第5話 妬いてなんか、ないですよ?

 ナギサさんの付き人となってから二年と半年が過ぎた、ある日のことだ。

「お熱いので、気をつけてお食べくださいね」

 作りたてのお粥とレンゲを、パジャマ姿のナギサさんの前に置く。ナギサさんは私が席に着くのを待ってからレンゲを手に取り、息を吹きかけてからお粥を口の中へと運んだ。

「うん、美味しい。塩加減も私好みだし」

 良かったですと答えつつ、私は安堵の吐息を漏らす。

 食事の支度を任されるようになってから、既に五ヶ月。最初の頃は味が濃いだの火を通しすぎだのと駄目出しをされることが多かったけど、今では文句を言われることも殆どなくなっていた。

 ナギサさんに料理の腕を認めてもらえた。それ自体は、素直に嬉しい。でも、手放しに喜ぶことは出来ない。作るのを許されているのは未だ、お粥とかうどんみたいな簡単な献立だけなのだから。もっと凝ったものもお作りしますよと提言しても、複雑な味付けが必要な料理はまだ早い、と一蹴されてしまうのだった。まだまだ精進しなきゃいけない。

 食器を片付けたところで、一足先に家を出た。いつもはナギサさんと二人で鉄の渚に向かうのだけど、今日はその前に寄るところがあった。目的地までは三十分ほどで辿り着く。湖畔から少し離れた場所に佇む、コンクリートの箱型建築――要は、私の実家だった。

 玄関の前に立つと、扉は音もなく横にスライドした。カルロからの出迎えがないのを意外に思いながらも、ただいまと声に出して廊下を進む。

 カルロの姿は居間にあった。隅にある木製の椅子に腰かけながら、うたた寝でもするように静かに瞼を閉じている。少し、いやかなり意外なものを見た。カルロが眠っているところなんて、これまで一度も目にしたことがなかったから。俄に得した気分を味わいながら、起きて、と声をかけてみる。でも、カルロが目覚める様子はなかった。肩でも揺らそうかと手を伸ばしかけたところで、カルロがようやく瞼を開けた。

「すみません。長期のスリープに入っていたので、起動に時間がかかってしまいました」

 さり気なく胸を撫で下ろす。システムに異常でもあったんじゃないかって、少し心配になったから。でもそれを表に出すのは癪だから、おはよう、と平然とした顔で言う。

「おはようございます、イオ様。顔を合わせるのは……どうやら、半年ぶりのようですね。お元気でしたか? 身体の方にお変わりは? 内部パーツの交換や定期的なメンテナンスは、きちんとやっていますか?」

「起き抜け一発目の台詞がそれなわけ? やってるに決まってるでしょ。私の身体に不具合が生じたら、ナギサさんに迷惑がかかるんだから」

「それは良かったです」カルロが頬を綻ばせる。「ところで、今日はどのようご要件で?」

「なんか、ナギサさんがカルロに話があるんだって。取り敢えず、シャワー浴びてきてくれない? ホコリとか被ってるみたいだし」

 言いながら、カルロの肩を手のひらでぱっぱと払う。だけどカルロはぽかんとした顔つきになった後、吹き出してきた。不気味に思った私が、「急に何?」と問い詰めると。

「いえ、随分とナギサ様との生活に馴染まれているのだな、と思いまして。私には自動洗浄機能がありますから、シャワーを浴びる必要はありませんよ」

「……あ、そうだった。ごめん、うっかりしてた」

 構いませんよと爽やかに口にして、内蔵のエアダスターで早速洗浄をし始めるカルロ。

 その様をぼんやりと眺めつつ、私は少し愕然とする。単純な時間の長さで言えば、カルロと暮らしていた期間の方がナギサさんとの生活よりよっぽど長い。それなのに、過去は過去であるというだけで、こうも容易く現在に押し流されてしまうんだ。

