第二章 にわか勇者、夏の虫になる

2-all

 ゼノとクレシュの道行きは、出だしから早くもつまずいた。

「いやー、土砂崩れで道がふさがっちまってね。開通にはひと月ばかりかかるんじゃねえかって話でさあ」

 山越えのため、荷馬車に便乗させてもらおうとしたところ、道自体が使えなくなってしまったと告げられた。

「迂回路はあるにはあるが、細い旧道で馬も通れねえ。山賊すら寄り付かねえぐらいだから、おすすめはできねえなあ」

 ──よし、これで旅は中止だな!

 ゼノは胸の内で快哉を叫んだが、クレシュはあっさり言った。

「しょーがないなー。じゃー、野宿の準備して行くかー」

「え、行くの? ……野宿?」

「あたしなら三日もあれば越えられるけどねー。まー、おにーさんの足じゃ、十日ぐらいは見ておいたほうがいいかなー」

 足止めをくらっているうちに逃亡しようと思ったのに、目論見がはずれた。山中で一人になるのは自殺行為だ。山を越えるまで我慢するしかない。

 ゼノが歯噛みしている間に、クレシュは村の家々をまわって交渉し、いつのまにか必要な物資をそろえていた。こういうところを見ると、たしかに有能だ。少なくとも旅慣れてはいる。増えた荷物を、二人で手分けして担ぐ。

「さー、いくよー」

 呼ばれてゼノは、しぶしぶ歩きだした。

 村を出て本道からはずれ、山沿いの道をしばらく進む。クレシュが急に左手の草むらに踏みこんでいったので、何かと思ったら、そこが旧道の始まりだった。

「これが……道か……ううむ」

 獣道という次元ではない。長い間だれも利用していなかったらしく、草木に覆われて足元がほとんど見えない。踏み固められた地面の感触から、かろうじて、もしかしたらかつて道だったのかもしれないと想像できる程度だ。

「このへんは雑草が多いからねー。もうちょっとしたら道らしくなるから、まー、がんばってー」

 クレシュは腰の剣を抜き、自分の背丈ほどもある草木を薙ぎ払いながら、勇ましく先を進んでいく。

 ──こいつ、本当にできるやつだったんだ……。

 ゼノは、認識を改めて案内人の後ろ姿を見つめた。

 剣術を習ったことはないが、仕事がら小刀の扱いには慣れている。だからわかる。生えている草を片手で断ち切るのは容易ではない。さほど膂力があるとも思えない体で、重い長剣を軽々と振り回して道を切り開いていくこの少女は、かなりの凄腕だ。

 枝葉を踏みしめながらなんとかついていくと、やがて明るい草地が終わり、高い木々が鬱蒼と茂る森に入った。

 なるほど、日陰で下生えが少なくなったおかげで、道らしいものが視認できる。

「この道、変なふうに枝分かれしてるから、ちゃんとついてきてねー。はぐれたら死ぬよー」

 さらりと言われたが、こんなところではぐれたら、本当に死ぬ。ずっと街暮らしだった自分には、野外で生き延びる能力など皆無だ。言われなくてもついていく。

 クレシュは小柄なくせに足が速く、ともすると引き離されそうになった。そのたびに慌てて追いかけると、ゼノが追いつくまで歩調を落とす。そのうち足並みがそろったが、向こうがこちらの速度に合わせてくれているのだと、しばらくしてゼノは気づいた。

 幸い天候には恵まれ、木漏れ日がほどよく暖かい。少し湿った空気。刺激のある木の香りと、踏むたびに立ちのぼる土の匂い。ときおり鳥の声がする以外、聞こえるのは自分たちの足音だけだ。

 黙々と歩いていると、時間の感覚がおかしくなってくる。この森に入ったのはいつだっただろう。一日前? 二日前? それともひと月ほどか。もしかしたらもう何年も、こうして二人で歩き続けているような気もする。

「このへんで少し休もうかー」

 クレシュの声に、ゼノははっと我に返った。

 歩いている間は気づかなかったが、足が棒のようになっている。木の根元に腰を下ろすと、全身に疲労がどっとのしかかってきた。体のあちこちがこわばり、早くも筋肉痛の兆しが感じられる。足の裏は熱をもってずきずき痛む。

