第十二章 にわか勇者、迷子になる

12-1

 目蓋を開けると、眩しい日差しに目を射られた。

 ──ここは? いったい何が……。

 手をかざして光を遮りながら、ゼノは恐るおそる体を起こした。

 どうやら草地に倒れていたようだ。背の低い草に覆われた緑の平原。視線をぐるりと巡らせたところで、人影に気づいてはっとした。

 ──オリヴィオ!?

 淡い期待はすぐ失望に変わった。

 なだらかな丘の上で、男が一人、こちらに背を向けて座っている。腰まで伸びた長い髪は、輝く銀白色。むきだしの肩や腕はほどよく引き締まり、見慣れた友人の華奢な体つきとは違う。

 だが、その髪の色はどこかで──と、記憶を探るより先に、男が動いた。

 流れるような動作で立ち上がった体には、布切れ一枚まとっていない。それを気にする様子もなく振り返ると、こちらへ向かってまっすぐ歩いてくる。

 年の頃は三十歳前後といったところか。見事なまでに均整のとれた長身。一見ほっそりしているが、全身を覆う機能的な筋肉が、体の動きに合わせてしなやかに隆起する。中性的だが凹凸のはっきりしたおもざしは、睨むような目つきもあいまって、強者の風格を漂わせている。こちらの劣等感を刺激せずにはいられない、堂々たる美丈夫ぶりだ。

 その胸元に〈連環の祝福〉が描かれているのを見て、ゼノは男の正体を悟った。

「……イルマラート……」

「いかにも」

 ゼノのつぶやきを拾って、男──〈白銀の英雄〉イルマラートはうなずいた。正面まで来ると片膝をつき、臣下の礼のように首を垂れる。

「まずは、あの牢獄から救い出してくれたこと、深く感謝する」

「あんたを助けたわけじゃない……あれはなりゆきだ」

 ゼノは顔をそむけ、投げやりに言った。

 オリヴィオを助けようとしただけだ。だが結局、彼の手を離してしまった。

「わかっている。しかし結果として、私は貴公に助けられた」

「それをいうなら、あんただって、俺を助けてくれたんじゃないのか」

 白銀の竜に害意はなかった。ゼノを傷つけることなく、こうして安全地帯まで運んでくれたのだ。オリヴィオもいっしょならすなおに喜べただろうが、彼は闇の渦に呑まれてしまった。自分一人生き延びたことが許せない気持ちだし、自分だけを助けたイルマラートに対しても恨めしく思う。もちろん八つ当たりだ。彼は悪くない。

「恩を返したまでのこと」

 ゼノの心中を知ってか知らずか、イルマラートは淡々と言う。

 その泰然とした様子に、ゼノも少し平常心を取り戻した。

「……ここはどこなんだ? 月の上?」

「いや、おそらくここは元の世界だ。月は出口だった」

「出口?」

「いまいる場所と、〈封印の地〉をつなぐ道。月のように見えたのは、こちら側の光が漏れていたのかと」

「なるほど……それで、その道は?」

「通り抜けた直後に、閉じた」

 その答えに、ゼノは力なく視線を落とした。

 いまから引き返そうとしても、あの場所には戻れない。いや、オリヴィオは〈封印の地〉が消滅すると言っていた。道が閉ざされたのと同時に、あの場所そのものがなくなったのかもしれない。現状、オリヴィオを探すことは不可能ということだ。

「貴公の名を聞いても?」

「……ゼノ」

「そうか、ゼノ。貴公は今代の〈勇者〉なのだろう? 私があそこへ向かってから、どのくらいの月日が経った?」

「百年ぐらい……と聞いてる」

「百年──」

 イルマラートはしばし沈黙した。

「──百年か。長いようで、案外短かった気もする。あの闇に囚われていた時間は、まるで永遠のようだった」

 ゼノは地べたに座ったまま、跪くイルマラートの顔を見上げた。

 竜の姿のときも、その翠玉のような緑の目は、穏やかで理性的な光をたたえていた。いまの彼の目も同じだ。百年もの間、暗闇につながれたまま孤独に耐えていた者とは思えない。その驚異的な精神力には、敬意を超えて畏れすら感じる。

 ──これが……本物の勇者。

 格が違いすぎる、と、ゼノは強く実感した。

 自分ならきっと正気を失っている。解放されても、逃げるときに他者のことまで考える余裕などなかった。彼こそが、クレシュの憧れた勇者──真の英雄だ。

 ──クレシュ……そうだ、みんなのところに、帰らないとな。

 赤毛の案内人を思い浮かべたことで、停滞していた思考が動きはじめた。自分が突然消えて、向こうも騒ぎになっているだろう。無事を知らせるとともに、事の顛末を報告する必要もある。とくに、この〈魔王〉──ならぬ先代〈勇者〉を解放し、〈封印の地〉が消滅してしまったことについては、大問題になりそうで頭が痛い。

「とにかく、もう頭は上げてくれ。これで貸し借りはなしということにしよう」

「む……貴公がそう言うのであれば」

 イルマラートは不服そうに言ったが、膝を崩してそのまま地面に胡坐をかいた。目のやり場に困ったゼノは、しかたなく相手の顔に視線を固定する。

「俺はこれから、仲間のところに帰る。あんたはどうする?」

 一応聞いてみると、イルマラートは思案顔になった。

「当面、行くあてもない。貴公に同行してもいいか?」

 彼の境遇を考えれば、意外でもない申し出だった。かつての友人知人は存命かどうかも不明だ。百年も世間から隔絶されていたとなると、世情にも疎いだろう。〈連環の勇者〉という同じ立場の者として、多少なりともゼノは唯一の近しい人間といえる。

 ゼノとしても、彼をこのまま放置していいか迷っていたので、渡りに船といえないこともなかった。少なくとも本人がいれば、事情の説明は楽になる。

「いいけど、俺は文無しだぞ。まともな旅はできない」

「文無しはこちらも同じだ。それに貴公は──その、あまり勇者らしくないように見える。道中の護衛ぐらいなら、私にもできるだろう」

「──いいんだよ、弱そうって、はっきり言ってくれて。実際俺は、戦うほうはからっきしだからな。正直にいって、護衛は助かる」

「そうか。では、明るいうちに出発するとしよう」

 イルマラートは言うやいなや無駄のない動きで立ち上がった。ゼノはどっこらしょと腰を上げた。

「あー、その……とりあえず、これでも」

 上着を脱いで差し出すと、怪訝な顔をされた。

「さすがにその格好で歩くのは」

 イルマラートは初めて自分の裸身に気づいたらしく、ようやく納得の表情を浮かべた。

「ああ、失礼した。拝借する」

 受け取った上着を腰に巻きつけ、あたりを見回した。

「それで、どちらへ向かえばいい?」

「いや、それがさっぱり」

 丘陵地帯というべきか、平原というべきか。見渡すかぎりゆるやかに広がる緑の大地。どちらを向いても、低木一本ない丈の低い草地が地平線まで続いている。まったく見覚えのない風景だ。

 暖かい日差しの下、心地よい風を受けながら、二人は無言で立ち尽くした。


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