだまする自分の声を受け、家の中がやけに静まり返っていることに気がついた。

「あの、ナギサさん? どちらにいらっしゃるんですか? ナギサさん?」

 言いようのない不安に苛まれつつ、次から次へと部屋の扉を開けていく。どの部屋にもナギサさんの姿はなかった。返事もなければ、書き置きとかも見当たらない。

 もしかしたら鉄の渚にいるのかも。そう思って探しに行くけど、見当は外れていた。浜辺に足跡が残っていたりもしなかった。

 他に可能性があるとすれば、カルロのところだろうか。立ち所に踵を返して実家へと歩を進める。早歩きはいつしか駆け足になっていて、着いたときには青息吐息になっていた。

 扉が開くや否や、家の中へと勢いよく転がり込む。昨日と違って一秒とかからずにスリープから復帰したカルロが、お帰りなさいませ、とにこやかな笑みで私のことを出迎える。

 私は捲し立てるような勢いで、状況の説明をした。冷静さを欠いているって自分でも認識できた。そんな私とは正反対に、カルロの反応は恐ろしいほど冷静だった。

 その態度に違和感を覚えた瞬間、昨日、別れ際に告げられた意味深長な言葉が蘇った。

 ……ナギサさんとの時間を大切にして下さいね。その言葉の意味するところは、私達に残された時間が少ない、ということだったんじゃ――

 なわけない。感情的に否定する一方で、ひとたび思考の緒を得た理性は、残酷なほど淡々と考察を前に進めていった。……閉鎖先にこのコロニーが選ばれたのは、衝突事故で外壁が剥離したせいだった。宇宙船の外壁が薄くなったら、どうなる? 厚さにもよるだろうけど、宇宙線を満足に遮蔽できなくなるはずだ。DNAは日に日に破壊されていくだろうし、出生率も平均寿命も当然下がる。そういえば、島を訪れる人間には若い人しかいなかった。住人は大人になると母船で働くことになっているからだって、ナギサさんは説明してた。でもそれは私を誤魔化すための真っ赤な嘘に過ぎなくて、本当はただ単に、大人になるまで生きることが叶わないだけだったんじゃ――?

 走馬灯が爆ぜるかのように、ナギサさんとの思い出が立て続けにフラッシュバックした。

 ナギサさんが家事を任せてくれたときのこと。ちょっとは信頼してくれたんだ、認めてもらえたんだって思って、心がじわじわ暖かくなったのを覚えてる。

 ナギサさんが腕を組まないかと言ってきたときのこと。意外と愛してくれているんだ、私の体温は心地良いと思ってくれてるんだって、嬉しくなったのを覚えてる。

 だけど、嘘。そんなの嘘。全部嘘。ただの私の傲慢だ。ただの私の思い上がりだ。

 本当は、家事をこなすだけの体力がなくなったから、仕方なく私に任せてただけ。一人で長い距離を歩くのが大変になったから、支えが必要になったってだけ。なのに私は都合よく現実を歪めて、馬鹿みたいにはしゃぐばかりで、すぐ傍にいたというのに決定的な瞬間が訪れるまで、身体が弱ってることに気がつくことすらできなかった……。

 ふらふらと、見えない糸に手繰り寄せられるかのように、玄関へと足を進める。

 音もなく扉が開く。足元に四角い光が落ちる。暗がりと光の境界の手前で足を止め、私は後ろを振り向いた。数歩後ろに佇むカルロに、どこまで知っていたの、と問いかける。

「確たることは、何一つとして。ですが、昨日のナギサ様の歩き方は、明らかに衰弱した人間のそれでした。またナギサ様は、イオ様と生活を送る上での注意事項や学習の方針、このコロニーの詳細なパラメータなどを事細かに伝えた後、こう仰っしゃられました。……イオ様のことをよろしく頼む、と」

 そっか、と。その一言を返すだけで、私には精一杯だった。

 前を向く。右足を一歩先へと送り出す。扉の向こうに広がる世界は眩い光で飽和していて、清廉な白に焼き尽くされたみたいで、一瞬何も見えなくなった。

 それで、思った。あなたが与えてくれた時間があまりに眩しすぎたから、大事なことを見落としてしまってたんだ、って。

「行ってらっしゃいませ、イオ様」

「――行ってきます」

 そのやり取りを号砲に、全力で大地を蹴った。

 光あふれる島の外縁部を抜けて、常闇の支配する内部に足を踏み入れる。何度か機械が正面から向かってきたけど、一々避けてなんかいられなかった。アラートを鳴らして緊急停止する機械の天板に手を置いて、勢いのままに飛び越えた。その度に転んで膝や膝を擦りむいた。血は出ない。だけど確かな痛みがあって、肘や膝がじんじん傷む。ごめんなさい、と心の中で謝罪する。これは私の身体じゃないのに。私はあなたのものなのに。だからどうか、叱ってください。怒ってください。いつもみたいに嫌そうな表情で。ちょっとだけ意地悪な物言いで。私はやっぱりダメダメだから。アンドロイド失格だから。