 なんだか感傷的な気分になってしまうけど、それに浸る暇もないほどのスピードで洗浄は終わりを告げた。ナギサさんを待たせる訳にはいかないので、私たちは早急に家を出た。

「それにしても、なんだか大きくなられましたね、イオ様は」

 道中、カルロが世間話を振ってきた。……こいつ、嫌味か? チビの私がちょこちょこと速歩きしている横で、悠々と長い脚を動かしているくせに。

「いいよ、お世辞なんか言わなくて。成長するアンドロイドと言っても、本当の人間みたいに背が伸びるわけじゃないんだから。精々、誤差程度でしょ?」

「私が言っているのは身長ではなく、雰囲気や顔つきの話ですよ。私が眠っている間に、良い時間を積み重ねてきたのだな、と思いました。差し支えなければ、お聞かせ願っても?」

「……思い出話をしろってこと? まあ、別にいいけど」

 しばし思案。それらしい記憶をどうにかして捻り出し、辿々しい口調で語り始める。

 たとえば、二人でゲームをしたときのこと。ナギサさんが下手なせいで私が圧勝してしまい、もう一回もう一回と繰り返しせがまれた。手加減すると不機嫌になるから接待することも出来なくて、結局、朝になるまで付き合わされた。あれには流石に閉口だった。

 たとえば、二人で年を越したときのこと。午前零時を回り、ナギサさんからぶっきらぼうに「ま、今年もよろしく」と挨拶された瞬間に、ナギサさんとの間にはこの先も続いていくものがあるんだって実感が湧いてきて、じんわりとした喜びがこみ上げた。

 たとえば、二人でケーキを焼いたときのこと。材料の調合はナギサさんがやったけど、生地を作ったり生クリームを泡立てたりする作業は、私に任せてくれた。食べる直前になっていきなり「そういえば、今日ってイオの誕生日らしいのよね」とぞんざいに告げられて、気づいたときには大粒の涙がこぼれ落ちていた。あのときは、色々と大変だった。

 頭に浮かぶ出来事は他にも幾つもあったけど、語り尽くす前に鉄の渚に着いてしまった。

 なんだか不思議だ。取り立てて話すことなんてないと思っていたのに、いざ口を開いてみると連鎖的に記憶が掘り起こされて、逆に話足りないくらいになってしまうのだから。

 移動距離からしてナギサさんは先に着いているものと思っていたけど、到着のタイミングは同時だった。ナギサさんのことだから、私達の着く時刻を予測して家を出たのだろう。

 それはさておき、カルロとナギサさんは久しぶりの再開となる。最後に顔を合わせたのは私の稼働前だから、実に九年ぶりの対面だった。その割には、二人の反応は至極あっさりとしたものだった。ナギサさんもカルロもこういうことで感極まるタイプじゃないしなと一人で納得していると、ナギサさんが私に向かって、少し席を外すよう言ってきた。

 素直に頷いて、五十メートルほど距離を取る。精々中学生くらいにしか見えない私と違って、ナギサさんとカルロは年頃の男女って感じの風貌をしている。遠巻きに眺めていると漫画の主人公とヒロインのようにも思えて、ちょっと、いやかなり気に食わない。

 十五分ほど経った頃、終わりましたよ、とカルロから声がかかった。私はすかさずナギサさんに駆け寄ると、慣れた手付きで腕を組み、ぐいと肩を寄せてみた。

 誓って言うけど、嫉妬心から当てつけがましいことをしたわけじゃない。今の私とナギサさんの間では、手を繋ぐのも腕を組むのも至って普通のことなのだ。私は単に、いつもどおりの習慣に身を任せたに過ぎない。だというのにナギサさんは、「焼き餅でも焼いたわけ?」とからかってくる。カルロも後ろで、くつくつと忍び笑いを漏らしている。