 差し出された水と干し肉を黙って受け取り、口に入れた。水は生ぬるく、干し肉の味は微妙だが、それでも多少は活力が戻ってくる。

「おにーさん、ちょっと見直したよー」

 クレシュが干し肉をかじりながら言った。

「山歩きなんて初めてだろうに、けっこうがんばるねー」

「いや……もう、行き倒れ寸前だ」

「でも歩くでしょー?」

 挑発するように言われて、ゼノは唸った。

 山に入る前に、無理にでも逃げておくべきだっただろうか。だが、ここまで来てしまった以上、山を越えるまで後戻りはできない。

 そう悔やむ一方で、この状況をどこか楽しんでいる自分もいた。

 慣れないことをしたせいで、気分が高揚しているだけかもしれない。たまに盗みをして、気ままに暮らす自堕落な日々。悪事を働く緊張感はもはや日常で、おそらく自分は退屈していた。だからいまこのひとときが、妙に新鮮で、離れがたい。

 ──いやいや、待て、早まるな。だからといって、こんなきなくさい話に乗ったら、まずいどころの騒ぎじゃないって!

 ゼノは暴走しかけた自分を抑え、水といっしょに流しこんだ。

「さーて、出発するよー」

 立ち上がるのは心底つらかった。

 みしみしいう体をなんとか動かし、おそるおそる足を踏み出す。始めの数歩は涙がにじむほど痛んだ。歩き続けると多少はましになり、やがてほとんど感じなくなった。

 前を行く赤毛の少女は、水を得た魚のように生き生きとして見える。

 ──まったくもって、たくましいな。

 彼女を見ていると、こちらまで力が湧いてくるような気がする。

 もちろん錯覚だった。


「もう無理……絶対無理……」

 クレシュが用意した焚火の横、地面に広げた外套の上で、ゼノはみっともなく倒れ伏して呻いていた。

 全身が鉛のように重い。そして痛い。

 あまりにも痛いので靴を脱いでみたら、足の裏が豆だらけだった。脛はむくみ、足首から先は赤く腫れて熱を帯びている。

 これ以上は、どうがんばっても歩けそうにない。

「おにーさん、そんな弱音は似合わないよー」

 あいかわらずだるそうな身のこなしで、クレシュが近づいて顔を覗きこんできた。

「がんばったいい子に、ご褒美をあげるからさー」

 ふいに足のあたりが暖かくなったかと思うと、痛みが嘘のようにひいていくのを感じた。

 顔を上げると、クレシュがゼノの傍らに膝をついて、傷ついた足に両手をかざしているのが見えた。手のひらに青白い光が灯り、ゼノの両足を包み込むように広がっている。

「──癒しの……魔法?」

「魔法は得意じゃないからさー、骨折とか大きな怪我は治せないけど、血豆ぐらいならねー」

「充分すごいよ……ありがとう、楽になった」

 ゼノは素直に礼を言い、起き上がって自分の足を見た。破れていた皮膚はふさがり、水疱は消え、腫れもほとんどひいている。驚くべき治癒の力だ。

「おにーさんは、魔法は全然使えないんだっけー?」

「ん? ああ……そうだな。友人の魔法使いに言われたけど、魔力が皆無だから魔法は使えないって」

 だから、あの解錠の呪文は、ゼノ自身にとってもいまだ謎なのだ。魔法のように見えるが、魔法ではない何か。

「ふーん。それで、剣も使えないんでしょー? よくいままで生きてこれたねー」

「いや、街で暮らすだけなら、剣も魔法もいらないから」

「そっかー……あたしの村では、弱いやつはすぐ死んじゃうからさー」

 ──どんな壮絶な環境なんだよ。

「まー、多少剣が使えるだけじゃ、勇者様は務まらないけどねー」

 クレシュはだるそうに立ち上がると、鍋を火にかけて夕食の支度を始めた。

「騎士とか剣豪とか魔法使いとか、いままでたくさん案内したけどさー、やっぱ駄目だったねー。足りないんだよなー」

「足りないって、何が?」

「うーん……情熱? 勇者の気概ってやつー?」

「そんなもの、俺にもまったくないぞ」

 言ってから、ゼノは急に腹が立ってきた。

「そもそも俺は、好きでこんなところに来たんじゃない。わけもわからないうちに無理やり押しつけられて、考える暇もなく送り出されて、なんでこんなことしてるのか自分でもわからねえよ。俺は勇者なんかじゃねえ、泥棒なんだ!」

