5-5
八角形の白い瀟洒な東屋は、大きな湖のほとりにあった。
正確には、湖に囲まれた島の端だ。ゼノがガレアとともに落下する途中、ちらりと見えた湖上の城──あれがこの、バルデルト王子の別荘だったらしい。
湖面には薄く靄がかかり、対岸の森を幻想的に浮かび上がらせている。
「美しいだろう」
柱の一本に手をかけ、湖の方を向いて佇みながら、バルデルトが口を開いた。
「余は、ここからの眺めが好きなのだ」
どう反応していいかわからず、ゼノは黙っていた。
バルデルトのものと同様の黒い長衣を着せられ、東屋の中の縁台に心もとなく腰を下ろしている。緊張のあまり、ここまでどうやって来たのかも覚えていない。足の鉄環ははずされているが、最初からそんなものは必要なかった。どんな恐ろしいものが潜んでいるかもわからないこの湖を、泳いで渡るどころか、水辺に近づく勇気さえない。地底湖の怪魚を思い出しただけで体が震える。
──ああ、でも、本当の勇者なら、違うんだろうな。
たとえばクレシュなら、迷わず水に飛び込むか、あるいはこの場で戦うことを選ぶかもしれない。だが自分には無理だ。鍵を取り出すことしか能がないのに、勇者として拉致されるとは想定外、荷が重すぎる。これからどんな「協力」を求められるにしても、自分に対応できる内容とは思えない。一刻も早く助けが来ることを、切に願う。
「この眺めだけではない。世界は美しいもので満ちている。いや、醜いものや、恐ろしいもの、残酷なもの……そういったすべてを含めて、世界は美しい」
バルデルトは背を向けたまま言った。
「魔王と太陽の女神の言い伝えを、もちろん勇者なら知っておろうな?」
ゼノの返事を待たずに続ける。
「あれは、捻じ曲げられた偽りの物語。我らの間では、このように伝えられておる。かつてこの世界を滅ぼそうとしたのは神々であり、魔王はそれに抵抗したのだと。太陽の女神は、魔王の恋人であり、同盟者でもあった。戦いは引き分けに終わったが、魔王は斃れた。女神は嘆き悲しみ、魔王を復活させるために〈連環の儀式〉を始めたという。ところが狡猾な神々は、彼らにとっての裏切り者である太陽の女神を英雄にすりかえ、女神が魔王を打ち破ったという都合のいい神話を作り上げた。そして〈連環の儀式〉も、我々の手から奪い、復活でなく封印の手段に改変したというわけだ」
なるほど、筋は通っている。
蛇に睨まれた蛙のように固まったまま、ゼノは頭の片隅で冷静に考えた。
魔王を封印するための旅なのに、鍵を守っているのが魔物だったり、その魔物たちが友好的だったりと、最初からなんとなく違和感はあった。大神官たちの語った神話に比べれば、いまの話のほうがもっともらしく聞こえる。
とはいえ、これもまた神話だ。はるか昔の、実際にあったかどうかも定かでない物語の真相など、いったいだれにわかるというのか。
「さて、協力というのはほかでもない」
バルデルトはゼノに向き直って本題に入った。
「これまでに集めた鍵を渡し、勇者の資格を譲ってもらいたい」
──来たよ。したくてもできない相談。
ゼノは心の中で嘆息した。
できるものならさっさと協力して解放してもらいたいところだが、ない袖は振れぬ。拷問されようが殺されようが、無理なものは無理だ。
「鍵は……持ってません」
腹を括って──半分開き直って言った。
「仲間に預けたし、その仲間も、ほかの人に渡したかもしれません。鍵がいまどこにあるか、俺は知りません」
「ふむ」
「そもそも俺は勇者じゃなくて、勇者の代わりに鍵を集めているだけです。勇者の資格を譲れと言われても、そんなことできるのかどうか……」
「だが、胸に勇者の印があるではないか」
「これって、何か効果があるんですか? 通行証みたいなものかと」
「効果はある」
バルデルトは心外そうに言った。
「現に、その印はいま、余を拒絶しておる」
ゼノは、胸元をはだけて〈連環の祝福〉を覗いてみた。とくに変わりはない。痛むとか、光っているとかいうこともなく、ただの痣のようにそこにあるだけだ。
だがバルデルトは、まぶしそうに顔をそむけた。
「それをさらすでない。目にしみる」
胸元を掻き合わせて隠すと、バルデルトはほっとしたように息をついた。
ゼノに感じられないのは、魔力がなくて鈍感だからか、あるいは、仮にも勇者としてこの印を受けたからだろうか。相手がこの闇の化身でなければ、からかわれているのかと思ったぐらい、本当に何も感じない。
「その……譲るって言われても、やり方もわからないんですが……それ以前に、あなたを拒絶しているものをあなたに譲っても、大丈夫なんでしょうか……?」
「むう……」
なんともいえない沈黙が下りた。
やがてバルデルトがふたたび口を開いた。
「そなたは、変わっておるな。魔力もなく、戦えるようにも見えないが、ずいぶん落ち着いておる」
「それは──もう、諦めているから? かも」
他人事のようにゼノは答えた。実際、緊張の連続で気疲れが頂点に達し、すべての感覚が遠のいてぼんやりしている。自分にできることは何もないし、何かをする気力もない。煮るなり焼くなり好きにしてくれという投げやりな気持ちだ。いっそこのまま眠ってしまえたら──。
「ゼノ!」
ふいに知った声で名前を呼ばれて、はっと覚醒した。
目の前の空間が揺らぎ、金色の髪と青い目をした男が現れた。
「オリヴィオ!?」
「あっ、兄上!?」
ゼノは声を上げたが、同時に発せられたバルデルトの声に、一瞬思考がとまった。
──あに……うえ……??
「ゼノ。君がどうしてここにいるんだ? クレシュはどこに?」
「いや、それがその──」
「兄上。兄上は、勇者殿とお知り合いなのですか?」
「彼は僕の友人だ。それよりも、これはいったい──」
オリヴィオはゼノとバルデルトの顔を見比べ、やがて合点がいったというように溜め息をついた。
「あなたはまだ諦めていなかったのか、バルデルト。現時点で、魔物が勇者になれる方法はないよ。無駄なことはよしなさい」
「しかし、〈連環の儀式〉は、もとは我らのもの」
「そうだったとしても、いまは違う。〈連環の祝福〉がなくては、鍵を扱うことはできないし、あなたの体は〈祝福〉に耐えられない」
「……あの──」
「ですが、兄上。かつて可能だったものなら、必ずや方法があるはず」
「そうかもしれないけど、目の前の現実も見て。ゼノは、当代の鍵を集められる、おそらく唯一の存在なんだ。あなたはその邪魔を──」
「あのう……オリヴィオ? ちょっといいかな……?」
「ん? なんだい、ゼノ?」
オリヴィオは表情を緩めてゼノを見た。
「おまえと、その王子様は……兄弟?」
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