死神の仕事

北西 時雨

【漆】

 都市部から少し離れた緑の多い住宅街の一角。四季を感じる広葉樹林の中に、その建物はあった。

 清潔感と高級感をそなえた白い外観。病院にしてはデザイン性が高く、マンションにしては不規則な形をしていて、商業施設にしては閑静な、やや高層の建築物。

 僕は表門と思しきところをくぐり、建物の中に入る。

 広い玄関ホールから続く、窓が大きく作られた明るい廊下を進む。

 食堂かラウンジのようなところに、人が集まっているのを見つけた。パイプ椅子が一方向を向いて並べられ、人々が腰かけている。人々の視線の先にはピアノが置かれていて、老若男女が代わる代わるピアノを弾いているようだった。僕は空いている後方の席に腰かけ人々に倣ってピアノの方を向く。

 司会を務めていると思われる人間が、おそらくは演奏者と曲名を読み上げている。呼ばれた演奏者は観客の前で一礼し、一曲弾いてからまた一礼して去っていく。

 小さな子どもから大人や杖を突いた老人、親子の連弾と様々な人間が演奏をしていく。その度にパラパラと拍手が起きる。司会者が、台本を見ながら最後のプログラムを読み上げる。

「――作曲、『月の光』」

 そして、一人の老女がゆっくり立ち上がった。

 銀糸を思わせる長い髪が、高い位置で結い上げられ細い首筋に流れ込んでいる。上品な薄紫のドレスで身を包み、童話に出てくる聡明な妖精のように神秘的な姿で、すらりと前に歩んできて、一礼をする。

 それから流れるような動作で椅子の高さを調整し、鍵盤をハンカチで拭いてから、おもむろに弾き始めた。

 始めは小さく静かに音が鳴る。きらきらとした音が、揺らぐように生み出されていく。次第に、低く高く、大きく小さく、緩急をつけて旋律を奏でる。

 昼下がりの室内に、夜の草原の風が流れる。

 先ほどまでの演奏者では退屈そうにしていた者も、一様に耳を澄ましていた。

 曲が終わり、老女が最後の一礼をしたときには、その日一番の拍手が送られた。


 演奏会が終わり、銘々に席から離れていく。後からやってきて我が物顔で座ったままの僕を気に留める人間はいなかった。

 ピアノの近くで司会者や観客と話している老女を見る。にこやかに応対していた老女が、ふとこちらを見た。

 目が合う。

 しかし視線を外して再び会話に戻る。老女は小さな花束を受け取り、人々を見送った。

 人が減った室内で、老女が、背筋を伸ばしてゆったりとした所作で僕のところまで歩いてくる。腕にかかった薄地のショールが、天女の羽衣のように揺れている。

 老女の足が、僕の前でぴたりと止まる。優雅さを崩さないまま微笑み、こう言った。 

「貴方、死神ね?」


 廊下を進む彼女の後ろについて歩く。

 エレベーターに乗って何階かに上がり、同じ形の扉の並ぶところまで来た。そのうちの一つの鍵を開けて、促されるまま部屋に入る。

 部屋の中は、マンションのワンルームのようになっていて、一人で寝るには大きすぎるようなベッド、小さな戸棚、普段から使われていて掃除もされているシステムキッチンと調理家電、レースのかけられたアップライトピアノ、丸テーブルに揃いの椅子が二脚置かれていた。一人で住むには広めの部屋に置かれている物の少なさに、多少殺風景な印象を受ける。

 彼女は、この部屋の主なのだろう。丸テーブルの椅子に腰かけ、向かいの席に座るように促しながら聞いてきた。

「誰も貴方のことが見えてなかったみたい」

「死神は宿主以外には見えない」

「せつな」

「え?」

「せつな。私の名前。平仮名三つで『せつな』。可愛いでしょ?」

「はぁ」

「貴方のお名前は?」

「無い」

「ナイさん?」

「呼称が存在しない」

「不便ねぇ」

「そうかな」

「うーん……。じゃあ私が呼びやすいのでいいかしら」

「どうぞ?」

「じゃあねぇ……」

 せつなは顎に指を当ててしばらく考えてから口を開く。

「『エイ』っていうのはどうかしら。『えー』ってだらしなく伸ばすんじゃなくて、エ、イ、って綺麗にはっきり発音してね」

「はぁ」

 僕に話しかけるのはせつな一人なのだから、そんなことを注意しなくてもよいのではないだろうか?

