第十一章 にわか勇者、勇者になる

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 鎖がばらばらになり、衣服も滑り落ちて、ゼノは崩れた薪の上に倒れこんだ。

 慌てて体を起こそうとすると、いち早く我に返ったクレシュが裸のまま駆け寄ってきた。初めて体験したカイエのほうは、鎖や衣服の残骸になかば埋もれた状態で、ぽかんと口を開けている。

 一瞬の静けさののち、爆発するように悲鳴や喚声が沸き起こった。

 茫漠とした瓦礫の荒野。

 石壁も観覧席も崩れ落ち、外側にあったはずの街もない。巨大な竜巻に蹂躙されたように、地上にあった建造物が見渡すかぎり倒壊している。

 観覧席のあったあたりは、我先に逃げようとした人々がつまずいて転び、石に挟まれて動けない者が助けを求め、助けようとした者がだれかに突き飛ばされ……と、阿鼻叫喚の混乱状態。

 いっぽう広場では、リテルも含めた役人や兵士たちが呆然と突っ立っている。

 そして、その全員が全裸だ。

 深刻といえる状況なのに、その一点がすべてを滑稽な絵図に塗り替えてしまっている。

 ──いまのは……?

 ゼノも唖然として視線を泳がせた。

 自分の声は戻っていない。だがあれは、たしかにはっきりとした声だった。

 と、空から高速で近づいてくる黒い点が見えた。

 黒い翼を広げた鳥? いや、人……?

「お父さん!」

 ぶつかる直前に速度を落としてゼノの胸に飛びこんできたのは、黒髪の少年だった。

 見覚えのない──いや、見覚えはある……が……。

 ──トア……ル……?

 黒い髪に琥珀色の目。その顔立ちは間違いなくトアルだ。だが、きのうよりも明らかに成長している。別れたときは五、六歳の体格だったが、いまは十歳ほどか。そして背中には、陽炎をまとったような黒い猛禽の翼。

 ──いったいどういうことだ? 何があった? いまの声は、まさかトアル……???

「何をしているのですか! 早く火を!」

 リテルの声で我に返った刑吏たちが、足元に散らばった松明の残骸を見て戸惑うように顔を見合わせる。一人が恐るおそる手を伸ばし、まだ燃えている布切れをつまんで薪の上に放り投げると、油でもしみこませてあったのか薪が勢いよく燃えだした。

 ──まずい!

 ゼノがトアルをかばおうとするより早く、トアルが翼を大きく広げ、ゼノたち三人を覆い隠すようにした。

 トアルの背後で激しく燃え上がる炎。だがその熱は翼の内側にまでは伝わってこない。翼自体にも火が移ることはなく、それどころか、揺らめく黒い陽炎が赤い炎を呑みこんで沈静化させていく。

 ──そういえば、擬態竜の皮膚は火に強いとか……。

 以前ユァンがしてくれた説明を思い出していると、はばたきの音が聞こえ、黒い影が空に現れた。

 巨大な黒い鳥と、その足につかまれた茶色の毛の塊。

 巨鳥は毛玉を落とすとすぐ向きを変えて飛び去り、落下した毛玉は地面に激突する前にくるりと身をひるがえして四本足で着地した。

 薄茶色の毛に覆われた大鼬は、もちろんユァンだ。

 ユァンは鼬姿のまま後ろ足で立つと、前足を高く掲げ、身をくねらせて不思議な舞を舞いはじめた。

 喧騒が一気にやんだ。

 その場にいたほぼ全員が動きをとめ、魅入られたようにユァンを見つめていた。

 ゆるやかに舞いつづけるユァン。その舞に変化が生まれたかと思うと、とまっていた人々が夢遊病のように動きだし、緩慢な動作で瓦礫をどけて倒れていた者たちを助け起こす。さらに舞を変えてユァンが歩きはじめると、人々もぞろぞろとあとに従った。貴族も、その家族も、役人も、兵士や刑吏までも──。

