第4話 始まりの出会い
今から500年前、ヴァルは吸血鬼としてこの世に生まれ堕ちた。
気づいたらヴァルはヴァルとして存在し,しかしどのように生まれたのかは本人もわからぬまま、吸血鬼として長らくひとりで生きてきた。
屍鬼は生気がないと、大した力も使えない上弱くなってしまう。なので生まれてすぐの頃のヴァルは生気を多く摂取するために、森の動物や迷い込んだ人を襲い食らうだけの日々を過ごしていた。
しかしヴァルはそんな変わり映えのしない毎日に辟易していた。要するにめちゃくちゃ暇であった。
なによりそうして暮らしているうちに、心にポッカリと穴が空いていくのが感じられた。その穴は、時間の流れと共にどんどん大きくなっていく心地がした。何故そうなるのかヴァルはわからなかったが、ただ不快ではあった。
「…いっぺんここを出てみるか。環境が変わるわけだし、この変な感じも、つまんねー毎日も、なんとかなるかもしんねーし」
そして満月の夜に、30年ほど棲家にしていた場所を飛び出して、人間世界に繰り出した。
結果的にヴァルは、他の吸血鬼以上に好奇心が強く、そして快楽に弱くなってしまった。ふらふらコロコロと居場所や住処を変え、そのまま時代や地域で移り変わる刺激的な人間の文明文化にどっぷり浸っていった。
そうして生きている中で、何目的であれ色んな人間達が自分に声をかけたり求めてくることがあった。楽しかったり賑やかなことが好きなヴァルは、それらに応じて日々を過ごしていた。
そして一夜を共にすることもある中で、人間達の様々な姿を見るのが、ヴァルは愉快で仕方がなかった。
快楽自体もそうであったが、全てにおいて通じてあったのが、こちらに向けるその視線が、声が、熱が、求められることが、ヴァルにはなんだか酷く快く思えた。その瞬間だけは、心に空いた穴が埋まった心地がしたのだった。
しかしそれも大抵は日が昇るまでの間。2人きりで無防備になりやすいその時は、ヴァルの中では食事をする時でもあった。
そして夜を共にした人間たちを最後に食い殺すと、心の穴はまた決まって元に戻って空いていったのだった。
「あんなにぬくかったのになー…なんで人間って死んだらなんも言わなくなるし、冷たくなんのかな」
ベッドで目を覚ましたヴァルは、隣で横たわり死んでいるこの家の住民をなんとなく抱きしめて呟いた。その人間の首には赤い点のような傷が2つ、印のようについていた。
「昨日は楽しかったし、こいつの血は美味かったなー…って、こうしてたら朝になっちまうか。早く出ねーと」
朝になったら日光のせいで移動が困難になる。ヴァルは急いで身支度を整え、ついでに喰い殺した人間の体を清め、服を着せてまたベッドに寝かせた。
「喰った後はちゃんとキレーにしねーとな。たつ
昨日の生きていた時と同じ姿、寝ているように安らかな表情。けれど物言わぬ肉塊になったその人間の顔を見て…ヴァルは心がまた薄寒くなるのを感じ、そっと自身の胸をおさえた。
しかし、そうなる事そのものに、ヴァルは何か疑問等を持つことはなかった。彼にとって人間というものは、言葉は通じても遥かに脆く弱い生き物で餌止まりだった。それ以上に思考を巡らす余地が、当時の彼にはなかった。
「…ま、いっか。アンタと話すの、結構楽しかったぜ。じゃ、オヤスミ」
ヴァルは笑ってそう言うと、生きていた頃と同じく、その人間の唇に一つキスを落とした。
そして変身で尖った耳を人間と同じ形にし、瞳の色も赤から緑色に変えると、開けた窓に足をかけて、そのまま外へ飛び出した。
色んな土地の色んな人間を、ヴァルはそうやって喰い殺していった。遊んで楽しんで、喰べる時には血の一滴も残さずに全ていただく…人間たちに思うものは、それくらいしか存在しないだろうと、ヴァルはずっとそう考えていた。
なので、人間と恋をして番いになる吸血鬼を見て彼は心底驚いた。
基本的に屍鬼は、たとえ屍鬼同士でも繁殖行為は行えず、生命は生まれないので番う必要はない。
その上で人間と…餌と番うなんて正気の沙汰ではないとヴァルは思った。感覚的には人間が豚や魚と結婚するようなものだ。
そのままずっと一緒にいたいからと、人間に血を分け与える契約を交わして眷属…同じ吸血鬼にさせるものもいた。
眷属契約は元は動物たちに行って自分の手足としての駒を増やすための方法である。眷属になれば主である吸血鬼が死ぬまでは共に生きていけるようになるが、人間になると成功率は低く、契約に適合できなければそのまま死に至る。つまりかなりの賭けなのだ。
屍鬼にとっては餌でしかないはずの人間に、そこまでの感情を持って、そうする価値があるのだろうか?
