2-3

 いつ寝たのか覚えていない。

 気がつくと顔に日差しが当たっており、体の上に温かい重みを感じた。

 はっと目を開き、心の中で悲鳴を上げる。

 ──うわああああっ! こっ……これは何事っ!?

 ゼノの上に覆いかぶさるようにして、クレシュが気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 朝日を受けて輝く赤い髪に、天女の寝顔。押しつけられた胸のふくらみ。ひきしまった細い体躯……。

 思わず反応してしまいそうになる自分を必死に律しながら、ゼノはクレシュを起こさないよう、そろそろと体の下から這い出た。

 ──よし、服は着ている。

 双方の着衣に乱れがないことを確認して、ひとまず安堵する。

 正直に言えば惜しい。惜しくないわけがない。こんな美女と同衾できたら……そう考えただけで顔がほてる。だがまずい。これ以上事態をややこしくしたくない。

 うろたえて視線をさまよわせたゼノは、そのときになってようやく、あたりの異様な光景に気づいた。

 地面のあちこちに、得体のしれない塊が落ちている。何かの死骸だ。色も大きさもさまざまだが、いちばん多いのは、針状の毛皮をまとった狼のような魔物。そして死骸の間に散らばる小石。

 視線を戻したゼノは、クレシュのそばに積み上げられた小石の山を見て、状況を悟った。

 彼女は、夜の間に寄ってきた魔物や肉食獣を、石つぶてで仕留めていたのだ。

 ──恐ろしいやつ……。

 ゼノに対して彼女が無防備なのも当然だ。へたなことをしなくて本当によかったと、ゼノは身震いした。

「うーん……おはよー」

 虫も殺さないような顔をして、クレシュがまぶしそうに目を覚ました。

「おっ……おはよう……」

 びびるゼノの前で、クレシュは冬眠から覚めた熊のようにのそのそと起き上がると、鈍重な動きで死骸を拾い集め、何やら選別したのち、猪に似た一体におもむろに小刀を押しあてた。

 ──ひいっ。

 ゼノは慌てて目をそらした。

 恥ずかしながら血は苦手だ。目が怖くて魚の頭も落とせない、蚤の心臓だ。

 それでも怖い物見たさでこわごわ目を向けると、クレシュは熟練の手さばきで皮を剥ぎ、内臓を抜いて、淡々と肉を切り分けているところだった。相手が死骸であることも忘れるほどの鮮やかな手際に、思わず目が釘付けになってしまう。

 ひととおり解体を終えると、クレシュは汚れた手を突き出したまま、ゼノに向かって言った。

「手を洗ってくるから、火を起こしといてー」

「お、おう……」

 森の奥へ入っていくクレシュを見送ってから、ゼノは立ち上がって焚火の方へ移動した。

 癒しの魔法のおかげか、体調は悪くない。筋肉痛は多少あるものの、足は軽く、出発前より元気なくらいだ。

 昨夜の燃えさしに火打石で火をつけ、枯れ枝を足して火を移す。炎が充分大きくなったころに、髪まで洗ってさっぱりした顔のクレシュが戻ってきた。

「すぐそこに湧き水があるから、おにーさんも水浴びしてきなよー」

 言われたとおりに行ってみると、山の斜面の手前に、足を浸せるほどの小さな泉があった。高い位置にある岩の間から、澄んだ水が湧き出して、泉へと流れ落ちている。

 冷たい湧き水を手のひらに受け、喉に流しこむと、心が洗われるような気がした。顔を洗い、手足を流してから、思い直して衣類を脱ぎ捨て、全身くまなく洗い清める。

 生き返った心地で野営地に戻ると、クレシュはその間に死骸の山をどこかに片づけ、焚火の周りに串を刺して肉を炙っていた。

「もしかして、それ……」

「うん、さっきの猪もどきの肉―」

「あれって……魔物だろ? 食べて平気なのか?」

「毒はないよー。魔物っていっても、そのへんの獣と変わらないようなやつだし」

 実際、魔物という呼称は広すぎて漠然としている。生まれながらの魔物もいれば、瘴気にあたって変異したものも魔物。本能に従って行動しているだけの動物的なものから、ある程度知能が高くて独自の文化を持っているもの、人間の亜種のようなもの、巨大な怪獣のようなものまで、種々雑多だ。