「そ、そういうわけでは……なく、なくなくないですけど……」

「大丈夫よ、心配しないで。後にも先にも、私の付き人はあなただけだから」

 いじける私に気を使ってか、からかってやろうという魂胆か。やけに優しげな声音で言って、いつも以上に体重を預けてくるナギサさん。でも、重いということはなかった。

 私はいつも通りのペースでナギサさんと並んで歩き、鼠色の大地の手前で靴を脱いだ。鉄の渚の中央まで移動して、二人一緒に跪き、手を組んで祈りを捧げる。

 私は未だに、ナギサさんの祈りの意味を知らない。でも、これがナギサさんにとって大切な行いであるということは、理解していた。すぐ隣で祈りの真似事をしていると、ナギサさんの心の深い部分に僅かでも触れられているような気がして、なんとなく満たされた気分になる。私までお祈りをするようになったのは、それが動機だ。

 日課の祈祷を済ませると、私たちは三人で家に戻った。積もる話もあるだろうし、というナギサさんの発案がきっかけだった。

 私達はお茶を飲みながら、色々な話をした。中でも傑作だったのは、ナギサさんが書き留めていたカルロへのクレームリスト。項目が読み上げられる度に、私は思い出し笑いをしたり、冷静に考えてありえないよなとカルロに呆れ返ったり、それは流石に不条理なんじゃないかと逆に同情したりした。

 三時を少し回った当たりで、そろそろお開きという流れになった。ナギサさんから、「送っていってあげて」と命じられたので、カルロと二人で実家への帰路に着く。

 行きと同様、私はカルロにナギサさんとの思い出話をしながら歩いた。今度はカルロの番と洒落込みたいところだけど、それは無理な注文だった。カルロはあくまで私の世話役だから、私が不在の間は自動的にスリープモードに入ってしまうのだ。

 日差しを受けて微かに輝くカルロの横顔を眺めつつ、私は初めて、自分という存在がどれだけ恵まれているのかを思い知らされた。

 再び実家を後にするときは、流石に後ろ髪を引かれる思いがした。だけどカルロは、私を引き止めるようなことはしなかった。

「じゃ、私は帰るけど……元気でね、って言うのも変か。スリープに入るわけだしね」

 軽く手を上げながら、敷居を跨ぐ。そのとき、イオ様、と真後ろから声がかかった。

「ナギサさんとの時間を、大切にして下さいね」

 やけに気障なこと言うなと思いながら、振り返る。わかってるよ、と声に出したときには既に、入口は灰色の鉄扉で閉ざされていた。

 相変わらず静か過ぎるな扉だな、と思った。

 家に戻ると、ナギサさんは居間でお茶を飲んでいた。机上のポットからはもうもうと湯気が立ち上っている。散々飲んだのにまだ飲むのかと面食らいつつ、自分で淹れさせてしまったことを詫びる。別にいいわよ、とナギサさんは澄まし顔でかぶりを振った。

「それより、イオも飲まない? まだ結構残ってるんだけど」

「お言葉はありがたいのですが、これから夕食の準備をしなきゃなので」

「そんなの後でいいわよ。一人で飲み切るの大変だから、付き合ってよ」

「ナギサさんが、そう仰るなら」

 台所に向いていた身体を回転させて、席に着く。私のカップは既に用意されていて、ナギサさんが残りのお茶を注いでくれた。すみません、と恐縮しながらカップを受け取る。

「……あれ。このハーブティー、もしかして調合を変えましたか?」

「へぇ、よく気がついたわね。微妙な違いなんだけど」

「私も伊達に料理修行してませんから。で、何をお入れになったんですか?」

「伊達じゃないなんて偉そうな口利いたんだし、当ててみれば?」

 そんな言い方をされては断れない。望むところです、と力強く首肯して受けて立つ。

 が、何回お茶を口に含んでも正解に辿り着けない。むしろ考えれば考えるほど、こんな味のハーブなんてあったかなと混乱させられる一方だった。

 降参して答え合わせをお願いしてみるも、ナギサさんはさあね、とではぐらかしてくるだけだった。なんでかはわからないけど、頑なに正解を教えてくれない。

 そうこうしているうちに、結構な時間が経っていることに気がついた。テイスティングに夢中になるあまり、夕食の準備のことを失念していたらしい。「すぐ用意しますから」と手早く茶器を片付けて、いつもより急ぎ目で調理へと取り掛かる。