「ほんと、意味わかんねーな…」
イカれている。行く先で見かけた、幸せそうにしているその吸血鬼と人間を見て、ヴァルはそう思った。
「くっそ…ハ…痛っでぇ…っ…ッ!」
ある日ヴァルは、とある国で観光がてら餌にする人間を探してふらついていた際に、街中で吸血鬼ということが人間たちにばれてしまい、そのまま袋叩きにあってしまった。
たまたま訪れたその国が信仰深い地域だったからか、屍鬼対策が住民たちに徹底されていたこと、そしてヴァル自身が長く生きる間に警戒心が薄れ、人間をなめていたことで、何百何千という人間から攻撃を受けてしまった。
体のあちこちが聖水や銀剣でやられ瀕死になりながらも、ヴァルはなんとか街を飛んで抜け出した。
人間たちはヴァルを国の外まで追いかけてくることはなかった。それ自体はヴァルにとってありがたいことであったが、ダメージが大きくもう動けない。せめて人もおらず日陰が多くある森の方まで飛ぼうと思ったが,その手前の草原が広がる道端に、墜落するようにドサリとうつ伏せに倒れ込んだ。
空が段々と白んで、もうすぐ夜明けがやってくることを告げていた。弱った今なら少しでも当たれば治癒も間に合わないで、すぐに焼けて灰となって消えるのは明白だった。
ああ、こんな無様にオレは死ぬのか…ダッセぇなぁ…つーかまだ生きていたかったなぁ…そう思っていると、駆け寄る音と、若い男の声がすぐそばでした。
「あなた、大丈夫ですか!ああ、なんてひどい怪我だ…すぐに手当てをしないと…!」
「まさか薬草を取りに行こうとして、倒れている人を見つけるとは思いませんでした…あんなに傷だらけで…なにがあったんですか?」
「…ちょっと、ゴロツキに襲われたんだ…」
「成程…それは大変でしたね…でも、手遅れになる前に発見できて良かったです、本当に」
その男はレイシーといい、街から外れた丘の上でひとり、死んだ親から引き継いだ薬屋をしていた。
彼はヴァルを自宅兼店の空き部屋になんとか運び込み、熱心に看病をした。
レイシーは金髪にメガネの碧眼でヒョロリと背が高い男だった。見るからにお人好しで弱そうな男だと、ヴァルは思った。
尖った耳はとっさに髪で隠したが、弱りすぎて変身や催眠術の類を使えない影響で、ヴァルは屍鬼特有の赤い瞳をレイシーに見られてしまった。
しかしレイシーは特に気にしていないようで変わらずせっせと手当てをしていた。
ヴァルは逆に不審に思ってわざと自分から目の話を振ると、
「変わった色をしていますよね…あ、いえその、悪い意味ではなく!珍しいという意味で…とても綺麗で、素敵な目だと思います」
と、眼鏡の奥の碧眼をゆるりと細めて微笑んだ。
その様子を見てヴァルは「この人間、もしかしたらめちゃくちゃ世間知らずのアホなのかもしれない…」とひっそり心の中で呟いた。
とはいえ、自分の赤い眼を褒められるそのこと自体は悪い気がしなかった。
連れてこられた部屋は雨戸があるので日光に関しては問題ない。食べ物については、いっそ目の前のレイシーを食い殺そうかと思ったが、この体調だとこの男に勝てるかも怪しい。それにモヤシのようなあまりにもひょろっちいその体は、食欲をそそられなかった。多分、食っても美味しくない。長生きしてきたヴァルの舌は、無駄に肥えていた。
ヴァルは、ひとまず動けるようになるまで、大人しく安静にしていようと考えた。
しかしなんとか生気をとらないと、より弱くなってしまううえ、怪我も治せない。
「なぁ、新鮮な果物か、生肉ねぇの…オレそれ食いたい…」
「ええ!?だめですよ生肉なんて!体に悪いですよ!」
レイシーが大声を上げたので、うるせぇ〜…とヴァルは思わず顔を顰めた。
「お前声でかい…じゃあ果物でいいから…なんかねぇの…」