「そんなこと言っても、おにーさんには勇者のきらめきがあるよー」

「きらめきって何だ、きらめきって」

「何だろー……しぶとさ?」

「それはきらめきなのかっ?」

 クレシュはそれには答えず、鍋をかきまわしながらしばらく沈黙していた。

 焚火の炎が、整った顔に妖艶な影を映す。美しいその光景は、ひどく現実離れして、まるで一枚の絵画のようだ。

「昔の勇者様はさー、めちゃくちゃ強かったんだってー」

 ──口さえ開かなければ……なあ。

 ゼノの幻想を打ち砕いて、クレシュがふたたび話し始めた。

「百年前の最後の勇者様……あたしのひいひいおじいちゃんが案内したんだよー。〈白銀の英雄〉イルマラート。傭兵上がりの騎士で、たくさん武勲を立てて貴族にまでなったんだけどねー、〈魔王〉を倒すために、お姫様との結婚話も蹴って、国を出て勇者になったんだってー。それはそれは強くて、魔物の軍勢が恐れをなして道をあけたっていうぐらい。たった一人で軍隊を壊滅させたり、邪竜を倒したりもしたらしいよー。四つの鍵もあっというまに集めちゃってさー。すごいよねー。ああー、かっこいいなあー」

 ──すごいというより、もはや化け物……。

 クレシュの熱弁に腰が引けていたゼノは、いつになく饒舌な彼女の様子を見ているうちに、突然気づいた。

 ──そうか、こいつは、勇者になりたかったんだ。

 本当は自分のほうがうまくやれると思いながら、一族の務めとして、自分より弱い勇者を導かなければならないはがゆさ。そこに何度も落胆が積み重なれば、こんなふうにやさぐれた人格が形成されてもおかしくない。のかもしれない。

「いっそ、おまえさんが勇者になればいいじゃないか」

 ゼノが思い切って言うと、クレシュはあっさり否定した。

「駄目だよー。案内人が失敗したら、だれが跡を継ぐのさー」

「そういえば、おまえさんの一族ってのは、どういう役割なんだ? あの神官のじいさんは、たしか鍵の監視とか言ってたような……」

 どうせ離脱するからと、聞かないつもりでいたが、つい好奇心に負けた。

「うーん、どう説明すればいいのかなー」

 クレシュは料理の味見をしながら、眉間にしわを寄せた。

「四つの鍵は、一回使うと消えちゃうんだよねー。で、しばらくするとまたどこかに生まれるの。どこに現れるか、どういう形をしているかは、そのときによってばらばらでー。あたしの一族には、その場所を探す方法が伝わってて、新しい勇者が選ばれるまでに、場所を特定して見守る……って感じー」

「なんでまた、そんなめんどくさいことになってるんだ。封印しなきゃいけないのに、封印するまでの道のりがたいへんすぎって、意味がわからん」

「まー、一つにはあれだよ、勇者の資格ってやつー? 封印する力を示すための試練、みたいな? もう一つは、〈魔王〉がいる場所へ行くための鍵だからさー……封印を解こうとするやつらの手に渡らないように、ってことじゃない? たぶんだけどー」

「なるほど。そう言われればまあ、わからなくもないような……」

「それよりも、ほら、ごはんできたよー」

 椀とさじを手渡されて、ゼノは黙った。

 干し肉と干し野菜を煮込んで塩で味付けしただけのスープだが、空腹のせいもあってかなかなかいける。硬いパンを浸して食べ、おかわりもした。

「ごちそうさん。うまかったよ」

「まずくなくてよかったねー」

 他人事のように返されて調子が狂う。

 ゼノは思わず吹き出してしまい、クレシュに怪訝な顔をされた。


 いつ寝たのか覚えていない。

 気がつくと顔に日差しが当たっており、体の上に温かい重みを感じた。

 はっと目を開き、心の中で悲鳴を上げる。

 ──うわああああっ! こっ……これは何事っ!?

