第十七巻 化け猫
一滴でも彼女の血が体内に入れば、確実に呪われるだろう。血を呪いにする怪異は多い。
『やめろ!』素早く足を引き、包丁から手を離させた。
脚に包丁が刺さったままで痛いが、彼女の腕が傷つくよりマシだ。
「反応速度、ヤバー」
ヨホロは顎に手を当てて、感心している様子だった。徐に白いヘッドホンを付ける。
『猫のくせに生意気ね。頭を伏せてなさい』
その指が振り下ろされた瞬間、体が鉛のように重くなる。
瞬時に何が起きたのか理解できなかったが、気づけば伏せの体勢になっていた。
——まさか、彼女は重力を操ってる?
推測した直後、首元に彼女が跨っていた。
『化け猫は人を祟る怪異よね。あの女を祟ってよ』
『や、やだよ!』
『そしたらあの女を殺すことは諦めるわ』
『俺は人間を殺したくない! 紅音の約束を守るんだから!』
銀色の毛を掴み、馬のように走らせようとする。
必死に抵抗していると、地面に叩きつけられたような衝撃が襲った。腹を圧迫され、嘔吐する。
『人間が学校の屋上から飛び降りた時にかかる負荷って、数トンもあるんですって。味わってみてどうだった?』
愉快に笑っていた。
——重力じゃないなら、よかった。
心の中で安堵するが、とんでもない衝撃だ。内蔵をやられたかもしれない。
口の中が血の味がする。苦しくてどうしようもないが、無理矢理口を動かした。
『君は人を殺したいんじゃなくて……成仏したいんだよね?』
『……』
殺気を肌で感じる。チクチク刺さるような。
でも、彼女は死角にいて様子を窺い知れない。
「七人御先。化け猫が喋ってんだ。話くらいしてやれよ」
『ぎゃああああああああ‼︎ 何も持ってないくせに、どうやって手を……!』
目の前にいるヨホロは右手をポケットに入れた。
何食わぬ顔で「また悪さをしようとする右手を切り落としただけだけど?」と言う。
——おっかない。
『ヨホロ……?』
「何? 僕はただ会話はちゃんとした方がいいと思っただけだよ」
でも、結果的に俺を助けてくれた?
乱暴だけど、ミジンコくらいの優しさは持っているのかもしれない。
改めて口を開く。
『どうしても成仏したいなら、他の方法を調べるべきだと思う』
『そんなものあるわけがない』
『最初から諦めてたら、何も見つかるわけがないじゃないか!』
『化け猫に何がわかるの⁉︎ 生きていた頃は母親に早く死なれて、生活に苦労して。クラスの人間にいじめられて、殺されたあとは七人御先として永遠に歩かされて。終わりのない苦しみが絶望に変わるの!』
その声は泣いているように聞こえた。
長い間、人間に苦しめられたことで、相手を思う気持ちをどこかに置いてきてしまったのかもしれない。
『君は痛い思いをしたい?』
『嫌に決まってるでしょ! 目に追えない速さで腕を切られて……あの化け物を殺してよ!』
彼女はヨホロのことを言っているのだろう。
だからといって、俺がヨホロを殺す理由はない。
『苦しいことも、怖いことも、嫌だよね?』
『何度も言わせないで! あたしに同情してくれるんなら、さっさとあの男を殺してってば!』
『君は自分の為に誰かを苦しめてもいいと思ってる?』
『それは仕方がないじゃない!』
俺はナワミサキのことを思い出していた。
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