「あ、も、申し訳ない…その、果物なら林檎がありますから切って持ってきます。ちょっと待っていてくださいね」
レイシーは声のボリュームを下げてそう言い、一度部屋を出ていった。その様子を見送って、ヴァルは考える。
回復するまで人間のフリはするとして、そのままでいるのはつまらない。あいつは見るからにお人好し臭いから、ここにしばらくいさせてほしいといえば、住まわせてくれるだろう。いつバレるか、それまでここに住んでみよう。バレたら、それこそ喰い殺してここを出よう。いつまでバレずにいるかのゲームだな。なんだか面白くなってきた。それにそれまでにあいつに物を食わせて少しでも太らせておけば、食いでも増えるし味もよくなるか。よし、そうするか。
ぷくぷくに太らせたレイシーの姿を想像して、ヴァルはひとり、ケケケと悪魔のように笑ったのだった。
半年が経った。
あの日から、作戦通りレイシーの家にヴァルは居候していた。怪我も治ったので、吸血鬼とバレないように無理やり生活を昼夜逆転させ、嘘をついてなんとか日中外には出ないようにし、働く代わりに家の家事全般を担当していた。面倒なことが嫌いではあったが、それでも真面目に日々取り組んでいた。
住み始めて3ヶ月頃までは「いつバレるかな〜」と、半分ワクワクしながら過ごしていたが、レイシーはあいもかわらず何も気づかないままヴァルを住わせていた。
「こいつマジで人が良すぎねーか?というかオレが屍鬼じゃなかったとしても、この状況に疑問持たねーの?逆に心配になってきたな…詐欺に引っかかったり怪しい壺とか買ってそうだもんなコイツ…」
まだ食い時ではないにしろなんの進展がないので、いっそ正体をこちらからバラしてしまおうかとも思ったが、それはなんだか面白くない。あまりにも気づかないレイシーを見て、ヴァルは呆れながらもそのまま住むことを継続した。
レイシーの店は本人の優しさと良質で豊富な品揃えの薬があることから、沢山の人間がよく訪れていた。その人間達に、ヴァルは気まぐれに接客することもあった。
客と会話を重ねるうちに、この辺りは長年屍鬼はほとんど見かけていないと言うことをヴァルは知った。
「こいつらオレが屍鬼って知ったらすげー顔してビビるんだろうなー…」と考えながらも、レイシーがヴァルのことをかなり好意的に解釈して皆に話したこともあって、こちらを疑いもせずに笑顔を見せる人間達に、ヴァルは手を振って笑い返していた。
ヴァルは、そこそこ動けるようになるまでは何もせず、泊まっている部屋に篭り続けであった。しかしそのうちレイシーと夜空を見たり、チェスをしたり、四季の祭りに参加したり、酒を遅くまで飲み交わしたりまでするようになった。
今までの刺激的な生活とは違うが、これはこれで楽しいもんだな…とヴァルはレイシーといる中で段々と充足感を感じ始めていた。
「いやー…前から思ってたけどお前、びっくりするくらい料理下手っつうか不器用だな…」
「も、申し訳ない…これでも頑張ったんですが…」
ある日、昼食を用意しようと思ったヴァルは、レイシーにサラダを作るように頼んだ。しかしできあがっていたのはまるで惨殺現場のような野菜の盛り合わせだった。何をどうすればレタスもきゅうりもパプリカもここまでぐちゃぐちゃになるのだろうか。
しかも作る過程で怪我してしまい,レイシーの手には絆創膏が貼られていた。
レイシーが怪我をしてすぐ、ヴァルが手当をしてあげたものだ。平静を装っているものの、傷口に滲む血の赤色と久々の人間の血の魅惑的な匂いに、ヴァルの喉と腹はひっきりなしに鳴り、口の中は唾液がずっと溢れかえっている。
レイシーの白い細腕に思わずかぶりつきたい衝動にかられたが、ヴァルは必死にその食欲を理性で抑え込んだ。