 気持ちに反して、頭の回転はやけに鈍重だった。いつも無意識に処理している肯定を抜かしそうになったり、包丁を取り落としそうになったりと、恐ろしいほど調子が悪い。

 いや、調子というより……、単純に、さっきから、……ものすごく、……眠いというか。

「ちょっとイオ、大丈夫? 随分と手先が怪しいように見えるけど」

 ビクン、と肩が大きく跳ねる。知らぬ間にナギサさんがすぐ隣に来ていたらしい。

「す、すみません。……なんだか、さっきから、眠気がすごくて」

「もしかしたら、ハーブティーの影響かも。睡眠の質が上がるようなものを入れたんだけど、効きすぎちゃったのかな。食事は自分で用意するから、イオは先に休んでいて」

「で、ですが――」

「この私に、寝ぼけ眼で作った料理を食べさせるつもりなの?」

 そんな言い方をされては、反論のしようがない。私は大人しく申し出を受け入れて、寝室へと向かって歩き出す。足元が覚束ないせいで何度も転びそうになってしまった。見かねたナギサさんが私の手を取り、ベッドまで誘導してくれる。ありがとうございますと言うや否や、倒れ込むようにしてベッドの上に横になる。

 と、そのとき。何故かナギサさんまで、ベッドの枕元に腰を下ろしてきた。

「ねえイオ。明日の夜は、何か手の込んだもの作ってくれない? うんと豪勢なやつ」

 あまりに突拍子のないことを言われたものだから、夢なんじゃないかと思った。緩慢な手付きで自分の頬をつねってみるも、ナギサさんが呆れ顔で「現実よ」と指摘してくる。

「今夜は休ませてあげるぶん、明日はご馳走作ってねって言ってるの」

「で、でも、……良いんですか? 私ってば、ハーブティーのテイスティングも満足にできないような、不束者なのに」

「そんなことない。あの微妙な味の違いに気づけただけでも、称賛に値するわよ。大体、誤魔化しや修正が利く凝ったものより、シンプルな料理の方がよっぽど難しいんだから。イオはとっくに、私よりも料理上手になってるわ。自信持って」

 ……や、やっぱりこれ、夢なんじゃないのかな。さっきからあまりにも私に都合が良すぎるっていうか、控えめに言ってナギサさんがこんな優しいわけないっていうか、これじゃ本当に聖女以外の何者でもないっていうか――

 突然、頬に柔らかな熱を感じた。ナギサさんが右の手のひらで、私の頬を包み込んできたらしい。手のひらの温度を塗り拡げるかのように、ゆっくりと指先を動かしてくる。

「相変わらず体温低いわね、イオは。……って、ごめん。寝るの邪魔しちゃ本末転倒か」

 もう行くから、とナギサさんが立ち上がる。

 翻る黒衣の裾を、気づけば指先で摘んでいた。どうしたの、とナギサさんが振り返る。

「……もう少しだけ、ここにいて、ください。……じゃなきゃ、眠ってしまう、ので」

「それの何がいけないのよ」

「明日の献立、決めちゃいたい、から。ナギサさんは、……どんなのが食べたい、ですか」

「そんなの、明日話し合えばいいでしょ。今は無理せず寝ておきなさい。ね?」

 ナギサさんの身体を繋ぎ止めている人差し指と親指を、ナギサさんがそっとほどいた。

 連動するかのように、辛うじて残っていた意識の糸がぷつりと切れる。瞼が加速度的に閉じていき、ナギサさんの後ろ姿がみるみる不鮮明になっていく。

「おやすみ、イオ。いい夢、見られるといいわね」

 闇に落ち行く世界の中で、おやすみの声だけが、すれ違いざまの残り香のようにふんわりと立ち昇った。でもそれは一秒と経たずにかき消えて、本当の暗闇だけが残される。

 おやすみなさいと返せなかったのが、ひどく、心残りだった。

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