 ゼノの上に覆いかぶさるようにして、クレシュが気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 朝日を受けて輝く赤い髪に、天女の寝顔。押しつけられた胸のふくらみ。ひきしまった細い体躯……。

 思わず反応してしまいそうになる自分を必死に律しながら、ゼノはクレシュを起こさないよう、そろそろと体の下から這い出た。

 ──よし、服は着ている。

 双方の着衣に乱れがないことを確認して、ひとまず安堵する。

 正直に言えば惜しい。惜しくないわけがない。こんな美女と同衾できたら……そう考えただけで顔がほてる。だがまずい。これ以上事態をややこしくしたくない。

 うろたえて視線をさまよわせたゼノは、そのときになってようやく、あたりの異様な光景に気づいた。

 地面のあちこちに、得体のしれない塊が落ちている。何かの死骸だ。色も大きさもさまざまだが、いちばん多いのは、針状の毛皮をまとった狼のような魔物。そして死骸の間に散らばる小石。

 視線を戻したゼノは、クレシュのそばに積み上げられた小石の山を見て、状況を悟った。

 彼女は、夜の間に寄ってきた魔物や肉食獣を、石つぶてで仕留めていたのだ。

 ──恐ろしいやつ……。

 ゼノに対して彼女が無防備なのも当然だ。へたなことをしなくて本当によかったと、ゼノは身震いした。

「うーん……おはよー」

 虫も殺さないような顔をして、クレシュがまぶしそうに目を覚ました。

「おっ……おはよう……」

 びびるゼノの前で、クレシュは冬眠から覚めた熊のようにのそのそと起き上がると、鈍重な動きで死骸を拾い集め、何やら選別したのち、猪に似た一体におもむろに小刀を押しあてた。

 ──ひいっ。

 ゼノは慌てて目をそらした。

 恥ずかしながら血は苦手だ。目が怖くて魚の頭も落とせない、蚤の心臓だ。

 それでも怖い物見たさでこわごわ目を向けると、クレシュは熟練の手さばきで皮を剥ぎ、内臓を抜いて、淡々と肉を切り分けているところだった。相手が死骸であることも忘れるほどの鮮やかな手際に、思わず目が釘付けになってしまう。

 ひととおり解体を終えると、クレシュは汚れた手を突き出したまま、ゼノに向かって言った。

「手を洗ってくるから、火を起こしといてー」

「お、おう……」

 森の奥へ入っていくクレシュを見送ってから、ゼノは立ち上がって焚火の方へ移動した。

 癒しの魔法のおかげか、体調は悪くない。筋肉痛は多少あるものの、足は軽く、出発前より元気なくらいだ。

 昨夜の燃えさしに火打石で火をつけ、枯れ枝を足して火を移す。炎が充分大きくなったころに、髪まで洗ってさっぱりした顔のクレシュが戻ってきた。

「すぐそこに湧き水があるから、おにーさんも水浴びしてきなよー」

 言われたとおりに行ってみると、山の斜面の手前に、足を浸せるほどの小さな泉があった。高い位置にある岩の間から、澄んだ水が湧き出して、泉へと流れ落ちている。

 冷たい湧き水を手のひらに受け、喉に流しこむと、心が洗われるような気がした。顔を洗い、手足を流してから、思い直して衣類を脱ぎ捨て、全身くまなく洗い清める。

 生き返った心地で野営地に戻ると、クレシュはその間に死骸の山をどこかに片づけ、焚火の周りに串を刺して肉を炙っていた。

「もしかして、それ……」

「うん、さっきの猪もどきの肉―」

「あれって……魔物だろ? 食べて平気なのか?」

「毒はないよー。魔物っていっても、そのへんの獣と変わらないようなやつだし」

 実際、魔物という呼称は広すぎて漠然としている。生まれながらの魔物もいれば、瘴気にあたって変異したものも魔物。本能に従って行動しているだけの動物的なものから、ある程度知能が高くて独自の文化を持っているもの、人間の亜種のようなもの、巨大な怪獣のようなものまで、種々雑多だ。

 あえて定義するなら、存在の維持に魔力を必要とするものが魔物だといわれている。たとえば、生まれながらの魔物も、後天的に魔物になったものも、魔力を失えば死ぬ。強い魔力を持った人間の魔法使いは、魔力がなくなっても死なない。どうやら魔物にとっては、魔力は存在の根源──生命力や魂のようなものらしい。

 とはいえ、一般的な認識としては、魔物とは忌まわしい力を使って人間を害するもの──その程度のあいまいなものだ。

 ──そもそも、魔力ってのが何なのか、俺にはわからないけどな。

 ゼノは焚火の前に腰を下ろし、肉の串を受け取ってしげしげと眺めた。

 見た目はただの焼肉だ。匂いも問題ない。香草と塩が振りかけられていて、食欲をそそる香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