「…まぁ、これでも食えないことはないし、いいだろ。にしてもおもしれー切り方したなお前。逆に才能あるんじゃね?」
「ヴァルさん…」
「ほら、早く食おうぜ。オレ、腹が減っちまった」
ヴァルが明るく笑って言うと、萎れた青菜のようにしょぼくれていたレイシーも安心したように笑い返した。
「…そうですね。僕もお腹がペコペコです。食べましょうか」
机に向かい合わせに座って、毎日3食、レイシーと食事を共にする。
他愛無い話で談笑して、ほとんどなんの足しにもならないものの、「足りない分はまぁ、他のやつで生気補給すりゃいいか」なんて思いながらヴァルも同じ料理を食べた。
なぜだか、レイシーとこうして共にいると、胸に空いた穴が埋まってポカポカのあたたかくなったような心地になるのだ。
その感覚がヴァルはやはりわからないままだったが、それ自体は不快ではなくむしろ心地よいとさえ思えた。
「このトマトと海鮮のパスタ、とっても美味しくて僕好きなんですよね。また作ってくださいよ、ヴァルさん」
「お前、そればっかりだなぁ。2週間前にも作ったってのに」
「だって本当にそれくらい美味しいんですよ。毎日食べたいくらいです」
そう言いながら、出会った時よりも血色が良くなった顔で笑うレイシー。その顔を見てヴァルは「今のこいつはすごい美味そうだけど、なんか、喰いたくねぇなぁ…」と思いながら、グゥとなる自身の腹を手で押さえたのだった。
それから数日後。ヴァルとレイシーはいつもように晩酌をしていた。
「ひっく…なぁにこれぇ、知恵の輪かぁ?」
酔っ払っているヴァルは頬杖をつき、レイシーからの贈り物を目の前でぷらぷら揺らしながらそう言った。
ヴァルの向かい側に座っているレイシーはそれを聞いて少し言いにくそうに答える。
「ええと、髪飾りです。街でたまたま見かけて…日頃の感謝の贈り物と言いますか…ヴァルさんは普段髪を括っているので、似合いそうだなと…」
「へー…」
レイシーの言葉を聞いてから、ヴァルは改めて贈り物を見る。
手のひらサイズの白い四角いレザーには両端に穴がいくつか並んで空いており、そこには赤いリボンが通されている。言われてみれば確かに知恵の輪というよりは髪飾りだった。使い方としてはおそらく、髪の結び目をレザー部分で包んでリボンで縛り隠すのだろう。
「…ん?でもこれ女モンじゃね?」
「え!そうなんですか!?」
「じゃねぇ?デザイン的に。リボンだし」
特に深い意味もなく言っただけのヴァルの言葉にレイシーは慌てふためいた。
「す、すいません、ヴァルさんの目と同じで綺麗な赤色だと思って…ちゃんと見ずに買ってしまいました…本当に申し訳ない、贈り物なのにそこまで気が回らず…」
「…」
萎れた花のように項垂れて謝罪するレイシー。そんなふうに謝らせるつもりがなかったヴァルは、少し申し訳なく思う反面、いつもよりもさらにじんわりと胸があたたかくなるのを感じた。そして風呂上がりで下ろしていた髪をシュルシュルと慣れた手つきで纏め始めた。
「あのっ、また別の、今度はちゃんと男性用のものの髪飾りを買ってきますので…!」
「レイシー」
相手の言葉を遮るようにヴァルが声をかけると、レイシーは言葉を止めて恐る恐る顔をあげた。
ヴァルは、レイシーがくれたリボンの髪飾りがよく見えるように、肩から束ねた髪を垂らしてみせた。
「どーよ!似合うだろ!」
「す…すごく似合ってます!」
ヴァルが笑ってそう言うと、レイシーは先程とは打って変わって感心したように目を輝かせる。それに気を良くしたヴァルはフフーンと自慢げに椅子にもたれかかった。
「だろー?さすがオレ様、なんでも似合っちまうな!」
自分の姿形は物に映らないので確認できないものの、レイシーの見立て通り、自分はこのリボンの赤が似合うのだな、とヴァルは思った。同時に、なんだかそれがとても嬉しく感じられた。