 鼬に先導された一行は、そのまま瓦礫の山を越え、廃墟と化した街の住人たちを呑みこみながら大きな流れとなって進んでいく。

 残されたのは、ゼノたち三人と、トアルと──そしてリテルだけ。

「なっ……なんなのですか……いったいこれは……」

 さすがのリテルも衝撃を受けているようだ。

 その背後で小さな音とともに瓦礫が崩れ、血まみれの腕がぬっと突き出した。

「この……っ、クソジジイっ!」

 這い出てきたのは、処刑場に姿のなかったヴァランだ。

 例に漏れず全裸だが、大きな怪我を負っているらしく、腹部を押さえた指の間から赤黒い血が滴り落ちている。

「だましやがって……目的は魔王の申し子だけじゃなかったのかよ……っ」

 ヴァランはリテルにつかみかかろうとしたが、途中で力尽きたようにくずおれた。

「おや、まだ生きていたのですか。さすがにしぶといですね」

 リテルは驚いた様子もなくそちらを一瞥し、冷淡な声で言う。

「魔王の眷属を本当に見逃すとでも思いましたか? 役に立ってくれましたが、あなたももう用済みです」

「てめェ……」

「いいかげん、静かにしてください」

 リテルがヴァランに向かって右手を一振りする。

 だがその先にいたのは、一瞬でヴァランの前に現れたアルテーシュだった。

「……ッ!」

 苦痛に顔を歪めるアルテーシュ。

 一糸まとわぬその腹部に、リテルの腕が深々と突き刺さっている。

「……おやめ……ください……リテル……様……」

 アルテーシュは、焦点の合わない目でリテルの方を見たまま、うわごとのように言った。

「守護する……ことこそが……神の務め……なの……に……なぜ……」

「おまえは、まだそんなことを言っているのですか」

 リテルは心底呆れたという口調で言った。

「人族を滅ぼすと神々が決めた、あのときも、おまえはそんなふうに口答えしましたね。だからわざわざ死地へ向かわせたというのに、おまえ一人が生き延びるとは誤算でしたよ」

 真相を知らされたアルテーシュの目が、わずかに見開かれる。

「ですがそれも、悪いばかりではなかったようです。さあ、おまえに授けた力、返してもらいましょう」

 リテルの言葉と同時に、アルテーシュの体がねじ曲がったように見えた。

 力なく垂れ下がっていた背中の翼が、一瞬まっすぐに広がったかと思うと、濡れた布を絞るように縮れて丸まった。抜け落ちた羽毛が舞い散るなか、瑞々しかった全身の肌がみるみる萎れ、干からびていく。

 逆にリテルのほうは、アルテーシュの腹部に埋まった腕の先から体幹へと、たちまち肉が盛り上がり、それを覆う肌に潤いが戻ってくる。

「おい、やめろ……!」

 カイエとクレシュがとめようと腰を浮かせるが、何かに阻まれて前へ進めない。

 時間を巻き戻したようにリテルの髭が縮んでいき、目つきの鋭い若々しい顔が現れた。アルテーシュと同じ、金属のように輝く銀の双眸。長い白髪が色艶を取り戻し、美しい銀色の流れとなって肩の上を滑った。ほどよく引き締まって均整のとれた肢体は、かなり上背があるように見える。

 月の神だけあってじつに神々しい姿だが、唯一、その背中から生えた翼だけは異様だった。

 羽毛がない。そればかりか、皮膚や肉もない。

 乾いた骨だけが、干からびた筋によってかろうじてつなぎとめられ、きしむような音を立ててぎこちなくうごめいている。

 ──うわ……。

 ゼノはぞっとして、無意識にトアルの体を抱きしめた。トアルもぎゅっと抱きついてくる。

「ふふ……おかげで力が戻りましたよ」

 リテルは残忍な笑みを浮かべると、烏ほどの大きさに縮んでしまったアルテーシュの残骸を腕から振り払った。

「さて、あとはあなたがたの始末だけですね」

 リテルが無造作に足を踏み出した。

 だがもう一歩踏み出す前に、さわやかな風が吹いた。

「あなたの相手は、僕だよ」

 金髪碧眼の優男が言った。


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