 思い切って歯を立てると、芳醇な肉汁が口の中に広がった。

「おお、いける!」

「ねー、うまいでしょー?」

 クレシュのほうは、一本目をぺろりと平らげ、早くも二本目にとりかかっている。

 二人ともしばらく無言で舌鼓を打ち、残った肉は木の葉で包んで弁当にした。

「今日は難所が多いからねー。これ食べてがんばるんだよー」

「う……そうなのか……」

 ゼノはたちまち萎れ、刑場に引かれていく罪人のような気持ちでクレシュの後に続いた。


 それからほどなく──。

 ──馬も通れないって……こういうことかよ……。

 切り立った崖に蜥蜴のように張り付き、壁面を手探りして横歩きしながら、ゼノは懸命に集中力を保とうとしていた。

 ほぼ垂直の斜面を横切るように作られた巻き道。かつてはもっと広かったらしいが、風雨に削られてしだいに細くなり、いまでは大人が一人立てるかどうかの幅しかない。下は底も見えない深い谷。吹き付ける突風のせいで、ともすれば体勢を崩しそうになり、一瞬たりとも気が抜けない状況だ。

 そんな悪路をものともせず、クレシュは子猿のようにひょいひょい進んでいく。

 ゼノは腰に転落防止の縄を巻き、絶壁の要所要所に鉤を打ちつけて縄を移しながら、どうにかこうにかついていった。建物の外壁を移動する要領だが、危険度も恐怖感もその比ではない。

「やるねー、さすが泥棒さん」

 なんとか渡り切ると、そんなふうに声をかけられたが、野生動物なみのクレシュに言われても褒められた気がしなかった。

 つぎの関門は、いわゆる底なし沼だった。

 霧の立ち込める湿地帯で、クレシュが踏んだところをぴったり同じように踏めと言われて、必死に従った。霧が濃くなると、足跡も後ろ姿も見失いそうになる。かと思えば、つかのま霧が晴れ、沼から生えた骨の林が見えてぞっとした。

 湿地帯を抜けたあとの草地で、昼休憩。

 食欲などなかったが、いったん口に入れると、猪もどきの肉が泣けるほどうまかった。肉体よりも精神的な疲労のほうが激しい。このあとどんな難題が待ち構えているかと思うと、もう諦めてここで野垂れ死にしてもいいような気持ちになってくる。

 ──とにかく、目の前のことだけ考えよう。

 自分に活を入れて立ち上がり、一日の後半戦に挑んだ。

 ごつごつ尖って、歩きにくいことこのうえない岩場。縄だけで作られた、いまにも腐り落ちそうな吊り橋。沢の中を歩いてさかのぼり、洞窟を通り抜け、虫にたかられながら藪の中を突っ切った。ついて歩いているだけなので、現在地がどこで、どういう経路を進んでいるのか皆目わからない。自分をいじめるために、クレシュがわざとひどい道を選んでいるのではないかとさえ思えてくる。