今まで人間と接する時は、バレたりしないように名前を偽り、屍鬼の特徴である目の色や見た目を変えたりしていた。自身の素の赤い瞳を誰かに見せることも、それを綺麗と褒められ感謝の贈り物を貰うことも、ヴァルはこれまで一度もなかったのだ。
「あんがとなレイシー。すげー嬉しい。大事に使わせてもらうぜ」
「!はい。こちらこそ、いつもありがとうございます、ヴァルさん」
ヴァルが笑ってお礼を言うと、レイシーが青い眼をゆるりと細めて、嬉しそうにへにゃけた笑みを溢した。
レイシーのその顔見て、ヴァルは改めて「あぁやっぱなんか…こいつだけはどうしても、喰いたくねぇなぁ…」と心の中で呟いた。
そして、「なんでレイシーだけにはそう思うんだ?」と自分に問うた。
他の人間は変わらず玩具で餌だと思うのに、目の前のレイシーだけはそれとは違う。人間なのに、喰べてしまうことが勿体無く思って、共にこうしている方が良いと感じてしまう。
(もしかしたら…人間が動物…ペットを飼う気持ちって、こんな感じなのかもしれねーな)
人間は不思議な生き物で、わざわざ愛玩用の動物を手元に置き、可愛がることがある。時には食用動物すら品種改良してそうするという。
自分のこの「レイシーを他の人間とは違うと思う気持ち」はそれなのかもなぁと、酔った頭で考えたヴァルはそう納得してしまい、そのままグラスに残った酒をまた一気に飲み干したのだった。
さらに数年が経って、しんしんと雪が降る寒い冬になった頃。
いつものようにレイシーと2人で温めた林檎酒を飲んでいたヴァルにとって、まさしく晴天の霹靂のようなことを知らされた。
「…は?お前女いんの?」
「は、はい…その、恥ずかしくて、ヴァルさんには報告できてなかったのですが…」
「それ、誰?いつから?」
「ええと、よくここにも来ている、スズさんです…ほら、赤い髪の綺麗な人…ヴァルさんも、何回かお話ししたことあるでしょう?実はその方と、2週間前から…お付き合いすることになって…」
酔ってるのもあるのか赤い顔で、けれど嬉しそうに話すレイシーに対して、ヴァルは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするしかできなかった。
付き合う。それはつまり番いになるということだ。いわゆる「結婚」ではないにしろ、そういう「強い繋がり」を、他人と持つということだ。
増殖はすれども繁殖をしない屍鬼と違い、動物は繁殖のために雌雄で集うことが多い。人間も、一夫多妻制などの国もあれども大体は男1人女1人で番い、その後の人生を共にして「家族」という血の繋がりのある集団を作ることがある。それ自体はヴァルも、長年生きて色んなものに触れるうちに知識として知っていた。
しかし、まさかレイシーもそうなるとは…誰かと番いになるとは想像していなかった。
そして言われてみれば、前から2人は親しかったし、レイシーも最近休みの日にどこかに出かけていたような気もする。
何気なく、お前女苦手そうだもんなぁ、一緒に遊びに行ってもすぐ逃げるし、なんて言ったのが藪蛇だった。
ヴァルはクラリ、と目眩を覚えたような気がした。そして、今まで感じたことのなかった色んな感情や思考が脳内を駆け巡る。
(なんでそんな嬉しそうな顔で笑うんだ?オレと一緒にいるより、そいつといる方がお前は楽しーの?)
(お前は、これから、そいつとずっと一緒にいんの?)
(しょーもない話したりすんのも、酒飲むのも、一緒に飯食うのも、遊ぶのも、仕事手伝うのも、おはようやおやすみを言うのも、もしかして全部、なくなんの?全部、そいつに置き換わんの?)
(オレ…もしかして、もうお前と、こんなふうに、一緒にいられねぇの?)