 私はあなたがいてくれないと、幸せの形さえ、わからないから。

 かつてないほどの好タイムで塔の麓へと辿り着く。入り方は訪問者を案内した経験から知っていた。どうか開いてと祈りながら、外壁に手のひらを押し付ける。立ち所に認証画面が表示され、読み取った登録情報が合っているかと確認してくる。イエスの文字に触れるや否や、継ぎ目一つ見えなかった壁に出入り口が形成された。中に入ると、殺風景なホールの奥に一台のエレベーターが鎮座していた。私は走って乗り込んだ。操作パネルのボタンは開、閉、人工太陽、母船の四つ。迷わず三番目のボタンを押した。

 程なくして、扉が開く。一回で見たのと同じ構造のホールが広がる。

 ナギサさんは部屋の奥の方で純白のソファに腰かけて、端末に目を落としていた。私に気が付き、ゆっくりと顔を上げると、肩にかかった濡羽色の髪の毛がさらりと落ちた。

「やっぱり、来ちゃったか」

 崩れ落ちそうになる身体を繋ぎ止めながら、ナギサさんのところへ向かった。

 訊きたいことは幾つもあった。だけど、真っ先に知らなければならないのは。

「……鉄の渚にある鉄は、人間の遺灰なんですか?」

 ナギサさんは静かに、けれどはっきりと首を縦に振って答えた。

「核融合の燃料は、コロニーごとに備蓄先が分割されている。衝突事故で流出したのはこのコロニーの燃料だけで、辛うじて残ったぶんも二十年前に底をついてるの。太陽を灯し続けるためには代わりの材料を用意する必要があるけれど、物資や資材を燃料にするのは難しかった。宇宙船程度の小規模な閉鎖系では、ちょっとしたパラメータの変動で生態系が崩壊する恐れがあるから。そこで目をつけられたのが――」

「人間の亡骸だった。人体を構成する原子の大半は炭素や酸素、水素といった、鉄よりも軽い原子です。倫理的な問題を無視してしまえば、人の身体は荼毘に付すには惜しいほどうってつけの、核融合の燃料だった、と。……そういうこと、ですね?」

「正解。よく勉強してるわね」

「わかりますよ、このくらい。他ならぬナギサさんが、教えてくれたことですから」

 人間には生き方と死に方を選ぶ自由がある。でもそれは、社会に充分な余裕があるときの話だ。エネルギー的に逼迫した小世界を維持するためには、故人の遺志など尊重してはいられなかった。次世代の人間が太陽光を浴びるためには、人の遺体は核融合炉に放り込まざるを得なかった。そして、その燃え滓が堆積してできたのが、あの鉄屑の丘だった。

 真実を知ってしまえば、ナギサさんの祈りの意味は突飛なものでも何でもない。

 至極ありふれた、自分のために死んでいった人達への、弔いの祈りだったのだ。

「でも、腑に落ちないこともあります。住人は何故、死ぬ前にこの場所を訪れるんですか」

「人間の死体を人工太陽で燃やすなんて過程が、イレギュラー中のイレギュラーだからよ。本人が直前に同意しない限り、システムが承認してくれないの。足が動かなくなる前にこの島に赴いて、安楽死の後に炉に焚べてくれるようシステムに申請するのが、慣習なのよ」

「でも、最後の一人であるナギサさんまで燃料になる必要は、ありませんよね」

「あるわよ。そうでもしないと長くて五年、短くて三年しか太陽が持たないもの」

「それの何がいけないんですか」

「だって、イオがいるじゃない」

 何を当たり前のことを、と言わんばかりの声色だった。

 その瞬間、今まで必死で押さえつけていた何かが爆ぜた。

「そんなの、どうだっていいじゃないですか……! だって、私はただのアンドロイドなんですよ⁉ ナギサさんはナギサさんのためだけに生きてください! 私の稼働年数のことなんて、考える必要は――」

「駄目よ、そんなの。……だって私は、イオのお姉さん、なんだから」

 戸惑いの声が漏れるよりも先に、ナギサさんの胸にふわりと抱き寄せられていた。

 初めて味わう、大切な人からの抱擁。それで意識させられたのは、人肌の温もりでも柔らかさでも何でもない。やせ細った腕の脆さであり、肋骨の浮き出る胸の硬さであり、血管の浮き出た首筋の醜さだった。

 ……窒息しそうになる腕から逃れて、どういうことですか、と問いかける。

 ナギサさんは特段もったいぶることもなく、世界の過去と自らの生い立ちを紐解いた。

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