 その晩の野営地に到着したときには、ゼノはへなへなと膝をつき、その場に突っ伏して気を失うように眠りに落ちた。


 目を開けると、鼻先に剃刀を突き付けられていた。

 そのすぐ向こうに、灰色の輝く二つの目。間近に迫ったクレシュの顔だ。

 ゼノはしばらく何も考えられず、息をとめたまま硬直していた。

「あー、おはよー」

 けだるげな声が聞こえて、ようやく呪縛から解放される。

「な……な……何を……?」

 かすれ声で尋ねると、予想もしなかった答えが返ってきた。

「なかなか起きないから、髭でも剃ってあげようかとー」

「……いや……じ、自分でやるから……」

 こわごわ剃刀を受け取り、クレシュを刺激しないようにそろそろと身を起こす。

 ──殺されるかと思った……。

 いまの一瞬で、五年ぐらい寿命が縮んだ。

 極度の緊張で麻痺していた感覚が一気に戻り、料理の匂いに反応して腹の虫が盛大に鳴く。

「きのうは食事もとらずに行き倒れてたからねー」

 クレシュがにやにやと笑った。

「今日は山鳥もどきを蒸し焼きにしたよー」

 ──もどき……ということは、また魔物か。

 とはいえ、クレシュが大丈夫というなら大丈夫だろう。味も期待できそうだ。

 なにげなく立ち上がってから、体が軽いことに気づいた。よく眠れたし、寝ている間に、クレシュがまた癒しの魔法をかけてくれたのかもしれない。

 焚火の前では、灰の下から掘り出したばかりの葉の包みを、クレシュが熱そうに指先でつつきながら開いているところだった。

 首を落として羽をむしった鳥の腹に、穀類や野菜を詰め、丸ごと蒸し焼きにした豪快な一品。取り分けてくれた椀を受け取り、ためらうことなく口に入れると、ゼノは至福の溜め息を漏らした。

 ──飴と鞭。

 ふとそんな言葉が思い浮かぶ。

 片や至れり尽くせりの休憩時間、片や命がけの過酷な道中。たとえるなら、細い筒に入れられて、上下に激しく振られているような心境だ。

 今日はまたどんな苦難が待っているのやら……と、なかば諦めて朝食を味わっていると、クレシュが言った。

「うーん、今日はこれといってないかなー。退屈な道だなー」

 退屈上等。

 小川で体の汚れを落とし、焚火の後始末をすませ、嬉々として出発する。

 だがゼノは、退屈というものをあなどっていた。

 似たような木々が立ち並ぶ薄暗い森。ほぼまっすぐのわかりやすい一本道。行けども行けども続く同じ景色の中を、ひたすら、地道に、左右の足を交互に前に出す作業。

「なあ……ずっとこんな道?」

「うん、ずっとー」

 ずいぶん歩いた気がするのに、休憩の声はかからない。あまりにも変化がないので、同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥る。前を行くクレシュは見事なまでに規則正しい歩調で、その動きを見ていると、単調すぎて意識が飛びそうになる。

 実際、歩きながら何度かうとうとしてしまい、つまずきかけては、はっと我に返った。

 ──平和だ……退屈だ……。

 一度だけ、道の先に熊が現れたが、クレシュが剣の柄に手をかけると、殺気を感じたのかそそくさと去っていった。

「飽きた……」

「だよねー」

 よもや、きのうのひどい道を懐かしいと思うことになろうとは。

 日光がほとんど差しこまないせいで、ゼノには時間の見当もつかない。

 最初の休憩までに、たっぷり一日以上歩いたような気がした。

 昼までの時間はさらに長く感じられ、つぎの休憩まではさらにさらに長く、時間の流れがどこまでも遅くなっていく。

「まだかー」

「もうちょっとだよー」

「ちょっとって、どれくらいー」

「ちょっとはちょっとだよー」

 やがて、本当にあたりが赤く染まり始め、一気に夜の帳が下りた。

 山鳥もどきのスープで腹を満たし、外套にくるまって横になると、背中にクレシュが張りついてきた。不思議なことに、少しも妙な気持ちにはならなかった。柔らかくて、温かくて、心地よい眠りに落ちていく──。

 さわやかな朝を迎え、出発の準備を終えて歩きだしたゼノは、斜面の下に集落があるのを見てぽかんとした。

「無事に山越えられたねー」

「え? 十日かかるとか言ってたのは……?」

「いやー、おにーさんがんばるから、ふつうの速度で来ちゃったー」

「な……なんだとーっ!?」


 初めの集落を迂回してしばらく行くと広い街道にぶつかり、こんどはその街道に沿って進む。

 往来が盛んらしく、ときどきほかの旅人とすれ違った。進行方向が同じ荷馬車を見かけると、クレシュが引き留めて交渉し、分かれ道まで乗せてもらうこともあった。

 日が暮れかけたころ、小さな宿場町にたどり着き、そこで一泊することにする。

 寝台が二つある部屋をとり、宿の一階の食堂で夕食をすませた。待望の文明社会のはずが、見知らぬ土地ということもあってか、なんだか落ち着かない。宿の食事としては申し分のない料理なのに、クレシュの魔物料理のあとでは、少し物足りない気がした。とはいえそれは贅沢というものだろう。

 旅の汚れを落とし、さあ寝るかという段になって、ゼノは大事なことを思い出した。

 ──待てよ……逃げるなら今夜が好機。というか、今夜しかないんじゃ?