心臓がキュゥと絞られて、冷たくなっていく。埋まっていたはずの心の穴が一気にまた大きく空いていき、今までの安心感はどこへやら。不安や、不快感、焦燥感、そしてそれらがないまぜになった、泣きたくなるようなよくわからない感情が内に溢れかえった。
自分のこの眼の赤色を綺麗だと言ってくれた穏やかな声も、青い眼を細めて微笑むその笑顔も、共にいて、微睡むようなぬるくて心地良い時間も…全部自分だけのもので、隣で見ていられると思っていた。
なんとなく、能天気に、ずっとこのままレイシーとは変わらない「繋がり」を持てると…明日も明後日も、その先も… 自分がレイシーに対してそうであるように、レイシーの1番近くに当たり前のように自分はいられると思っていた。
でもそれは、違う。これからレイシーの1番近くにいられる者をあげるとするのなら、その番い相手の人間なのだ。
自分との、この「繋がり」は、もうここで切れてしまうのかもしれない…
そしてそこまで考えて、レイシーが自身にとってさらに「特別な存在」になっていたことにヴァルはようやく気がついた。「餌」や「ただの愛玩動物」なら、ここまで思わない。実際はそれ以上に、彼を見てしまっていた。
それこそ、この先もずっとレイシーの隣にいたいと「繋がり」を求めてしまうほどに。
屍鬼と人間という、捕食と被食の関係だとしても、ヴァルはレイシーをそれだけ特別に思ってしまっていた。
「…そっ、か…そりゃ……めでてぇなあ!なんだよーお前、だったらもっと早くに言えよな〜!隠しやがって〜この、この!憎いヤツめ!」
ヴァルは、混乱した頭と乾いた口を動かして必死に平静を装って言葉を紡ぐ。内心の動揺をレイシーに悟られるのがなぜか嫌だった。
「わっ!ヴ、ヴァルさん!?」
ヴァルはレイシーの隣に座り、その肩に腕を回してぐいとそのまま引き寄せ、ニンマリと笑って見せた。
「馴れ初め話とかデートとか好きなとこを根掘り葉掘り聞かせてもらうからなー!今夜は寝かせねぇぜ、レイシー♪」
「え、そ、それはその…お手柔らかに、お願いします…」
ヴァルは、自分の今のこの状態がなんと言うのかわからない。ただ、500年間生きてきて、1番大きな心の穴が今空いてしまったことだけは理解できた。
そして、幸せそうなレイシーの笑顔を見て「もっと早くにこいつを喰っておけば、こんな変な感覚になることもなかったんかなぁ…」と、心がジクジク痛むのを感じながら、ぼんやりとそう思ったのだった。
その後ヴァルは、改めて見たいしお前が世話になってる挨拶をしたいからと、レイシーに彼女のスズと3人で食事をする提案をした。レイシーは嬉しそうに笑ってそれを了承し、スズもまた快諾した。
スズは、わかっていたがやはり大変気立てが良い明るい美人だった。腰まである綺麗な赤い髪、ちょこんとしていつも微笑んでいる口元、大きくくりっとした黒い目が可愛らしかった。
そして話していく中で、彼女もまたひとりだという事も知った。ここに住んでいたのではなく他所から越してきたのだという。2人は似た者同士なのだな、とヴァルは思った。
「レイシーはすげーいいヤツだけど、スズさんも同じくらい、すげーいい人だなー。まだちょっとしか話してないけどさ、オレわかっちまったもん。めちゃくちゃお似合いだな、アンタら」
ヴァルが笑って言うと、スズもレイシーも恥ずかしそうにしつつも嬉しそうに笑っていた。それを見てヴァルも、なんだか少しだけ嬉しくなった。
レイシーが自分以外の人間のことで笑っているのは、なんだか苦しくて、「寂しい」けれど…それでもやっぱりヴァルは、レイシーのあのへにゃけた顔が、自分を屍鬼と知らずに向けてくれた、青い目を細めてするあの優しい笑顔が、どうしようもなく「好き」なのだ。
それから1週間後の夜、悩んだ挙句にヴァルはレイシーの家を出て、旅を再開する事にした。
「じゃあまたな、レイシー。今まで世話になったな」
「はい、ヴァルさん…グス…急なお別れで、寂しいですが…今まで、本当にありがとうございました。また、いつでも遊びに来たりしてくださいね、僕、待ってますから!」