 まぁ、悟っているなら話は早い。

 僕はおもむろに告げる。

「貴女は、あと七日で死ぬ」

「それを言いに来たの?」

「まぁ……。最期までいるつもりではいるけど」

「御苦労様。私、そんな歳じゃないわ」

「そう言われても」

「そうね。人間いつか死ぬわね」

 彼女は冷笑気味にそう言って目を細めた。

「どうして分かった?」

「ん?」

「僕が、」

「死神だって?」

 そう言うせつなに僕が頷く。せつなは、戸棚から電気仕掛けの写真立てを取り出し、何枚か表示されていた家族写真をいくつかめくって、一人の男性の写真を見せてきた。

「ほら、そっくりじゃない?」

 僕は写真たてを覗き込む。黒いカジュアルスーツを着て黒いブーツを履いた若い男性が、窮屈そうに座っていた。ジャケットと同じくらい黒い、長めの前髪から覗く黒い瞳が、少々上目遣い気味にこちらを睨んでいる。白い肌に整った怜悧な目鼻立ちをしている。その眼光は、挑戦的なようにも不安げにも見えた。

 ふと顔を上げると、姿見があったので、今の自分を見た。

「確かに」

 言われてみると、写真の人物とよく似ていた。

 なるほど。今回はこうなったのか。

 僕は写真を指差し、せつなに尋ねる。

「誰だ?」

「私の死神」

 せつなの声はいたって真剣で、冗談を言っているようには聞こえなかった。

 僕が、なんと返したものか、という顔をしていたのだろうか、彼女はふっと笑って言う。

「××さん。×× ××さん」

 嬉しそうな声色に不快な雑音が混ざり、僕は一瞬眉間に皺を寄せてしまう。

 死神にとって、宿主以外の名前は、全て砂嵐のような雑音に聞こえるのだ。

 僕はなるべく悟られないように額に手を当てて尋ねる。

「知り合いか?」

「私の推し」

「推し」

 白銀の淑女の口から、あまりに似つかわしくない単語が出てきて、復唱してしまう。

 続けて聞く。

「何者だ?」

「……作家?」

「なんで自信なさげなんだ」

「色々やっているのよ。マルチなんとかっていうやつ?」

 せつなはそう言いながら、テーブルに置いてあった携帯端末を操作し、一人の男性の経歴表のようなものを見せてきた。

「小説も書くし……雑誌のコラムとかも。彼の紡ぐ言葉が好きなの。お話も上手で面白くて……」

 彼女はそう話しながら、スクロールしていく。出てきた「近影」と書かれた写真を見て、僕が呟く。

「爺さんじゃないか」

 僕がそう言うと、彼女は少しだけむっとしたような顔をしてこたえる。

「そっちは若い頃の写真。確か……二十代の頃だったと思うけれど」

 それから彼女は腰に手を当て胸を少し反らして言う。

「言っておくけど、私の方が少しだけ年上なんだからね」

 写真たての男と「近影」に映る男の両方を慈しむように見つめる彼女に尋ねる。

「会いたいか?」

「昔、それこそ貴方くらいの歳の頃に、一回だけイベントで拝見したわ。もう本当に広い会場で、本人なんて、もーこんなん」

 せつなは苦笑いをしながら親指と人差し指を狭めて、豆粒大のスケールを表現する。

「でもねぇ。あんまり体力がある方ではないのだけれど、舞台の上を目一杯歩き回って客席の端から端まで目線を配って。でその時にね、他の登壇者と、」

 せつなが急に言葉を切る。矢継ぎ早に話していた彼女が急に咳き込み出した。

「大丈夫か?」

 近づこうとする僕に彼女が手で制止する。

「何か、必要なものは」

 そう聞いても、ただ咳き込むだけで何も示してこない。彼女はキッチンから小さな吸い飲みを出してきて、少しずつ水を飲み始めた。

 その様子が、彼女のこれまでの独りの時間を表しているようで、僕は手が出せなかった。

「ちょっと……ね、お医者様から、咳が、出るからって。……長い時間のお喋りは気を付けてって、言われてたのだけれど」

 彼女はやっとのことでそう言ってから息を整える。

「それ以外は健康そのものなんだから」

「はぁ」

 この期に及んでそう言われても……。

「困った顔が特にそっくりね」

 彼女はクスクスと笑って言う。

「初めてこの写真を見たときに思ったの。ああ、きっと私の『お迎え』はこういう顔をしているんだろう、って……」

 そう言う彼女は遠い方を見るように窓の方を向く。何も言わない僕に彼女が尋ねる。

「聞かない? 死神は、理想の異性の姿をしているって」

「さぁ」

「まぁね。人間が作った作り話だからね」

 せつなが肩をすくめる。それから彼女はにっこり笑って言う。

「じゃあ、私が死ぬまでいるんだ?」

「まぁ」

「えー。じゃあどこに寝る? 私が使っているのは二人でも大丈夫な物だけれど」

「えぇ……?」

「もちろんお客様用の簡易ベッドもあるわよ」

「死神に睡眠は必要ない」

「またまた~」

 クスクス笑う彼女に今度は僕が肩をすくめる番だった。食えない婆さんだ……。


 せつなが死ぬまで、あと六日。

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