【陸】

 翌朝、彼女は目覚めると早々に着替えて日課だという散歩に出かけてしまった。本当に流れるような動作で、つまり僕は憑りついている人間に置いていかれたのだった。

 仕方がないので建物の中を散策することにする。

 張り紙や看板を読んでみると、ここが高齢者向けの居住施設であること、重篤な要介護者から比較的健康な人も住んでいること、介護者や医療従事者のスタッフが多く常駐していること、昨日せつなと会ったような多目的室がいくつかあって、日々催し物や集会があること、ということが分かった。

 敷地もこの建物だけでなく、周りの広葉樹林の一部も敷地内のようだった。

「いい所でしょ?」

 いつの間にか、せつなが後ろに立っていた。小さく頷きながら答える。

「確かに」

「絵に描いたような『終の棲家』って感じよね」

「出かけたんじゃなかったのか?」

「せっかく話し相手がいるのに、独りでいるのはもったいないかなって思って早めに帰ってきたの」

 外出用か、昨日の反省を踏まえてか、せつなはペットボトルの水を少しずつ飲みながらしゃべる。

「でも、なんだか自分と話しているみたいなのよ。どうしてかしら」

 彼女はするどい。

 死神の思考能力は宿主に依存している。と言うより、宿主の思考を読み取り、会話がつながる様に返事を返しているに過ぎない。宿主にとって予想外の振る舞いはできないのだ。

 実は宿主が口を開かなくても会話ができるのだが、気味悪がられるので基本は教えないことにしている。


 せつなが食堂で朝食を摂るのをぼんやり待って、自室まで帰ってきた。せつなが聞いてくる。

「他の人に見えないって、不便じゃない?」

「元からそうだから」

「カメラにも写らないのよねぇ。鏡で姿を確認することはできるのに」

 彼女は携帯端末越しに僕を覗く。

「他にも死神さんっているの?」

「いるな」

「見たことないけれど」

「死ぬ間際の、特定の人間にしか見えない」

「でも、ここって見ての通り、お年寄りが多いから亡くなる人もいるのよ。それなのに、死神の噂も全然ないなんて」

「死にゆく人間全員に死神がつくわけじゃない」

「そうなの? あーでもそっか。人間全員に七日間もついていたら、死神さんがすっごくたくさんいないといけないわよね」

「そんなにたくさんはいない」

「じゃあ、ほかの人には必要ないけれど、私には死神が必要だってこと?」

「そう」

「私、方向音痴でも未練がましくもないわ」

 彼女は不満げにそう言って、戸棚から一冊の厚めの本を取り出して嬉しそうに言う。

「ほら、ちゃんとまとめてあるんだから」

 本の表紙には「Bucket List」と書かれていた。「死ぬまでにしたい百のこと」みたいなものを書いておく冊子らしい。

 中を見せてもらう。『シャトーブリアンを食べる』『ふぐ刺しを食べる』『わんこそばを食べる』……。

「食べ物のことが多いな」

「そのページに多いだけよぉ。それに、年を取ってあまり食べられなくなるより前に味わっておきたいものがたくさんあったのよ」

 せつなが口をとがらせる。

「死神は、食事もいらないの?」

「必要ない」

「一体何を糧に動いているのかしらね……」

 せつながそう言ってキッチンへ向かう。籠に盛られた林檎の一つを掴んで投げて寄こす。

 僕は慌ててキャッチして彼女の方を見る。

「お食べ」

 せつなが僕を撮りながらそう促してきた。

 僕は手元の林檎をまじまじと見つめる。何の変哲もない林檎に見えるので、一口かじってみる。

 口の中に甘く瑞々しい味と香りが広がる。

「美味しい?」

 彼女に尋ねられて、咀嚼しながら頷く。手に持っている林檎は、僕がかじった分、欠けていた。

 テーブルに置くと、僕のかじった分が戻って、何事もなかったかのような元の林檎に戻る。

「不思議ねぇ」