「本当大袈裟だなー、レイシーは。今生の別れでもねーってのに…でもあんがとな」
「だって、ヴァルさんと…友人とお別れするのは、やっぱり寂しいですよ…うぅ…グス…」
「…友人…」
ヴァルは、目の前でズビズビと泣いているレイシーの言葉を呟いた。
友人…番いとは違う、楽しいことを共有したりする親しい仲。よくレイシーが口にしていて、けれど屍鬼の自分が人間と結ぶ関係としてはいまいち理解しきれず、ついつい聞き流してしまっていた言葉だ。
レイシーがスズと付き合うというのを聞いてから、なんとなく自分の居場所がなくなってしまったような気がしていた。
レイシーから今までの事はなかったように、もう自分はいらないものとして扱われるかもと、「繋がり」そのものがなくなってしまうかもとヴァルは思っていた。
けれどどうやらそれは違うのかな、とヴァルは思った。1番近くにはいられなくとも、「繋がり」はある。レイシーは自分を、ずっと「友人」だと思ってくれていた。「待っている」と今も、言ってくれた。
スゥ、と心の穴がまた、小さくなっていく気がした。
「…本当に、あんがとなレイシー。お前はオレの、最高の『友人』だよ。またな!」
そうして、泣きながら見送ってくれたレイシーに、ヴァルもそう言って泣きそうになりつつも、笑顔でその場を後にしたのだった。
ヴァルはまた世界を巡り、見て、遊んで、笑って、人間を誘惑して弄ぶ…しかしもう以前のように、最後に人間の血を飲むのも、そのまま喰い殺しもしなかった。
ヴァルは大体数ヶ月や半年おきにお土産を渡しにレイシーの家を訪れた。
「マジかよ、お前ら結婚したの?通りでレイシーが見慣れない指輪つけてるわけだよ!似合ってっけどさ」
「そうなの。式はあげてないけどね」
何度目かの訪問の際に、そんなことを告げられて驚くヴァルにスズは答えた。
「まじかー。でもいいじゃんね。ご結婚おめでとー!てか子供も腹ん中にいんだよな?すげーなー!そっちもおめでとう!あ、でもオレ今来るの不味かった…?なんか妊娠中はつわり?とか体調変わったりがあるらしいじゃん?スズ大丈夫か?ごめんな…?」
声のトーンを落として顔色を伺うように上目遣いで見てくるヴァルに、スズは朗らかに微笑んだ。
「お祝いの言葉ありがとう。嬉しいわ。体調も今は平気だから気にしないで?」
「そっか。ならいいけど…にしても、腹の中に赤ん坊がいんのか…すげーなぁ。不思議だなぁ。生命の神秘じゃん…そういや、名前とか決まってんの?」
「ふふ、そうね。うん、この子は男の子ならフランで、女の子ならルルという名前にするつもり」
「へーいい名前じゃん。そっかー。会える日が楽しみだなー…てか待ちきれねー。早く会いてぇなー…明日起きたら元気に生まれてたりしねぇかな?」
「ふふふ、私たちよりこの子を楽しみにしちゃってるじゃない」
クスクスおかしそうに笑うスズに、ヴァルもつられて笑う。会う回数を重ねていくにつれ、レイシーの笑顔と同じくらい、スズの笑顔がヴァルは好きになっていた。
「だってお前らの子供だもん、早く会いてぇよ。2人に似てきっとすげー可愛くていい子なんだろうなぁ」
ヴァルのその言葉に,今度はスズの隣にいたレイシーがニコニコ笑って答える。
「そうですねぇ。スズさんに似てきっと可愛くて綺麗な子が生まれると思います。僕も早く会いたいです」
「なー。絶対美人が生まれるだろうなー…てかレイシーよー、こーゆーのは早く言ってくれよー!子供とか結婚とか、教えてくれてたらさぁ!オレもっと、ちゃんとしたやつ買ってきたのにさー!トーテムポールとかさぁ〜安産祈願のお守りとかさぁ〜子供用のすげーおもちゃとかさぁ〜!」
むくれてぶー垂れるヴァルに、レイシーが苦笑した。
「あ、あはは…それについては本当に申し訳ない…あなたに会えた嬉しさで、連絡先を毎回聞き忘れてしまって…」
「ヴァルくん、手紙とか電話とかじゃなくて直接こっちに来ちゃうものね。私も会えて嬉しいからいいんだけど」
2人の言葉にヴァルはようやく気づいた顔をした。
「あー…言われてみれば確かにオレ、手紙とか送らねーし電話もしてなかったな…つか存在を忘れてた。今まで誰かにしたことなかったからさ、そーゆーの。なんかゴメン」