 この近辺は道が多いし、馬を盗むこともできる。明日には、またどんな僻地へ連れていかれるかわかったものではない。つぎの機会がいつになるか……いや、つぎの機会がはたしてあるかどうか。

 ──やっぱり、今夜決行だ。

 先に寝たふりをして、クレシュが寝入るのを待つ。旅の疲れもあり、気を張っていないと本当に寝てしまいそうだ。

 クレシュが規則正しい寝息を立て始め、付近一帯が寝静まったのを確認してから、ゼノは静かに起き上がり、まとめてあった最低限の荷物だけ持って部屋を出た。

 一階の出入口を開けたままではさすがに不用心かと思い、窓から外に出て、一見わからないように閉めておく。ゼノにできるのは解錠だけで、閉めるほうはできないのが、不便といえば不便だ。

 物音を立てたくなかったので、馬は諦め、徒歩で行くことにした。

 幸い月は細く、闇に紛れて、だれにも見とがめられることなく町を出ることができた。

 道に迷わないよう、夜明けまでは街道を歩いていくのがいいだろう。朝になってクレシュが目覚めるころには、充分な距離を稼げているはずだ。つぎの町なり村なりで、交通手段を手に入れて、行き先を考えればいい。

 ──といっても、どこへ行ったものか……。

 元の都には戻れない。大きな街には神殿があるので、すぐに手配がまわりそうだ。空き巣でもしながら、ほとぼりが冷めるまで町から町へと流れていくか。あるいは、危険を冒して都に戻り、蓄えを回収してから田舎に引っ込むか。

 数日前、盗みの片手間に想像したときには魅力的に思えた引退計画が、いまではなんだか色あせて感じられる。元の生活に戻るとしても、はたして前ほど身を入れてできるかどうか、自信がない。この短期間の出来事が、あまりにも刺激的すぎたせいだ。

 ──うわあああ……血迷うな、俺!

 ゼノは心の中で叫んだ。

 ──絶対、確実に、まともな話じゃないぞ! このまま続けたら後悔するのは目に見えてるだろーっ!?

 かといって、このまま逃げても、やはり後悔することになりそうだった。退屈な日々を屍のように送りながら、選ばなかった別の人生を渇望して腐っていく未来の自分が、容易に想像できる。

 ──くそっ、くそっ、くそっ!

 ゼノは足をとめ、頭をかきむしって煩悶した。

 ──ああああ、俺は馬鹿だ、大馬鹿だっ!

 それから大きな溜め息をつき、向きを変えて、来た道を戻り始めた。

 町に着き、出たときとは逆に窓から宿に入って、元どおり鍵をかけ──。

 部屋に戻ると、クレシュが起き上がって寝台に腰かけていた。

「あれ、逃げるんじゃなかったのー?」

 逃亡を黙認していたような口ぶりに、ゼノはまたしても失敗した気持ちになったが、諦めて自分の寝台に体を投げだした。

「なんとでも言ってくれ……俺はもう駄目だ……」

「こっちとしては助かるけどー」

「それはどうかな……戻ってきたって、やり遂げられる気がしないんだが」

「まー、それは、やってみないことにはわからないしー」

「本当は、ここで打ち切るのが最善なのかも……。俺は巻き込まれただけだが、おまえさんたちにとっちゃ大事なことなんだろ? やっぱりやめますとか、できませんでしたじゃ、時間の無駄っていうか……かえって悪いような」

「おにーさん、変なとこでまじめだねー。いーんだよ、そんなことー」

 そんなことをくよくよ考えるのは、クレシュを失望させたくないからだ──と、ゼノはいまさらながらに気づいた。友情や愛情とは少し違う。だが惹かれている。出会ってこのかた、彼女には振り回されてばかりだが、同時に彼女は自分の中の何かを揺さぶった。格好よくいえば、忘れていた情熱、人生の醍醐味──おそらくそういったものを。そして、彼女とともにいれば、これからも何かが見つかるような気がする。

 もちろんそれは、こちらの勝手な願望、ひとりよがりの思い込みだ。

「こんなひどい旅を続けてみたいだなんて、俺もそうとういかれてるよなあ」

「ふふ。勇者のきらめきだねー」

 クレシュの言葉は難しいが、わかったような気もした。

 勇者という人種は、どこか壊れているものなのかもしれない。焼け死ぬ危険を顧みず、炎に飛び込む虫のように──。

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