 せつなが撮った写真を見せてもらう。誰もいないテーブルと椅子の写真。次にめくると欠けていない林檎の乗ったテーブルと椅子の写真。

 おそらく、せつな以外の人間がここにいたら、せつなが虚空に向かって投げた林檎が突如消えて、少ししてから急にテーブルの上に置かれたように見えるのだろう。

 せつながぼそりと聞いてきた。

「触れてみてもいいかしら」

 僕が頷くと、せつなの手がゆっくりと僕の手に伸びてくる。しかし触るかどうかの距離でぴたりと止まった。

「触ったら寿命が短くなるとか気絶しちゃうとか、ないわよね?」

「無いよ」

 せつなの指先が、遠慮がちに僕の手の甲を撫でる。

「人っぽいわ」

「人型ではある」

「そういえばエイって手ぶらだけど、何か持ってないの?」

「何かって?」

「手帳とか? これから死ぬ人の情報が書いてあるような」

「さぁ……」

 そういったものを持っている自覚はない。

 でもせつなに促され、ジャケットのポケットを探ると、内ポケットから、黒い手帳とボールペンが出てきた。

「あるじゃない」

 しかし中を開いてみたら、罫線すら引かれていない白紙が綴られているだけの冊子だった。

「真っ白ね」

 彼女が手帳を覗き込みながら言う。ペンも問題なく書けるようだが、特に変わったところはない。内ポケットにしまいながら答える。

「誰かにお願いされて来るわけじゃないから」

「でも私が死ぬのは分かるの?」

「そう言われても……」

「守秘義務というより、本当に分からないみたいね」

「うん」

「あとは、そうだ。鎌、死神と言ったら死神の鎌でしょ。それもないの?」

「鎌なら持ってる」

「どこ?」

 僕は二三歩下がって、自分の胸の前の空中を指先でなぞる。

 なぞった軌跡に沿って灰色の旋風が出て、その灰色が僕の身の丈以上の大鎌に変化した。僕は当たり前のように大鎌を受け取る。

 種も仕掛けもない瞬間芸に、せつながぽかんとした顔で見ていた。

「驚いた……」

「見れば分かる」

 せつなは、突如出現した灰色の大鎌を、子どものようなきらきらとした目で見つめる。

「触ってみてもいいかしら」

 僕は無言で差し出す。

「金属のようだけれど……ちょっと違うような」

 彼女は指先で撫でながら呟く。

「重たくないの?」

「別に」

 そう言う僕から大鎌を受け取ろうと試みるが。

「あら?」

 彼女が掴もうとすると、靄をつかむ様にすり抜けてしまった。何度やってみても上手くいかない。

「不思議ね……」

 しばらく、彼女の好奇心がみたされるまで、あれこれ付き合った。


 せつなが淹れたての紅茶を飲みながら聞いてきた。

「エイは、普段何をしているの?」

「普段?」

「私のところに来る前とか」

「覚えていない」

「でも自分のことが死神だって分かるの?」

「そういうものだから」

「じゃあ、どこから来てどこへ行くの?」

「陰より出でて、陰に還る」

「フゥーカッコイー」

 彼女が茶化すように言う。それから、スッ……と真顔になって聞いてきた。

「昨日から思ってたんだけど……」

「なんだ?」

「なん……か、話し方違うん…………ぅぅ」

「すごい顔してる」

「いや、あのぉ……オタクの妄想だっていうのは分かってるのよ? でもね……、同じ顔で話し方違うのは何か違和感っていうか……」

「はぁ」

「なので頑張って掘り出しました。秘蔵の映像セレクトです。一緒に見ましょう」

 彼女は据え置きの液晶をリモコンで操作している。僕は返事をしかけたが思い留まって黙って頷く。また「なんか違う」などと言われてはかなわない。

 彼女の操作する画面をおとなしく眺める。その日は一日、横に座る彼女の熱心な解説付きで鑑賞をして過ごした。


 せつなが死ぬまで、あと五日。

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