郵便で送るくらいなら飛んで直接会いに行った方が早いし、直接2人に顔を合わせたいのもあったので、ヴァルはそれらを一度も使ったことがなかった。そしてレイシーが連絡しようにもこちらが教えていないのだからできない。当たり前の話であった。
「オレからかけたらいい?毎日5時間とかになるけど」
「ま、毎日5時間ですか!?」
「アハハ、いーい反応。冗談に決まってんだろー。流石にそれはしねーよ」
「はは、そうですか…でも沢山お話できたら、僕は嬉しいですよ。ヴァルさんいつも色んなところに行ってますし…お元気そうなのかすぐわかりますし」
ヴァルはケラケラ笑うとレイシーはそう返した。
「びっくりした、ヴァルくんのことだから一瞬本当かと思っちゃった」
「なぁ待ってスズ、オレそんなめんどくさい奴に見えてんの?」
「めんどくさいっていうか、そうねぇ…かまってちゃんには見えるかしらねー」
「ンなことねーですぅー」
揶揄うようにクスクス笑うスズにヴァルは抗議した。かまってちゃんだなんてとんでもない、オレが構いに来てやってるのに、とヴァルは思っていた。
「まぁ、月一くらいかな。オレからは。そっちもさ、落ち着いてオレが来ていい頃になったらさ、連絡くれよ。すぐに会いに行くからさ」
2人がいる家に行くたびに、あそこには優しくて穏やかで、あたたかい時間があるとヴァルは思った。
自分はずっとそこにはいないけれど、ちっとも寂しくないし、2人のあれこれが我が事のように嬉しいと思えた。
「…へへ。次は3人分の土産物、用意しねぇとな〜何がいいかな〜♪」
月が見える涼しい夜空の下、赤いリボンの髪飾りで結った髪を黒猫の尻尾のようになびかせて、ご機嫌でヴァルは次の国へまた飛んで向かった。
「レイシー…スズ…なんで、こんなことに…っ」
びゅうびゅうと春風が吹き荒れる夜。欲を刺激する、酷く甘い魅惑的な匂いが広がる家の中。真っ赤な血溜まりの中、無惨に食い荒らされた2人の亡骸を前に、ヴァルは膝から崩れ落ちた。
幾つかの季節が過ぎた頃、連絡をもらってヴァルがあの家に再び訪れたその日に、小屍鬼の群れが2人を襲ったのだ。
家の近くに着いたヴァルが異変に気づいて、急いで群がっている小屍鬼共を倒したが、その時にはもう生き絶えていた。
レイシーと出会う以前のヴァルなら、そんな事は気にしなかった。人間は餌として食われて、自分達屍鬼が生きているのは当たり前だと。その程度の価値だと。どんなに良くてもせいぜい玩具だと、そう思っていた。
そんな当時の考えが、今の己に牙を剥いた。
「ゔゔあぁア“ア“…ッ!!」
ボロボロと涙をこぼして、悲痛な声をあげる。心臓が、銀の聖剣で貫かれた時よりもずっとずっと痛く苦しい。絶望で目の前が真っ暗になった。
自分にとって、かけがえのない存在だった。
ヴァルはもう、どうすればいいのか何もわからなかった。
その時。
「…ぇぇ…ふぇえぇ…」
部屋の奥から、赤子の泣き声が聞こえた。
「っ…」
ヴァルは驚いて一瞬固まったものの、急いで声のする方に向かう。2人の寝室らしい部屋に置かれたゆりかごの中で、赤い髪の赤子がひとり泣いていた。
部屋は荒らされておらず、赤子の体に怪我らしきものはない。小屍鬼はこの子には気づかないでいたようだ。
泣き続ける赤子にヴァルは戸惑いつつも、そっと慎重にその赤子を抱き上げる。
暖かい体温と、血とは違う、ほのかに甘いような、不思議な匂いがした。
「大丈夫だぞ…大丈夫…」
いつかの人間たちがしていたように、ヴァルは真似て赤子をあやす。すると赤子はモゾモゾ動きながらも泣き止み、青い空のような目で、ヴァルを見つめた。
「ああ…お前、目は父ちゃん似なんだなぁ…」
ヴァルは泣き笑いながら、赤子をまた抱きしめる。
「…レイシー…スズ…救えなくて、ごめんなぁ…嘘ついてて、ごめんなぁ…オレ、屍鬼だけど…でも…こいつだけは、絶対に守ってみせるから…」
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