2-4

 目を開けると、鼻先に剃刀を突き付けられていた。

 そのすぐ向こうに、灰色の輝く二つの目。間近に迫ったクレシュの顔だ。

 ゼノはしばらく何も考えられず、息をとめたまま硬直していた。

「あー、おはよー」

 けだるげな声が聞こえて、ようやく呪縛から解放される。

「な……な……何を……?」

 かすれ声で尋ねると、予想もしなかった答えが返ってきた。

「なかなか起きないから、髭でも剃ってあげようかとー」

「……いや……じ、自分でやるから……」

 こわごわ剃刀を受け取り、クレシュを刺激しないようにそろそろと身を起こす。

 ──殺されるかと思った……。

 いまの一瞬で、五年ぐらい寿命が縮んだ。

 極度の緊張で麻痺していた感覚が一気に戻り、料理の匂いに反応して腹の虫が盛大に鳴く。

「きのうは食事もとらずに行き倒れてたからねー」

 クレシュがにやにやと笑った。

「今日は山鳥もどきを蒸し焼きにしたよー」

 ──もどき……ということは、また魔物か。

 とはいえ、クレシュが大丈夫というなら大丈夫だろう。味も期待できそうだ。

 なにげなく立ち上がってから、体が軽いことに気づいた。よく眠れたし、寝ている間に、クレシュがまた癒しの魔法をかけてくれたのかもしれない。

 焚火の前では、灰の下から掘り出したばかりの葉の包みを、クレシュが熱そうに指先でつつきながら開いているところだった。

 首を落として羽をむしった鳥の腹に、穀類や野菜を詰め、丸ごと蒸し焼きにした豪快な一品。取り分けてくれた椀を受け取り、ためらうことなく口に入れると、ゼノは至福の溜め息を漏らした。

 ──飴と鞭。

 ふとそんな言葉が思い浮かぶ。

 片や至れり尽くせりの休憩時間、片や命がけの過酷な道中。たとえるなら、細い筒に入れられて、上下に激しく振られているような心境だ。

 今日はまたどんな苦難が待っているのやら……と、なかば諦めて朝食を味わっていると、クレシュが言った。

「うーん、今日はこれといってないかなー。退屈な道だなー」

 退屈上等。

 小川で体の汚れを落とし、焚火の後始末をすませ、嬉々として出発する。

 だがゼノは、退屈というものをあなどっていた。

 似たような木々が立ち並ぶ薄暗い森。ほぼまっすぐのわかりやすい一本道。行けども行けども続く同じ景色の中を、ひたすら、地道に、左右の足を交互に前に出す作業。

「なあ……ずっとこんな道?」

「うん、ずっとー」

 ずいぶん歩いた気がするのに、休憩の声はかからない。あまりにも変化がないので、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。前を行くクレシュは見事なまでに規則正しい歩調で、その動きを見ていると、単調すぎて意識が飛びそうになる。

 実際、歩きながら何度かうとうとしてしまい、つまずきかけては、はっと我に返った。

 ──平和だ……退屈だ……。

 一度だけ、道の先に熊が現れたが、クレシュが剣の柄に手をかけると、殺気を感じたのかそそくさと去っていった。

「飽きた……」

「だよねー」

 よもや、きのうのひどい道を懐かしいと思うことになろうとは。

 日光がほとんど差しこまないせいで、ゼノには時間の見当もつかない。

 最初の休憩までに、たっぷり一日以上歩いたような気がした。

 昼までの時間はさらに長く感じられ、つぎの休憩まではさらにさらに長く、時間の流れがどこまでも遅くなっていく。

「まだかー」

「もうちょっとだよー」

「ちょっとって、どれくらいー」

「ちょっとはちょっとだよー」

 やがて、本当にあたりが赤く染まり始め、一気に夜の帳が下りた。

 山鳥もどきのスープで腹を満たし、外套にくるまって横になると、背中にクレシュが張りついてきた。不思議なことに、少しも妙な気持ちにはならなかった。柔らかくて、温かくて、心地よい眠りに落ちていく──。

 さわやかな朝を迎え、出発の準備を終えて歩きだしたゼノは、斜面の下に集落があるのを見てぽかんとした。

「無事に山越えられたねー」

「え? 十日かかるとか言ってたのは……?」

「いやー、おにーさんがんばるから、ふつうの速度で来ちゃったー」

「な……なんだとーっ!?」


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