 あえて定義するなら、存在の維持に魔力を必要とするものが魔物だといわれている。たとえば、生まれながらの魔物も、後天的に魔物になったものも、魔力を失えば死ぬ。強い魔力を持った人間の魔法使いは、魔力がなくなっても死なない。どうやら魔物にとっては、魔力は存在の根源──生命力や魂のようなものらしい。

 とはいえ、一般的な認識としては、魔物とは忌まわしい力を使って人間を害するもの──その程度のあいまいなものだ。

 ──そもそも、魔力ってのが何なのか、俺にはわからないけどな。

 ゼノは焚火の前に腰を下ろし、肉の串を受け取ってしげしげと眺めた。

 見た目はただの焼肉だ。匂いも問題ない。香草と塩が振りかけられていて、食欲をそそる香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。

 思い切って歯を立てると、芳醇な肉汁が口の中に広がった。

「おお、いける!」

「ねー、うまいでしょー?」

 クレシュのほうは、一本目をぺろりと平らげ、早くも二本目にとりかかっている。

 二人ともしばらく無言で舌鼓を打ち、残った肉は木の葉で包んで弁当にした。

「今日は難所が多いからねー。これ食べてがんばるんだよー」

「う……そうなのか……」

 ゼノはたちまち萎れ、刑場に引かれていく罪人のような気持ちでクレシュの後に続いた。


 それからほどなく──。

 ──馬も通れないって……こういうことかよ……。

 切り立った崖に蜥蜴のように張り付き、壁面を手探りして横歩きしながら、ゼノは懸命に集中力を保とうとしていた。

 ほぼ垂直の斜面を横切るように作られた巻き道。かつてはもっと広かったらしいが、風雨に削られてしだいに細くなり、いまでは大人が一人立てるかどうかの幅しかない。下は底も見えない深い谷。吹き付ける突風のせいで、ともすれば体勢を崩しそうになり、一瞬たりとも気が抜けない状況だ。

 そんな悪路をものともせず、クレシュは子猿のようにひょいひょい進んでいく。

 ゼノは腰に転落防止の縄を巻き、絶壁の要所要所に鉤を打ちつけて縄を移しながら、どうにかこうにかついていった。建物の外壁を移動する要領だが、危険度も恐怖感もその比ではない。

「やるねー、さすが泥棒さん」

 なんとか渡り切ると、そんなふうに声をかけられたが、野生動物なみのクレシュに言われても褒められた気がしなかった。

 つぎの関門は、いわゆる底なし沼だった。

 霧の立ち込める湿地帯で、クレシュが踏んだところをぴったり同じように踏めと言われて、必死に従った。霧が濃くなると、足跡も後ろ姿も見失いそうになる。かと思えば、つかのま霧が晴れ、沼から生えた骨の林が見えてぞっとした。

 湿地帯を抜けたあとの草地で、昼休憩。

 食欲などなかったが、いったん口に入れると、猪もどきの肉が泣けるほどうまかった。肉体よりも精神的な疲労のほうが激しい。このあとどんな難題が待ち構えているかと思うと、もう諦めてここで野垂れ死にしてもいいような気持ちになってくる。

 ──とにかく、目の前のことだけ考えよう。

 自分に活を入れて立ち上がり、一日の後半戦に挑んだ。

 ごつごつ尖って、歩きにくいことこのうえない岩場。縄だけで作られた、いまにも腐り落ちそうな吊り橋。沢の中を歩いてさかのぼり、洞窟を通り抜け、虫にたかられながら藪の中を突っ切った。ついて歩いているだけなので、現在地がどこで、どういう経路を進んでいるのか皆目わからない。自分をいじめるために、クレシュがわざとひどい道を選んでいるのではないかとさえ思えてくる。

 その晩の野営地に到着したときには、ゼノはへなへなと膝をつき、その場に突っ伏して気を失うように眠りに落ちた。


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